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「“乗り越える”ということではないんだ」―街の医療と共にあった震災後11年間での気づき

2011年3月、朝日に浮かび上がる岩手県陸前高田市の街は、一体どんな営みが存在していたのか、想像することさえできないほど、色彩を失っていた。泥をかぶり灰色と化した市街地を歩くと、「瓦礫」と一言でくくられてしまうものが、生活の痕跡のかけらであることに気づく。窓ガラスが粉々になった車にはどんな人が乗っていたのか、この歯ブラシは誰のものだったのか――。一つひとつの手がかりが、物言わず何かを語りかけてくるようだった。広範に被災した東北沿岸の中で、この街を目指したのには理由があった。当時、私の義理の父、佐藤敏通と、義理の母、淳子がこの街で暮らしていたのだ。

義理の父が勤めていた県立高田病院。(2011年3月)

震災から数日後、義理の父とは連絡がついていたため、私たちは義母の足取りを追った。義母の名前はいくつもの避難者名簿で見つけることができた。けれどもどの避難所を巡っても、その姿を確かめることはできなかった。やがて避難者名簿にあがった名前は、すべて同姓同名の別の避難者だということが判明した。ほどなく、その足は避難所ではなく、遺体安置所に向かうようになっていた。安置所に通う、ということは、生きている望みを手放すことでもあった。

3月末、線香の匂いの立ち込める隣町の安置所には、棺を無言で覗き込んで回る人々の姿があった。同じ日、義父の勤めていた県立高田病院の院長、石木幹人(いしき・みきと)さんも、妻のたつ子さんを探しにこの場を訪れていた。全ての棺を回り切った頃、ふと石木さんの姿が見当たらないことに気が付いた。「見つかったんだね…」。義父がぽつりとそう呟いた。

義理の母が、川を9キロもさかのぼった瓦礫の下から見つかったのは、その約1週間後のことだった。

義理の母の遺影。自宅跡地にて。(2013年5月)

その後義理の父は、2015年に、震災後身を寄せていた栃木の親族宅で息を引き取った。葬儀などの連絡のために、義父の携帯電話を確認すると、かかるはずのない義母の番号に、何度も、何度も電話をかけていたことに気づく。会いたくてたまらなかったのだろう――その悲しみの深さが、愛情の深さであったことを、改めて痛感した。

「医療につながっている」という安心感

義父の災害時のトラウマは深く、陸前高田から離れた後、思うように街に近づけなくなってしまっていた。戻ろうとすると、呼吸が苦しくなる、手が震える、その繰り返しだった。それでも最後まで、県立高田病院に戻り、また当時の「仲間」たちと医療に携わりたいと願ってもいた。

そんな義父を、最初に県立高田病院に誘ってくれたのが、当時の院長の石木さんだった。

石木幹人さん。広田診療所の前で。(2022年3月)

「僕が赴任した当時はね、“高田病院に行ってもしかたがない”って、市民の中で悪評が根強かった頃だったんですよ」。石木さんは2004年に赴任した当時のことを、そう振り返る。経営は苦しく、その前年は5億円の赤字だった。石木さんはすぐに、「日本一高齢者に優しい病院」を掲げた改革に着手する。

病院でただ待つのではなく、地域に自ら出向くことを心がけた。市内11のコミュニティをまわり、健康維持のための講座などを続け、そこで出た意見を聞きながら診療に反映させる。その活動を義父も共にしてきたという。

地域との連携も進めた。例えば、肺炎の治療が無事終わったとしても、家族からは「トイレまで歩けていたのが歩けない状態になっちゃ退院できないよ」というような、生活維持への不安の声が届く。

「患者さんが入院前はどんな状態だったのかということを把握して、入院した当初から術後のリハビリも視野に入れて対応するためには、それをよく分かっているケアマネージャーさんの存在が欠かせません。病院として、ケアマネージャー、訪問看護師さんと連携を強化していきました」

そうした取り組みが積み重なり、だんだんと外来が増え、4年ほどで病院は黒字となった。「医療につながっている」という安心感が、徐々に広がっていったのではないかと石木さんは振り返る。それが、震災前年のことだった。

凍える屋上での一晩

2011年3月11日、大津波は県立高田病院の最上階である4階まで及んだ。患者の横たわるエアマットが波に浮き、義父はその4階で首まで波につかりながら、手動式人工呼吸器で患者の救急対応を続けたそうだ。

