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遺骨の語る声なき声―沖縄戦戦没者遺骨と新基地建設

壕内で遺骨を探す具志堅さん。(安田菜津紀撮影)
記事中に戦没者の方のご遺骨の写真を掲載しています。

「ほら、これを見てください」。差し出されたものは、黒くすすけた親指の骨だった。沖縄県本島南部、糸満市に残る戦時中の壕の闇の中で、その「誰か」の骨は、76年という時を経て、やっと人の目に触れることができたのだった。

具志堅隆松さんは、これまで40年近くにも渡り、沖縄各地で戦争犠牲者の遺骨を探し続けている。「ガマ(※)を掘る人」――地元の言葉で「ガマフヤー」と呼ばれる、遺骨収集ボランティアだ。特に激戦地となった本島南部では、いまだに「どこを掘っても遺骨が出てくる」という。

(※)ガマ 沖縄本島南部に多く見られる鍾乳洞。主に琉球石灰岩が浸食されてできた自然の洞窟のことで、戦時中には住民たちの避難所や、軍の戦闘陣地、野戦病院などにも利用された。


強制された死

1945年3月、アメリカ軍は1,300隻を超える艦隊を沖縄周辺に集結させ、翌月1日、沖縄本島中部の読谷村(よみたんそん)から北谷村(ちゃたんそん)にかけての西海岸に上陸、凄惨な沖縄戦がここに本格的に始まることになる。

圧倒的な兵力差を前に、首里城に構えられた日本軍司令本部では、「玉砕」か、「南部への撤退(戦闘継続)」かという選択を迫られていた。すでに多くの住民が軍の指示により南部へ避難しており、同じく軍が南部へと撤退すれば、そうした民間人を戦闘に巻き込むことになることは明らかだった。

しかしそれでも軍は、「南部への撤退」を選ぶことになる。その決定の背景には、「本土決戦」に向けた準備のため、沖縄での戦闘を少しでも長引かせ、時間を稼ごうという目論みがあったことがわかっている。そしてそれは、戦争という狂気の中で、数多くの理不尽な加害を生み出していくこととなった。

 住民が避難している地域に日本軍が割り込んだことで、日本軍による住民に対するさまざまな加害行為が発生しました。たとえば、すでに住民が避難していたガマを日本軍が強制的に収用して住民を追い出す「ガマ追い出し」、住民からの「食糧強奪」、子どもの泣き声でアメリカ軍に居場所を知られてしまうことを恐れた「幼児虐殺」―― (中略)  一方のアメリカ軍も、躊躇なく住民を攻撃しました。その結果、戦闘員よりも、本来は保護されるべき住民の方がはるかに多く犠牲になってしまいました。

『ぼくが遺骨を掘る人「ガマフヤー」になったわけ サトウキビの島は戦場だった』 著・具志堅隆松(合同出版)

こうした悲劇の中で、数多くの「集団自決」が起きて行くことになる。あくまで括弧つきの“自決”であり、その中には自ら決断できない幼児らも含まれていたことから、「強制集団死」という言葉も用いられている。

「集団自決」により83名が命を失ったチビチリガマ。(安田菜津紀撮影)

「ある壕の奥でこんな方の遺骨を見つけたことがあります。片足は靴を履いているのに、もう一方は裸足の遺骨でした。その方は小銃の先を喉元にあて、自害したんです。手では引き金に届かないので、足の指で引き金を引いたんですね」

「“生きて虜囚の辱を受けず”という『戦陣訓(※)』、あれはまだ終わってないと私は思います。そうしたことを教育・命令したことは間違っていましたと、きちんと国と確認しなければいけない。ここにいる人々は、“自決”という綺麗な言葉で言い換えられてますが、実際は強制された死だったんです」

(※)戦陣訓 当時陸軍大臣だった東条英機による軍人の心得、『戦陣訓』は、その普及のために「かるた」や歌もつくられ一般に普及していった。中でも有名な一節である「本訓 其の二」の「第八 名を惜しむ」では、「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」と語られており、これを軍人のみならず民間人にまであてはめたことが、沖縄での集団自決の一因となったと言われている。



置き去りにされる命

今回こうして具志堅さんの取材に訪れたのは、ふたつの大きな理由があった。ひとつは、「辺野古の埋め立てに使用される土砂に、遺骨の混ざった土砂が使われる可能性がある」という報道だった。こちらについては後ほどまた詳しく触れたい。

