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【取材レポート】「それぞれの声に耳を傾ける」 台風19号の被災地を訪れて

date2019.11.1

writerD4P取材班

category取材レポート

10月12日から13日にかけて、広域の被害をもたらした台風19号。全国で死者・行方不明者は100名を超え、浸水による住居・建物被害は87,000棟近くにのぼる*1。追い討ちをかけるように週末には大雨がふり、再びの冠水に見舞われたところも少なくない。
発災から2週間が経過する中、被害のなかった地域は「いつも通りの毎日」に戻っていく。雨雲とともにこのまま関心も過ぎ去ってしまってよいのだろうか- そんな思いから、長野県北部の千曲川流域を訪れた。

発災まもない現地の様子。水が引かず、家に戻れない人も大勢いた。(写真提供:災害NGO結)

堤防の決壊場所にほど近い、長野県長野市穂保地区。果樹畑と住家が混在するこの地域に水が押し寄せたのは13日未明のことだった。「状況がわからなかったから、車で家に逃げようとしたんだ。そうしたら途端に水がこちらに向かってきてね。あっという間に膝の下まできて。もう、逃げられないかもしれないと思いながら、必死に走ったんだよ」。堆く積み上がる災害廃棄物と泥の山を前に伺う、住民の方の被災体験は凄まじい。
周りを見渡すと、道路は泥だらけ、本来ならば収穫の時期を迎えるりんごの木も泥水に浸かり、畑には泥にまみれたりんごや農機具のみならず、車両や何処かから流されてきたとみられる家財なども散乱している。
住家の浸水被害は深刻で、ほとんどのお宅で床上1mを超えており、居住空間がないと言っても過言ではなく、非常に厳しい生活環境を強いられている。そのため、避難所に身を寄せる方も多いが、片付けのためにより住宅に近い場所を選ぶ世帯が増えた結果、適正な規模の2倍以上の人で溢れてかえってしまっているところ、また、一時は収束したと思われたものの、親戚の家などに仮住まいをしていたが様々な事情で再び避難所に戻り、増加傾向になっているところなど、その状況は様々だ。
穂保地区を歩いていて特に目につくのは、人力で積み上げたとは思えないほどの大きな災害廃棄物の山である。域内のあちこちに存在するこれらの集積場所は、廃棄物の量に撤去が追いついていないことを物語っている。自衛隊や、重機を専門的に扱うボランティアの活躍で、少しずつ景色は変わっているものの、今回の台風被害で比較的ボランティア参加者数が多いと言われる長野ですらこの状況。他県の支援不足は容易に想像できるだろう。

堤防に寄せ集められた災害廃棄物 街中に存在する山の中には2mを超える高さのものもあり、危険な状態

刻々と変わる現地の状況に「寄り添ったよりよい支援」がなされるべきだ、という意見は正にその通りだが、ところでその「支援」とは、誰が、どこで、どのようにして決定し、実施されるものなのだろうか。

行政には発災後被害の度合いに応じて適応される「災害救助法」や防災計画などを定めた「災害対策基本法」などのルールがあり、国や都道府県、市町村はこの定めにしたがって、救助活動や避難所の設置、各種の救援制度の運用を行う。また、多くの場合、各自治体の社会福祉協議会は中央共同募金会による「災害等準備金」などを活用し、災害ボランティアを調整する「災害ボランティアセンター」の開設、運営の役割を担う*2。NPO(非営利団体)は、各々の団体の特色を活かし、先遣隊による独自の調査活動を経て、支援内容、支援先、期間を決めて活動に乗り出す。
「ボランティア元年」と言われる1995年の阪神・淡路大震災以降、2004年の新潟県中越地震、2011年の東日本大震災、2016年の熊本地震など数々の大規模災害で、ことあるごとに行政・社協・NPOの三者間の「連携」「協力」の必要性が叫ばれてきた。
ただ、それぞれのルールと役割を理解しないままでは、それはあくまで理想的な“概念”でしかない。2016年に国内災害における支援調整機関として立ち上がった「全国災害ボランティア支援団体ネットワーク(JVOAD)」の事務局長の明城徹也さんは「連携の鍵は“人”である」と話す。

