Since 3.11

これまでと、これからを写す

“東日本大震災から〇年”

毎年3月が近づくと、そんな言葉をよく耳にします。昨年2021年には10年を迎え、被災地の歩みを伝える報道が、テレビや新聞など、多くの媒体で放送されました。ニュースという言葉は、英語のNEW(新しい)が語源であるという説があります。日々起こる様々なニュースの波に、過去のできごとの多くは呑み込まれ、そして忘却されていきます。けれど、報道が減ったからといって、そこにある日常、そこに生きる人々の存在が消えてしまうわけではありません。取材を通じて頂いたご縁から、私たちが記録させて頂いた日々の写真を振り返ることで、これからも続く一人ひとりの営みに思いを馳せて頂けましたら幸いです。

2011.3.21

数えきれないほどの悲しみと、
破壊の爪痕

「日本で大きな地震が起きたらしい」――そのニュースを耳にしたとき、僕はザンビア共和国に、安田はフィリピンにいました。地震大国である日本では、そんなに珍しいニュースじゃない、そう思いつつ付けたテレビからは、大きな津波が沿岸の街々に襲い掛かる映像が流れてきました。両親の住む街、岩手県陸前高田市は、津波による大きな被害を受けた地域のひとつでした。数えきれないほどの悲しみと、破壊の爪痕の刻まれた街に立ち、自分たちにできることを模索し始めました。(佐藤慧)

2011.3.28

誰のために伝えるのか

何度シャッターを切ったところで、瓦礫をどけることも、怪我をした人を治療することもできない――そう思っていた私が、小さいながらはじめて役割を果たせたと感じられたのが、この松の写真とともに、現地の様子を新聞で報じることができたことでした。けれども、「希望の松」と名付けられたこの松は、いったい誰の「希望」を写していたのでしょうか。首まで波に浸かった佐藤の父は、「7万本の松林が、この1本しか残らなかったなんて……」と、この景色に恐怖を覚えたといいます。いったい誰のために、何のために写真を撮り、伝えるのか。人々の声に丁寧に耳を傾けることの大切さを、今でも考えさせられる写真です。(安田菜津紀)

2011.12.18

いつかアルバムに納められる
写真を残すこと

写真には何もできない――そんな葛藤を抱えていた私が少しずつ始めたのが、日常を記録することでした。学校の入学式や運動会で、いまだ活動を再開できない地元の写真館に代わり撮影すること。日々の写真を残す余裕もない人々に代わって、いつかアルバムに納められる写真を残すこと。そんな写真の大切さに気づかされる日々でした。(安田菜津紀)

2011年の活動

2012.8.7

空の上の人々へ響くお囃子

地元の人々のご縁で、「川原祭組」という、陸前高田市の祭組のひとつにはまらせて(地元の言い方で、“加わる”の意味)頂きました。瓦礫の中から奇跡的に見つかった土車(どぐるま)を土台に、山車の方向転換に使う梶棒(かじぼう)や、お囃子を乗せる本体、夜にはライトアップもされる飾り付けを組み上げていきます。旧暦の七夕である8月7日、空の上の人々に向けて、高らかな笛の音と力強い太鼓の振動が響きました。(佐藤慧)

2012.8.27

それぞれの痛み、悲しみは誰かと
比べることのできないもの

被災当時中学3年生だった小友茜李さんと出会ったのは、川原祭組でのことでした。家族を失った痛みを抱える茜李さんと話す中で、それぞれの痛み、悲しみは誰かと比べることのできない、大切なものであるということに、気づいていきました。(佐藤慧)

2012.9.16

多くの人々の命を奪った海はまた、
多くの命を育むものでもある

漁師の菅野修一さんとの出会いは、私にとって海との出会いでもありました。午前1時、早朝というには早すぎる時刻に、修一さんは船を出します。大海原で、ひとり大自然と向き合うその姿に、夢中でシャッターを切りました。多くの人々の命を奪った海ですが、海はまた、多くの命を育むものでもあるのです。(安田菜津紀)

