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2019.11.21

「起こった出来事を自分のことのように考える」高校生・東北スタディツアー参加報告 諏佐利絵沙

安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

安田 菜津紀Natsuki Yasuda

佐藤 慧 Kei Sato

佐藤 慧Kei Sato

2019.11.21

#tohoku2019

はじめに

長いようで短く、緊張しながらも冷静だった3日間。短期間で想像を超える量の情報、語り、感情を自分に詰め込み、整理が滞って追いつけない場面もあったかもしれない。心に何かが絡まっているような感覚がずっと続いていた。それが何だったのかは、自分でも分かっていない。

自分が幼い頃の震災の記憶に向き合い、その真相を学ぶこと。カメラを片手に訪れた被災地を記録すること。海外の震災・防災と比べてみること。以上の3つが、私が東北スタディツアーに参加した理由である。この理由に見合う帰結ができるのか不安ではあるが、私自身が感じたことをそのまま書き出そうと思う。

上野さん宅にて

上野さんは東日本大震災でご両親と息子さん娘さんを亡くされていて、私は娘さんの永吏可ちゃんと同い年だった。それを知った私はどんな顔をしてその場に居れば良いのか分からず、固まることしかできなかった。

震災当時、ご家族は既に避難したのだろうと上野さんは思っていた。避難所や避難方法、手段が全く分からないということはないだろう。家族の悪い結果などは考えたくもないはずであり、そう考えるのは普通だと思う。そして、上野さんはご家族の顔を見ようと避難所に向かった。しかし、そこにご家族はいらっしゃらなかった。その時の上野さんの心情はどんなものだったか。心配や不安などではなく、恐怖と焦りに襲われたのではないか。いや、実際の感情は、私が理解出来るものではないだろう。

何より印象的だったことは、上野さんが考える「私達へのお願い」。私がこれまで震災についてメディアや先生などから話を聞く時は、亡くなった人のことを考えさせられていた。私はそれが無駄なことだとは全く思っていないが、上野さんの考えは納得せざるを得ないものだった。「震災の記憶は忘れていい。亡くなった人はどんな努力をしても戻ってこないのだから、考える必要はない。悲しい記憶を残すのではなく、教訓を残してほしい。命より大事なものはないから、今ある命を守ることだけを考えてほしい。」

この言葉に、私の今までの考えは覆された。それまでの震災に対する捉え方が薄っぺらいもののように思えてきた。同時に、私の中に風が吹いたように少し、ほんの少しだけ軽くなったように感じた。

大川小学校にて

少し風が吹いている。涼しい。

3月11日までは、普通の小学校。
3月11日以降は、「あの」大川小学校。

壁や床は剥がされ、渡り廊下は捻れて倒れ、見渡すかぎり灰色または茶色。この場所に津波による多大な被害が及んだことは、一目で充分すぎる程理解出来た。しかし、どのようにして子ども達が亡くなってしまったかなどは分かるはずもない。

先生の指示でずっとグラウンドに待機させられていた子ども達は、どんな感情だったのだろう。津波がどんなものなのか知っていて恐怖していただろうか。避難しようと叫ぶ声に耳を貸さない教師をどう思っただろうか。そして津波が見えた瞬間、何を考えただろうか。思考を巡らせても誰も正解を知らない。たった5分山へ歩くだけで助かったはずなのに、こんなにも理不尽に命は失われてしまった…想像するだけでやりきれない。

遺族の佐藤さんが語った願いは、上野さんの願いとは異なっていた。「この出来事を忘れ、風化を進めてはいけない。」 どちらも正しいけれど矛盾している。正誤を判断するのは難しい。

登れば助かっていたはずの山から見た景色は異様だった。風が涼しく吹いている。それに草花は揺れ、音を成す。ひぐらしが飽きることなく鳴いている。周りには何もなく見通しが良い。遠くの山も川も見える。とてもではないが、そこに街があったとは思えない。当時の状況を想像しようと努力しても、その景色と音に阻まれてしまう。そこは実際に津波で大きな被害があったはずなのに、まるで何もなかったかのような感覚に陥ってしまいそうだった。

大川小学校では唯一、千羽鶴が色鮮やかだった。
校門の側に咲くまだ背の低いヒマワリは、揃って校舎の方を見ていた。

牡蠣養殖場にて

漁船は爽快に走り、風に髪の毛も流されて制御しきれないほど。暑い日だったが、漁船に乗ってしまうとそんなことは忘れてしまった。漁船を操縦してくださった佐々木さんは、これまでの語り手の方とは明らかに表情が違っていた。微笑みながら遠くを見ていた。語弊があるかもしれないが、良い意味で涼しい顔をしているような感じだった。