義理の父が撮影した県立高田病院4階からの光景。(2011年3月)

「階段を駆け上がる自分の足元を追うようにして、津波の水位がひたひたと上がってきました。自分はギリギリ波を被らず屋上に避難できたので、夜はなんとかゴミ袋をかぶるだけの防寒で済んだけど、佐藤先生(義父)みたいに波に浸かった人は、オムツを体に巻いて寒さをしのいでいましたね」

その夜、160人以上が屋上にあがったものの、階段から続く屋内のスペースには全員入ることができず、30人ほどは外で過ごしていた。

「中にいても、しゃがむのも申し訳ないくらいの状態で、私は立ちっぱなしでした。“少しでも休んで”と声をかけられて、やっと30分ほど膝を曲げたくらいです」。

なぜここにいる以上の、もっと多くの人たちを助けることができなかったんだろうか――医師として、そして副医院長として、義父は自分を責め続けたという。その日非番だった人を含めると、職員は12人、入院患者は16人が犠牲となった。

震災当日を振り返る石木さん。(2022年3月)

漆黒の闇に包まれる街の上空を、時折ヘリが飛び交う音が響いた。

「ここに人がいることを分かってもらわなければならない、と思いました。辛うじて電波の通じる携帯には、東京などでも犠牲者がいるとニュースで届いていました。東北沖が震源地であることもわからなかったので、他の地域でも大きな被害が出ている中、陸前高田など後回しになってしまうのではないかという不安がありました」

病院には衛星携帯電話があったものの、通話が高額であるため、普段の避難訓練では使わなかったことが悔やまれたという。「衛星携帯電話を持ってあがれ」と指示を出した事務長は津波に呑みこまれてしまい、せっかく手元に衛星携帯電話があっても、誰も電話の使用法が分からなかった。使い方の分かる人間が複数いなければならないのだと痛感した。ヘリが頭上を通る度、大きな懐中電灯で精一杯の合図を送った。

夜明けと共に、朝日が照らし出した街の風景は、見渡す限りの瓦礫に覆われた残酷なものだった。朝10時頃、ようやく救助のヘリが到着し、「一人だけ吊り上げられる」と伝えられたため、義父がその後の医療体制確保のため、先に病院屋上を後にする。その後、高田病院にいた患者のほとんどは、内陸に搬送されていった。

震災の翌朝、県立高田病院の屋上。関係者撮影。(2011年3月)

緊急医療活動、そして遺体安置所へ

県立高田病院の関係者は、市内米崎町にあったコミュニティセンターに移り、そこが臨時の診療所となった。医療者がいるという話はすぐに広まり、3月13日には50人近くがセンターを訪れ、翌日はさらに患者の人数が増えた。けれども、血圧計も聴診器も、何もない。義父が内陸の診療所などからかき集めてきたわずかな薬を頼りに、診療を続けた。その間、石木さんは市内各地の避難所を巡った。橋が落ち、川で街が分断されていたため、普段は車で10分ほどの道のりが、時には1時間近い遠回りを強いられることもあった。

外科医だった義父は当時、釘を踏み抜いてしまった患者を複数人、診療したという。みな、危険だと分かりながら自宅跡地に戻った人だった。探していたもののひとつは貴重品、もうひとつは、大切な人との思い出が詰まった写真だった。

病院スタッフにはやらなければならないことが山のようにあった。目の前のことに追われながら、夜はみなコミュニティセンターの大部屋で雑魚寝した。ところが3月16日、石木さんは寝泊まりしていた部屋の端で、義父が毛布をかぶって動けなくなっていることに気づいた。

「どうしたんだ、と声をかけた時、“お前、やりすぎだよ”と言われてはっとしたんですよね。このままのペースではだめだ、と」

義父はいわゆる「バーンアウト」(燃え尽き症候群)状態だった。彼だけではない。スタッフの中には、初任地として高田病院に勤務していた看護師もいた。

「みなを一度解放しなければならない、と思いました。早い段階で救護所が複数立ち上がり、県外からの応援も入ったチームに任せられるような仕組みを作って、一度スタッフの休息を確保しました」

2011年3月21日、陸前高田市の隣町の診療所で再会した石木さん(左)と義父。

奔走している間にも、近所の人々と顔を合わせると、亡くなった人々への様々な思いがついてまわった。高田病院スタッフ全員の休息期間を確保した石木さんが、つかの間の休みを得て向かったのは、それまで訪れることができていなかった、遺体安置所だった。あの日から、妻のたつ子さんの行方がわからなかったのだ。