もうひとつの理由は、具志堅さんの続ける遺骨収集が、どこか沖縄という枠を越えて、より普遍的な「死を悼む」という行為に繋がっていると感じたからだ。とりわけ、いまだ土の下に眠る遺骨を探し続けるその姿が、東日本大震災により行方不明となった方々を探し続ける遺族の姿に重なって見えたのだ。

Dialogue for Peopleの記事や動画でも取材させて頂いている木村紀夫さんは、東京電力福島第一原子力発電所の立地する福島県大熊町に家があった。2011年3月11日、津波により父親と妻、次女の汐凪さんが行方不明となる。後に父親と妻の遺体は見つかったが、汐凪さんの遺体だけは見つからなかった。その遺骨の一部が見つかったのは、それから5年9ヵ月後のことだった。

「自分としては、遺骨の見つかる可能性のある場所を、全部探して見つからなければ心の整理もついたと思うんですよね。もう海に行っちゃったんだなあって。けれどここ(自宅近く)で汐凪の遺骨が見つかったことで、別な思いが出てきたんです。汐凪は津波で亡くなったのではなく、直後はまだ生きていたのに、原発事故のせいで捜索ができず、置き去りにされて命を落としてしまったのかもしれないという……」

木村さんは、「帰還困難区域」内の「中間貯蔵施設」として汚染土の積まれる土地の中、いまだに汐凪さんの遺骨捜索を続けている。

国や政府、大きな社会システムの歯車を回す中で、「置き去りにされる命」があるかもしれない――。木村さんのその思いは、沖縄戦で犠牲となり、いまだ壕の暗闇や土の下に眠る多くの遺骨の声なき声に通じるものがあるのではないか。

木村さんに沖縄取材に同行頂くことで、何かそうした目に映らない大切なものが見えてくるように思い、共に沖縄へと飛んだ。



戦没者の命の冒涜

「遺骨の混じった土砂を新たな軍事基地を造るための埋め立てに使うということは、戦没者の命の冒涜だと思います」

具志堅さんは、語気を強めてそう語った。2020年4月、防衛省は、辺野古の新基地建設のための埋め立て工事に必要な土砂を、いまだ多くの戦没者遺骨の眠る沖縄本島南部でも採取する計画を発表した。その需要を見越した先行開発により、沖縄戦犠牲者の遺骨が納められた「魂魄の塔」に隣接する土地が、採石場になるかもしれないという。

「昨年(2020年)の9月ごろ、魂魄の塔の周辺で遺骨の収集作業をしていたのですが、そこに磁気探査の業者が入っていたんですね。開発のために、不発弾の有無を確認している。それで、“この場所は何になるんですか?”と尋ねると、“採石場になる”という答えが返ってきたんです」

鉱山予定地でも遺骨が見つかっていることを説明する具志堅さん。(安田菜津紀撮影)

2016年に施行された「戦没者遺骨収集推進法」では、その第三条(国の責務)にて、「国は、戦没者の遺骨収集の推進に関する施策を総合的に策定し、及び確実に実施する責務を有する」と明示されている。今年1月22日の参院本会議にて、菅首相はこの件を問われ、「採掘業者においてご遺骨に配慮したうえで土砂の採取が行われるものと承知している」と回答した。

参考:「戦没者の遺骨収集の推進に関する法律」

「骨は白いと考えがちですが、土から掘り起こされた骨は土と同じ色をしています。そうした遺骨と石灰岩を見分けることは、とても難しいことです。また、遺骨の混じった“表土”は採掘する土砂とは別にとっておくから遺骨に問題はない、という言われ方もしますが、そもそもそのように表土を剥いだ時点で、遺骨の“個体性”が失われてしまうんです」

遺骨の“個体性”とはどういうことか――。冒頭で、ある遺骨の見つかった状況を紹介したが、それぞれの遺骨はひとつとして同じ状況で亡くなったものはない。うつ伏せなのか仰向けなのか、手足は全部揃っているのか、周囲にはどのような遺骨や銃弾、手榴弾の破片などがあったのか。そうした状況全てが遺骨の生前の姿を伝える貴重な情報なのだ。仮に表土を重機で剥ぎ、その後丹念に遺骨を分離、鑑定していっても、そうした情報は永遠に失われてしまう。

遺骨と共に多くの遺留品が見つかる。(安田菜津紀撮影)

具志堅さんは遺骨収集を続けるうちに、壕の奥で見つかる遺骨は「上半身のないもの」が多いことに気づいたという。はじめは、戦後に壕内が荒らされて遺骨が散らばったものだと思っていたが、あるとき、糸満市摩文仁の海岸に面したガマで、信管に打撃痕の残る手榴弾を発見したことで、その理由に気づくこととなった。