2012年の活動

2013.6.9

数えきれないほど訪れた
仮設住宅

米崎小学校仮設住宅のみなさんの集合写真。夏は暑く、冬は寒い仮設住宅は、壁の薄さ、狭さもあいまって、心身ともにストレスの溜まるものだったと言います。2017年に解体が始まるまで、数えきれないほど訪問させて頂きました。(安田菜津紀)

2013.6.10

たくさんの命が
奪われてしまった
虚無の真空を、
小さな命たちが癒していく

徐々に瓦礫も片づけられ、広大な街跡には色彩の乏しい茶色の大地が広がっていました。そこにある時期、緑のクローバーが少しずつ広がり始めたかと思うと、あっというまにシロツメクサの咲き誇る、真っ白な花畑が現れたのです。まるで、たくさんの命が奪われてしまった虚無の真空を、その小さな命たちが癒していくような景色に感じられました。(佐藤慧)

2013.11.4

「伝える」写真だけではなく、
誰かのために「残す」写真を

漁師の修一さんの孫、しゅっぺ、こと修生くんの七五三にご一緒させて頂きました。季節がめぐるごとに街はその様相を変えていきますが、子どもたちの成長ほど、そうした時の流れを感じさせてくれるものもありません。「伝える」写真だけではなく、誰かのために「残す」写真を、こうして何年にも渡り撮り続けられることは、今でもとても大切で、幸せな時間です。(安田菜津紀)

2013年の活動

2014.1.12

「おかえり」と迎えて頂ける場所

震災前は、ここに「川原祭組」の活動の中心となる集会所があったといいます。「この階段だけでも、残せねえのかな」と、集合写真を撮るために腰かけたコンクリートの階段を、いとおしそうに眺める人々の姿が忘れられません。この時期あたりから、僕も少しずつ祭組の行事に、カメラを置いて参加させて頂くようになったと思います。「おい、カメラ忘れてるぞ!」と言われることもしばしば。シャッターを切る回数が減った代わりに、「おかえり」と迎えて頂ける機会が増えていきました。(佐藤慧)

2014.2.5

急速に姿かたちを変えていく景色

津波を被った土地のかさ上げのため、山を切り崩し、巨大なベルトコンベアーでその土砂を運ぶ大がかりな工事が続いていました。手前にあるのは、陸前高田市の沿岸に生えていた7万本の松林の一部です。「復興」のための工事とはいえ、目の前の景色が急速に姿かたちを変えていく様子に、どこか寂しさも感じました。(佐藤慧)

2014.8.21

実際にその場に立ち、
人々の話を伺うこと

高校生とともに実際に東日本大震災の被災地を訪れて、写真撮影をしながら被災の状況や復興に向けた取組みについて学び、防災について考える「東北スタディツアー」を、オリンパス株式会社と弊会にて、この年から開催しています。瓦礫の片付けられた市街地跡は、まるで元から何もなかった草原のようにも映ります。けれども、実際にその場に立ち、人々の話を伺うことで、そこに暮らしていた一人ひとりの日常が立ち上がってきます。(安田菜津紀)

2014年の活動

2015.3.17

「復興」と、「悼む」という行為

亡くなった人々を悼むろうそくの灯りが、雪の降る3月に揺らめいていました。冷たい風に吹き消されるろうそくを、一本一本、丁寧にまた灯していきます。一見非論理的に思える「悼む」という行為が、「復興」というものに欠かせないものであると、こうした時間を過ごすたびに思います。(佐藤慧)

2015.5.24

季節ごとの成長にシャッターを切る

米崎小学校仮設住宅に暮らす佐藤さん一家の写真を、その3人の子どもたちの成長の様子を含め、季節ごとに撮らせて頂いてきました。出会った頃はまだ言葉も喋れなかった悠也くんも、保育園、小学校と経て、そして今(2022年)では中学生になりました。写真は仮設住宅の通路でラジオ体操をする悠也くん。(安田菜津紀)