そんな佐々木さんが語るのは、震災後の自分の仕事について。自分の仕事をとても誇りに思い、楽しんでいるそうだ。常に新しいことを行い、それが人との交流や観光に繋がっている。お話を伺いながら、佐々木さんには計り知れない前向きな姿勢があり、リスペクトすべきだと感じた。

陸前高田市内にて

防災士の佐藤さんから、教訓や初めて聞く言葉を多く学んだ。
「高い場所よりさらに高さを求めた避難を行う。」
「内水氾濫ハザードマップ」
「津波てんでんこ…津波が来たら各々別々に逃げる」
「桜ライン311…桜の位置より下に家を建てない」
万国に共通する震災対策として、これらはきっと、ずっと私の頭の片隅に残ることだろう。

民泊にて

私がお邪魔した木村さんは津波での被害を受け、ご家族で避難所での生活を余儀なくされていた。避難所で支給される食糧は毎日クロワッサンばかりで、支給されている分贅沢は言えないが、さすがにもう食べたくなくなる程だったという。電気もしばらく停電しており、1ヶ月ぶりに電気がついた時は、その場の人みな拍手喝采だった。

現在、木村さんは畑でキュウリやトマト、とうもろこしなどを育て、自給自足の生活を送っていらっしゃった。太陽光で発電する設備があり、自家用車も電気エネルギーで動くタイプだった。「ライフラインを失った経験があるから、自給自足を行おうと思った。娘にも人生のいい経験になったと思う。」と仰っていた。

晩御飯はバーベキューをご馳走になった。イカやホタテ、エゾイシカゲガイ、キュウリ、トマト、肉など、美味しいものをたくさん食べさせて頂いた。そして、この陸前高田市は山の幸、海の幸共に豊富なのだと知った。震災時はそれらが失われていたが、再び味わうことができるようになるまで復興したのかとしみじみ思う。

夕食後は、車でさまざまな場所に連れていってくださった。夜で暗かったが、海は波音が止まず、空は見切れる程広い星空が広がっていた。海も山も、星空までもが美しいこの場所をカメラに収めようと私は必死だった。

翌日は早朝に起床し、朝日を拝もうと高台を案内してくださった。すると、船を少し走らせればすぐに届きそうなほど近くで、朝日が昇り始めた。その光が海を縦断して、今にも手が届きそうに感じる。震災当時もこの朝日が毎日のように被災地を照らしていたのかと思うと、なぜかもどかしい。

朝日を堪能した後、再びさまざまな浜辺へ向かった。明るい浜辺では波の様子がよく分かる。岩へ強く打つ波、静かに砂場を上る波。津波はこれらの波が一緒くたに街を追う。木村さんは浜辺に車を走らせる度に、この浜辺からどこまで津波が押し寄せたのか事細かに説明してくださった。確かに辛い過去だったはずなのに、木村さん一家は震災当時のことをまるで思い出話のように分かりやすく、笑い合いながら私達に語ってくださっていた。積み重ねた年月がそうさせるのかもしれないが、そのような感覚でいられるのも悪いものではないと思った。

ツアーを通して

私はこの3日間、何度も泣きそうになった。私は人一倍感情的になりやすいが、それでも語り手の方々の前では泣きたくなかった。街を、家族を亡くされた方々の悲しみや苦しみは、どんなことをしてもそっくりそのまま理解することは不可能だと思う。そんな私が流す涙は安っぽいものであり、被災された方々への無礼でしかないと感じたからだ。

そして、今回語ってくださった方々の記憶を掘り返してしまったことを忘れてはならない。求められるのは、想像力。震災から月日が経ればなおのこと。起こった出来事を自分のことのように考えること。頭の片隅に欠片の想像を馳せるだけで良い。このツアーでそう気付かされた。

私が住んでいるのは新潟県。東日本大地震の時、新潟県では津波の心配など杞憂であり、揺れの被害も報道されるに及ばないものだった。そのせいか、自分達も中越地震や中越沖地震を経験してきたのに、まるで他人事のように考える人は少なくない。このツアーに参加しなかったら、実は私も他人事だったのかもしれない。だからこそ、それを呼びかけるのが、私の役目。まだまだ未熟な写真と言葉でどのように伝えようか。今後の課題である。

震災はたまたまだった。偶然だった。誰も何も悪くない。自然に人間の言葉は通じない。人間に自然の脅威を止める力はなく、その被害は国境も人種も関係ない。そんな偶発的、不可抗力的な震災が、私達にとってどのような「出来事」であり、どのように残すべき「記憶」なのか。そこを辿るところからまた見えてくる景色がある。

2019.11.21

#tohoku2019