「手榴弾の信管を叩いたら、数秒で爆発します。敵を攻撃するためだったら、たとえ不発であっても、その手榴弾は敵がいたであろうガマの入り口あたりに転がっていたはずです。なぜ、不発になった手榴弾が遺骨のそばから出てきたのか……」

その遺骨を丁寧に掘りだしていくと、下半身は揃っているのに上半身がないことがわかった。少し離れたところから出てきた上半身の骨は、どれも短く割れている。不発だった手榴弾には2方向から叩いた痕跡が残っていた。一度叩いて爆発せず、もう一度信管を叩いたが、それでも爆発せず、もうひとつの手榴弾で“自決”したことがこの遺骨の残されていた状況から窺い知れる。

“生きて虜囚の辱を受けず”――天皇のために死ぬことは名誉であるという教育が、不条理な自殺の強要を推し進めていった。

こうした遺骨の語る声なき声が、「表土を剥ぐ」ことによって失われてしまう可能性がある。また、遺骨は表土だけに眠っているわけではない。琉球石灰岩は雨水で浸食され、地下に空洞ができることがある。問題となっている採掘予定地の側にはドリーネと呼ばれる縦穴がいくつもあり、その中でも遺骨が見つかっている。

「遺族の中には、未だにトラウマにより南部に足を踏み入れることができないという人もいます。もし仮に、絶対に遺骨がまざることがないとしても、これだけ人が殺された土地の土を、新たな軍事基地の建設に使うということ自体が死者への冒涜だと思います」



祈りながら、念じながら撮ってください

「南部はどこからでも遺骨が出てくる」という具志堅さんと一緒に、実際に遺骨の残る現場に向かった。田畑の間に走る道路脇に車を停め、草の生い茂る道へとわけいっていくと、切り立った崖の側面にぽっかりと口を開けた壕が見えてきた。

人ひとり入れるような入り口の穴を降りると、ひんやりとした空気が満ちている。高さ170cm前後、横幅は広いところで2メートルの横穴が伸びている。ヘッドライトに照らされた僅かな視界以外は、静かで冷たい暗闇に沈んでいた。ところどころ壁や天井が剥がれ落ち、劣化が進んでいる。具志堅さんが壁際に置かれた黒い物体を指差し、「これは日本軍の靴です」と説明する。靴底のかかと部分だけが、真っ黒になりながらも形を留めていた。

少し奥に進むと、昨夜の雨が染み込み、床面が濡れていた。そのぬかるんだ土の上に、細かな破片が積み重ねられている。「当時の人々が使っていた陶器の破片と、ご遺骨です。先日見つけたものをここにまとめておいたんです」。

軍靴とともに見つかったという中足骨、肩甲骨に繋がる球関節などが、無言で積み重ねられている。この骨の持ち主は、いったいどのような人だったのか。どのような人生を送り、どんな最後を迎えたのか。「戦没者の遺骨」という曖昧模糊とした言葉から、急に実在した人間の存在が浮かび上がってくる。周囲の土の下に無数の遺骨が眠っていると思うと、「もしかしたら今そうした遺骨を踏みつけているのではないか」と、この場にいること自体が申し訳ないような思いに駆られた。

「これは……石ですね」と、具志堅さんは、手にした破片を丁寧に指で確かめていく。小さな土色の破片は、素人目には骨か石か、見分けがつかない。「特にこの辺りの骨は、火炎放射を受けて亡くなった人々の遺骨なので、炭化しているんです」。そう言って差し出された遺骨を持ってみると、デッサン用の木炭のようにスカスカと軽い。

「遺族じゃない自分が骨に触っていいのかという思いは私もありました。けれど、こうしてこの暗闇の中でずっと待っている遺骨があるんです。遺族ではなくでも、誰かが関わっていかないと、ずっと暗闇の中で待ち続けることになるんです」

30分ほど壕の中にいただけだが、それでもいくつもの遺骨が見つかった。そしてそれは、壕の内部だけのことではない。壕の入り口付近を見渡してみると、当時の日本軍の飯盒(はんごう)や眼鏡、陶器の類と共に、数多くの遺骨が見つかった。

中でも衝撃的だったのが僅か数ミリの「乳歯」だ。まだ歯の生え変わっていない3~4歳の子どもの乳歯が、壕の入り口すぐそばに落ちている。そしてそれと一緒に、米軍の小銃弾の薬きょうや手榴弾のリングが散らばっていた。壕の前で戦闘があったということを、この残された遺物が物語っているのだ。