2016.2.23

失われたものを携えていける
“優しさ”を

震災から5年――「まだ復興してないの?」という言葉も耳にするようになりました。「復興」とはいった何なのでしょう。あの日以来、ずっと考えてきた問いです。大規模な土木工事が続き、街は少しずつ形を整えつつあります。けれど、インフラや建物の復旧だけが「復興」の要素ではないはずです。二度と取り戻すことのできないたくさんの命や思い出、景色など、そうした失われたものを携えていける“優しさ”が、「復興」には欠かせないのではないでしょうか。(佐藤慧)

2016.3.18

あの日から続く
“非日常”を伝えていく

佐藤さん一家の長女あかりさんは、地震が発生したあの日、まだ小学1年生でした。震災前に過ごした時間よりも、あの日から続く“非日常”を生きてきた時間の方が長くなろうとしていた時期、あかりさんの小学校卒業の記念に撮った一枚です。今(2022年)では他の地域の人々に、震災の経験・教訓を伝える活動も行っています。(安田菜津紀)

2016.8.11

「なぜ私は、もっと早くこの地を
訪れなかったのか」

初めて南相馬を訪れたのは2012年、すでに震災から1年以上が経った頃、「福興浜団」代表の上野敬幸さんを訪ねるためでした。当時、東京電力福島第1原発の事故を受け、周辺はほとんど捜索の手が届いていませんでした。累々と広がる瓦礫の中、自らの手で行方不明の両親や娘さん、息子さんを捜し歩いた当時を、「地獄のようだった」と上野さんは振り返ります。「なぜ私は、もっと早くこの地を訪れなかったのか」、そんな怒りにも似た感情がこみあげてきたことを思い出します。写真は、上野さんたちが毎年企画している「追悼福興花火」の日。次々を打ち上げられる花火を見上げる上野さん。(安田菜津紀)

2016年の活動

2017.3.17

この街の宝物が、
これからも輝けるよう

2011年4月21日、私は被災した街の写真館に代わり、小学校の入学式で記念写真を残すお手伝いをすることになりました。担当させてもらった気仙小学校の元の校舎は最上階まで波につかり、体育館はガソリンが引火したために黒く焼けただれています。入学する二人の男の子たちが晴れの日を迎えたのは、この学校の図書室でした。そして2017年3月17日、あの日入学した鈴木文也くん(左)と志田蒼生(あおい)くんは無事、卒業の日を迎えていました。「カメラマン、緊張してるのー?」と無邪気に声をかけてくれた6年前。あの頃よりも少し大人びたはにかむ笑顔に、夢中でシャッターを切ります。この街の宝物が、これからも輝けるよう、そっと願いを込めながら。(安田菜津紀)

2017.7.8

四季の移ろいや、
月の満ち欠けで呼吸する海

菅野修一さんをはじめ、漁師の方々と出会わせて頂くことは、人間と自然との営みについて考える貴重な機会にもなりました。震災から数年経っても、ときに心身のバランスを崩しがちな僕でしたが、四季の移ろいや、月の満ち欠けで呼吸する海を見ることで、心の調子の変化もまた、自然な反応に過ぎないのだと肯定できるようになっていきました。(佐藤慧)

2018.2.8

「二度とこういう悲劇を
繰り返してほしくない」

2011年3月11日、危険を知らせる津波警報が防災無線を通して街に鳴り響く中、宮城県石巻市に位置する日和幼稚園の園バスは、子どもたちを乗せたまま、坂を下って海側へと向かっていきました。当時6歳だった佐藤愛梨さんは、このバスに乗っていたため、津波とその後の火災に巻き込まれ、4人の園児と共に犠牲となりました。お母さんの美香さんは、「娘の命を無駄にしたくない、二度とこういう悲劇を繰り返してほしくない」という一心で、自身の経験を伝える活動を続けています。(安田菜津紀)

2018.12.30

その後に生まれた
かけがえのない繋がり

陸前高田市の隣街、住田町には、支援に訪れた全国の医療関係者の方々が宿泊する木造の仮設住宅がありました。その取り壊しが決まった年末、関係者の方から「壁に残されたメッセージを記録してほしい」と連絡をうけ、写真を撮らせて頂きました。数えきれないほどの大切なものが失われた大災害でしたが、その後に生まれたかけがえのない繋がりもたくさんあるのです。(佐藤慧)