時の経過とともに、遺体は日々傷んでいった。はじめは開けられていた棺の窓も、3月末には閉められたものが多くなり、代わりにその遺体の身に着けていたものなど、特徴を記した紙が貼られていた。そして、とある棺の前で石木さんは立ち止まった。そこには、たつ子さんの大切にしていた白い靴のことが書かれていた。

「妻の好きなブランドの靴で、その中でも非常に珍しい色の靴だったんです。これはもしかして、と思い、確かめました」。そしてそれは、たつ子さんだった。

4月4日、休息期間を終え、再集合したスタッフと打ち合わせを済ませた後、火葬場でたつ子さんを見送った。

「もう生きてはいない、という覚悟はできていたので、“見つかってよかった”というのが一番の思いでした。見つかっていないと、いつまでも宙ぶらりんの状態になるわけですから」

頭をよぎったのは、昔、飼っていた猫が交通事故で亡くなった時のことだった。近所の人が「これ、お宅の猫でないか?」と連れて帰ってきてくれた時、「よく帰ってきてくれた」と涙するたつ子さんの姿が思い出されたという。

県立高田病院の官舎跡地で。(2015年3月)

“乗り越える”ということではない

石木さんは県立高田病院の院長を退任した後も、陸前高田の医療に携わり続けてきた。定期的に開催していた健康教室では、劇なども通して、減塩など、日常の中で実践できる取り組みを伝えてきた。2022年3月10日までの1年間は、陸前高田市の半島に位置する広田診療所の医師を務めた。

ブラックジャックに扮する石木さん。(2015年11月)

多忙な日々を送りながら、石木さんは「悼む」という、大切な人との死別とゆっくり向き合えるひと時はあったのだろうか?

「最初のうちは集団生活だったから、涙を見せることもできないような状態でしたね。でもその後、色んな人から『先生あの時泣いてたよ』と言われたりもしたので、自分でも無意識のうちに涙を流していたのかもしれませんが……。それでも、ひとりになるとどうしようもなく涙が出て来てしまうことがあることは自覚していました。なので、ひとりで車を運転するのは危険だなと、他の街への出張などの際は、誰かに同乗してもらうようにしていましたね」

被災した直後は、市内を移動していると、「ここでこんな話したな」と、その都度たつ子さんのことを思い出して辛かったという。「特に、海を見るとどうしても震災のことを思い出してしまうのでしんどかったです。今はまた、少し違った心持ちで風景を眺めていますが、しばらくは海の見える道路は走りたくありませんでしたね……」。

時折メディアでは、大切な人との別れやその悲しみを“乗り越えた”人の物語を目にする。けれどもその感情は、単純に“乗り越える”ことができるものだろうか。

「“乗り越える”という思いは、最初の頃はあったと思います。ある時、県外から応援で入ってきていた80代の精神科の先生に、“辛い体験というのは絶対に忘れないのよ”と言われたことがあったんです。その方は東京大空襲を経験していて、その時の記憶は忘れることができないとおっしゃっていました。でも、そう言われて気づいたんですよね。“乗り越える”ということではないんだ、“ここまでくればそういう思いをしなくて済む”、というのは無いんだなと。そう気づくこと自体が、もしかすると私にとって、ある意味での“克服”だったのかもしれません」

高台から見た陸前高田市の気仙川河口付近。(2022年2月)

震災前から数えて、18年間に渡り陸前高田市の医療に関わり続けてきた石木さんは、現在の診療所での仕事を終えた後、しばらくは一度、自宅のある盛岡へと戻るという。

「忙しく診療を続けてきて、じっくり腰を据えて学ぶということができていなかったんです。最新の医療のことだけに限らず、一度学びを深めて、またどこかで医療に携われたらいいなと思っています」

震災から11年――。その年月の中で歩んできた歩幅や、感じてきた思いはそれぞれ違う。石木さんのいうように、「悼む」という行為は終わりのないものかもしれない。けれども、だからこそ、それぞれが自分のペースで歩んで行けるように、ひとつの「悲しみを克服する物語」を押し付けずに、一人ひとりの声に耳を傾けていきたい。

(2022.3.16/インタビュー 安田菜津紀 ・ 写真 安田菜津紀、佐藤慧)


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