「国内で支援調整を主として担う団体や人材はまだ少なく、体制作りが急務」と語る明城さん

「東日本大震災ではたくさんの支援者が現地に駆けつけましたが、最初のうちは行政も、NPO間でさえもなかなか互いの役割を認識することが難しく、連携を図るまでに多くの時間を要してしまいました。また、関係者との情報共有の場をつくることも困難で、たくさんの反省と学びを得ました。そこでJVOADでは、国や自治体、NPO同士が『顔の見える関係』を育むことができるよう、普段から県域単位でのネットワークを作りながら、支援の抜け・漏れをカバーできる体制を整えることに力を注いでいます。ネットワークを作る上で一番大事なのはコーディネーター(調整役)の存在です。概念だけではなく、人を通じて役割を認識することが連携の潤滑油になります。実は、長野ではこの9月の防災訓練で一緒にシミュレーションと研修を行なっており、発災後すぐに国、県、社協、市、NPO等の会議を設けることができました。日々課題や今後の計画をその場で協議・検討しているようです。日頃からのコミュニケーションが果たす役割は本当に大きいと感じています」。

各省庁、県、市、社協、NPO等の共有会議の様子。災害廃棄物の撤去の進捗報告や今後の支援計画などを報告、協議している

話を穂保地区に戻そう。地区を回る中で、一人で黙々と片付け作業を行う男性に出会った。
尾崎和美さん(67)。2階建ての自宅の1階が床上浸水に見舞われ、裏庭の倉庫や車も被害を受け、現在は避難所に暮らしている。新潟県の栄村や福島県での災害ボランティアの経験もあるという尾崎さんはこう語る。
「今までにいろいろなところでボランティアをしてきましたが、まさか自分がこうなってしまうとは思いもよりませんでした。水を吸った畳ってとにかく重くてね、そして何枚もあるし、一人では持ち上げられないんですよ。泥もそう。一人でやっているとなんだか気も滅入ってしまってね」。この話を聴いて、わずかな時間だが尾崎さんの清掃作業の手伝いをすることにした。
泥に埋め尽くされた倉庫から、大事そうに出してこられたのは、長野オリンピックの記念バッジと記念写真だった。ピンバッジは水洗いで泥を落とし、写真は無理に剥がすとプリントされたものが溶け出してしまうため、扱いに気をつけながら乾燥させる。作業をしながら、写真を撮ったときのこと、ピンバッジを集めるだけではなく自ら作ることになった経緯など、様々なお話しを伺った。

1998年に長野で行われた冬季オリンピック。「これはきっと驚きますよ!」と見せてくださったアルバムには、メダリストなどの写真が大切に綴られていた

尾崎さんのお話に耳を傾けるうちに、思い出した言葉がある。かつて東日本大震災の被災地で出会った地元の方のお話だ。
「眼の前にあるものは、今は瓦礫に見えるけど、元は家だったし、街だったし、暮らしだった。家の片付けも、きれいにすることだけが目的じゃない。気持ちの整理に寄り添うんだよ」。
洗ったバッジを並べてみると、これらは単なる「もの」ではなく、尾崎さんの人生の一部なのだと思えてきた。
「このバッジ、気に入ったらボランティアさんに持って帰ってもらってもいいかなって思っているんだ。きっかけはなんでもいいから、ここに来てほしいし、思い出してほしくて」。

スノーフラワーのピンバッジを眺める尾崎さん

危機と混乱の中にあるからこそ、支援を届ける先に対しても、また支援者同士も、それぞれの「声」に耳を傾け、相手の存在を感じながら、対話の中で復旧、復興を模索することが求められているのかもしれない。

ニュースでは次から次に起こる災害に、新しい情報を更新していく。しかし、どの災害を遡っても、どれもまだ過去の出来事ではなく、現在進行形で続いているものだ。この度の災害で亡くなられた方のご冥福をお祈りし、被害に遭われた方へお見舞い申し上げるとともに、細くとも長く発信を続けることで、被災地域とそこに暮らす方々、また支援に励む方々に心を寄せる機会をつくっていきたい。

昼夜とわず懸命な復旧作業が続いていた堤防は、10/30に仮復旧したというニュースが流れた

(2019.11.1/写真・文 舩橋和花(Dialogue for People事務局))

*1 内閣府台風19号関連速報「令和元年台風第19号に係る被害状況等について」
*2 災害の度合いによっては通常のボランティアセンターでボランティア調整の対応をすることもある。予算や制度、どんなアクターが活動しているのかなど条件に応じて、辿っていく復興の途も異なる。


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