2019.2.9

そこに漂う目に見えない何か

仄かに雪の舞う、福島県大熊町を訪れました。除染廃棄物の詰まったフレコンバッグがあちこちに積まれ、人気のない家々は時が止まったかのように静寂に包まれています。いまだ遺骨の一部しか見つかっていない娘の汐凪(ゆうな)さんの慰霊碑に水をあげる木村紀夫さんは、帰還困難区域となっている自宅跡に、今も通い続けています。木村さんとの出会いは何年も前でしたが、こうして写真を撮らせて頂くことができたのは、この時が初めてでした。シャッターを切ることで、そこに漂う目に見えない何かを傷つけてしまいそうで、怖かったのです。その気持ちは今でも大切なものとして、忘れずにいたいと思っています。(佐藤慧)

2019.8.4

小さな命の意味を考える

宮城県石巻市の大川小学校では、東日本大震災の大津波により、全校児童108人中、74人と教職員10人が犠牲となりました。地震発生から約50分もの間、子どもたちは校庭での待機を続け、その後「三角地帯」と呼ばれる近くの橋のたもとに向かう間に津波に巻き込まれたとみられています。6年生だった次女、みずほさんを亡くされた佐藤敏郎さんは、当時、隣町の中学校の教員でした。震災から4年後の2015年、佐藤さんは教員を辞め、現在は「小さな命の意味を考える会」代表として、全国の学校、企業などで講演を行い、大川小学校で起きた出来事についての検証、伝承、そして想いを共有する活動を続けています。写真は「東北スタディーツアー」に参加した高校生たちを案内する佐藤敏郎さん。(安田菜津紀)

2019.12.12

9年目を目前に、
やっとたどり着いた日常

真新しい玄関のチャイムを鳴らすと、子どもたちの元気な声がインターホンから聞こえてきました。玄関があり、台所があり、子ども部屋や居間もあります。あたりまえの家の作りですが、それはこの9年近くもの間、願っても得られなかった空間でした。「最近寒くなってきましたが、仮設と比べると、まるで寒さの質が違うんです。壁ってこんなに温かかったっけと思ってしまったぐらいです」。お母さんの広江さんも、「床が冷たくないのよね!」と顔をほころばせます。「今日は娘が友達を家に呼んでいるんですよ」。家に友達を呼ぶ、それぞれの部屋でくつろぐ、家族でこたつを囲み、小正月を穏やかに過ごす。9年目を目前に、やっとたどり着いた日常でした。(安田菜津紀)

2020.3.20

無言で語りかけてくる震災遺構

宮城県南三陸町の民間震災遺構、高野会館を訪問しました。地域の一時避難所となっていたこの会館では、震災当日、高齢者の方々の芸能発表大会が開かれていたといいます。会館の従業員は震災前から定期的な避難訓練を実施し、非常用の物資の備蓄もあったことや、現場にいた方々の適切な判断などが功を奏し、多くの命が救われました。無言で語りかけてくる建物は、いまだに多くのメッセージを語り続けています。(安田菜津紀)

2020.12.10

廃炉作業の続く
東京電力福島第一原子力発電所

廃炉作業の続く東京電力福島第一原子力発電所を視察しました。津波被害だけではなく、「放射線」という目に見えない脅威に晒された地域は、ただ、朽ちて行く家屋と生い茂る緑だけが、その年月の重みを物語っていました。原子力はかつて、「核燃料サイクル」さえ完成すれば、無限のエネルギーを得られる「夢のエネルギー」と言われていました。けれど2016年12月、高速増殖炉「もんじゅ」の廃炉が決まり、その計画は破綻することになります。原子炉で発生する「高レベル放射性廃棄物」の処分は、世界共通の課題として今も各地で議論が続いています。(佐藤慧)