壕の入り口で見つかった乳歯。(安田菜津紀撮影)

福島から同行した木村さんも、その様子に息を呑む。いったいここでどのような光景が繰り広げられたのだろう。こうした遺骨にレンズを向けること自体、なにかとても不遜なことなのではないかと、手が震える。

「以前、遺骨にカメラを向けるということをどう思うか、メディアの人たちに話したことがあります。この人たちは、どこの誰かわからないんです。それを伝えてもらうことで、もしかしたらその遺骨の遺族に届くかもしれない。もしかしたら、その誰かの生まれた家の居間で、その写真の載った雑誌や新聞が開かれるかもしれない。テレビを通じて、そこと繋がれるかもしれない。メディアというものは、たとえ遺骨の姿であったとしても、そうした人々を家に送り届けることができるかもしれない可能性を持っているんです。だからこそ、遺骨をカメラに収める際には、そうしたことを祈りながら、念じながら撮ってくださいとお願いしています」



「命の尊厳」に向き合い続ける

壕からの帰り道、終始無言だった木村さんが、自身の続ける遺骨捜索についてどう思うか、具志堅さんに尋ねた。木村さんはかねてから、「帰還困難区域」内でひとり捜索を続けるのは、自分だけのエゴではないかと悩んでいたのだ。ひとりのエゴのために、多くの人に迷惑をかけているのではないかと感じていた。

その言葉に具志堅さんは、力強くこう返した。

「それは遠慮することじゃないですよ。当然の権利です。確かに中には、“ひとりの意見でもって全体の利益を損なうな!”という発言をする人もいるかもしれませんが、ひとりの人間を大切にできないのに、みんなを大切にできるわけない、と私は思います。もし必要でしたら、一緒に声をあげますよ。東日本大震災の行方不明者の捜索は、いつか行こうと思っていたんです」

具志堅さんに思いを語る木村さん。(安田菜津紀撮影)

本土の捨石として苛烈な戦争に巻き込まれていった沖縄で、40年近く遺骨を収集し続けてきた具志堅さんの行為と、原発事故により汚染された土地で大切な人を探し続ける木村さんの行為は、大きな社会構造の中で零れ落ちがちな「命の尊厳」に向き合い続けるという、祈りの様な捜索を通して繋がっているのではないだろうか。

「こうした不条理が、大熊だけではなく沖縄や、他の多くのところで起きているのではないかと感じました。福島だけではなく、そうした現実に向き合っていきたいと思いますし、多くの若い世代にも、このような問題に関わってもらいたい。とても勇気を頂ける出会いでした」と、木村さんは今回の滞在をそう語る。

具志堅さんは、「生きるために戦争を学ぶ」必要があるという。なぜこの人がここで死ななければならなかったのか。戦争に賛美すべき死などあるのか。戦没者は「英霊」と祀られることを本当に望んでいるのか。国家とは国民にとって何なのか。

木村さんもまた、人間の営為により引き起こされた原発事故と向き合い、社会の在り方、生き方を考える場所として、現在「帰還困難区域」となっている大熊町に、いつか祈念公園を造りたいと考えている。

こうした問いを、「自分とは関係のない問題」としてただ受け流すのではなく、社会全体の構造的な問題として考えていくことが、今求められているのではないだろうか。

     

※証言の聞き間違い部分を一部修正しました。(2021年4月29日)

関連映像:【取材報告】沖縄『遺骨の語る声なき声』-沖縄戦戦没者遺骨と新基地建設 _Voice of People_Vol.8 (画像をクリックすると動画が再生されます。)




Writerこの記事を書いたのは
Writer
フォトジャーナリスト / ライター佐藤慧Kei Sato

1982年岩手県生まれ。認定NPO法人Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル/D4P)フォトジャーナリスト。同団体の代表。世界を変えるのはシステムではなく人間の精神的な成長であると信じ、紛争、貧困の問題、人間の思想とその可能性を追う。言葉と写真を駆使し、国籍−人種−宗教を超えて、人と人との心の繋がりを探求する。アフリカや中東、東ティモールなどを取材。東日本大震災以降、継続的に被災地の取材も行っている。著書に『しあわせの牛乳』(ポプラ社)、同書で第2回児童文芸ノンフィクション文学賞、『10分後に自分の世界が広がる手紙』〔全3巻〕(東洋館出版社)で第8回児童ペン賞ノンフィクション賞など受賞。

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