2021.3.11

死別から思い、感じた様々なことが
今を生きる礎に

10年――それはカレンダー上の区切りでしかありませんが、幾度もの季節を経て、死別に対する思いも時と共に変わっていきました。あの日、母が津波で流され、父はその数年後、心身共に衰弱し亡くなりました。その事実だけを振り返ると、悲しいだけの過去となってしまいますが、その死別から思い、感じた様々なことは、今を生きる僕の礎となっています。写真は自宅跡地にて、父の好きだった地酒と共に。(佐藤慧)

2021.4.3

「理不尽の傍らを黙って通り過ぎる
わけにはいかない」

福島県大熊町で娘の汐凪さんの遺骨を探し続ける木村紀夫さんとともに、沖縄各地で戦争犠牲者の遺骨を探し続けている具志堅隆松さんのもとを訪ねました。具志堅さんの続ける遺骨収集が、どこか沖縄という枠を越えて、より普遍的な「死を悼む」という行為に繋がっていると感じたからです。とりわけ、いまだ土の下に眠る遺骨を探し続けるその姿が、東日本大震災により行方不明となった方々を探し続ける遺族の姿に重なって見えました。具志堅さんは、「理不尽の傍らを黙って通り過ぎるわけにはいかない」と言います。(安田菜津紀)

2021年の活動

2022.1.4

約10年9カ月後の再会

「今、お父さんが掘りだすからね」。遺骨の一部が土から顔をのぞかせると、具志堅隆松さんは穏やかに声をかけつつも、丁寧に周囲の土を払い続けました。福島県大熊町帰還困難区域内、木村紀夫さんの娘、汐凪さんのものと思われる遺骨が見つかったのは、震災から約10年9カ月後の年始のことでした。「親と子が呼び合う力だ」と具志堅さん。長年沖縄で遺骨収集の活動を続けていても、父がその場で娘の遺骨を掘り出す場に立ち会ったことはなかったそうです。見つかった大腿骨を、愛しげに撫で続ける木村さんの目には、うっすらと涙が浮かんでいました。(安田菜津紀)

2022.3.1

未来の世代に
受け継がれていく思い

震災当時、小学校1年生だった佐藤あかりさんは、この春から内陸にある短大に進学し、保育を学びます。高校の卒業式当日、「子どもにも親にも寄り添える保育士になりたい」と改めて意気込みを伝えてくれました。あかりさんは以前から、「防災に関係するような絵本を読み聞かせたい」と、子ども自身が命を守るための知識をつけることの大切さを語っていました。その思いはこれから、未来の世代に受け継がれていくことでしょう。(安田菜津紀)

おわりに

どれだけ写真や言葉を尽くしたところで、2011年3月11日以降の全てを伝えることは不可能でしょう。ここでお伝えしている写真も文章も、ほんのわずかな瞬間を記録したものに過ぎません。けれどそこに写る過去の景色が、今この瞬間と地続きであるということを想像できれば、写真や文章の枠の外にも存在する、人々の存在や息吹、季節のめぐる日々を、少し身近に感じられるのではないでしょうか。

「復興とは何か?」ということを、この11年ずっと考えてきました。なぜ「復旧」ではいけないのか?それは、すでにもう取り戻すことのできない大切な何かを、あまりにも多くの人が失ってしまったからです。その喪失の痛み、悲嘆をどこかに閉じ込めるのではなく、温かく受け止めることのできる社会を築いていくこと――それが「復興」の意味ではないかと、各地を見つめ続けて感じています。これからも、そこで営まれる日々に、祈りに、寄り添うような活動を続けていけたらと思います。

安田 菜津紀Natsuki Yasuda

中東、東南アジア、アフリカ、日本国内で貧困や災害の取材を進める。東日本大震災以降は陸前高田市を中心に、被災地の記録を続ける。TV、ラジオ番組などにもレギュラー出演中。

佐藤 慧Kei Sato

アフリカや中東、東ティモール、自然災害の被災地などを取材。世界を変えるのはシステムではなく人間の精神的な成長であると信じ、紛争、貧困の問題、人間の思想とその可能性を追う。