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虐殺とタブー視、それは「遠い過去」なのか ―韓国・済州島の記憶

台風が過ぎ去ったばかりの済州国際空港には、湿った海風が絶えず吹きつけ、時折霧のような小雨が視界を覆った。ここに降り立つ前、飛行機の窓から見下ろした済州は、濃い緑に覆われた漢拏山(ハルラ山)を中心に広がる、紺碧の海に浮かんだ麗しい島だった。

「済州は美しいところではありますが、そうした美しいところは何らかの虐殺が起きた場所でもありました」

そう語るのは、大阪で生まれ、済州で育った玄武岩(ヒョン・ムアン)さんだ。現在は北海道大学大学院メディア・コミュニケーション研究院の教授を務めている。

済州島内を案内してくれた玄武岩さん

リゾート地としても知られる済州島だが、玄さんが語る通り、ここは過酷な歴史を経てきた地でもある。

「以前は虐殺が起きた現場に案内板などもほとんどなく、最近になってようやく法律も整備され、平和ツアーなどの動きも広がってきました」

済州島で起きた虐殺は、一部島民が武装蜂起した1948年4月3日の日付から「4・3事件」として知られているが、構造的な問題をとらえるためには、そこに至るまでの背景を知る必要があるだろう。

済州4・3平和公園内の椿のオブジェ。冬の寒さの中に咲き、雪の中に花首が落ちていくこの花が、4・3事件の犠牲者の象徴でもあるという。

済州4・3平和公園内の椿のオブジェ。冬の寒さの中に咲き、雪の中に花首が落ちていくこの花が、4・3事件の犠牲者の象徴でもあるという。

「アカの島」と決めつけられ

1945年8月、日本の敗戦により、朝鮮半島は戦時強制動員や創氏改名などといった支配から「解放」されたはずだった。ところがアメリカと旧ソ連がこの地に進駐し、南側では「米軍政」が3年間続くことになる。米軍政側は統治を「円滑」に行なうため、日帝時代にその権力にすり寄り、甘い汁を啜っていた警察や官僚らを再び登用した。

当時済州島には20万人ほどが暮らしていたが、日本に渡っていた人々の帰還などにより、6万人ほど人口が増えたとされている。彼らは財産の持ち出し制限などから、日本での稼ぎをほとんど持ち帰ることができなかった。暮らしの術(すべ)が限られた人々に、コレラの流行や干ばつによる凶作が追い打ちをかけ、官僚ら支配層の腐敗に対する島民の怒りは強まっていった。

1947年3月1日、翌年の「4・3事件」の「導火線」ともいわれる事件が起きる。全国的に開かれていた「3・1節」の記念行事がこの日、済州でも開かれ、外国勢力による干渉や分断のない自主独立などを求め、3万人が集ったとされている。ところが騎馬警察の馬に子どもが蹴られたことをきっかけに、群衆が石を投げて抗議をはじめた。警察の発砲により、赤ん坊を背負った女性ら民間人6人が死亡、8人が負傷した。この集会を主導した人々も次々と逮捕されていく。

済州4・3平和記念館で、1947年3月1日の事件を伝える展示

済州4・3平和記念館で、1947年3月1日の事件を伝える展示

抗議の動きは収まらなかった。3月10日から島民によるストライキが始まり、22日には島ぐるみのゼネストに突入する。教員や公務員らは仕事を止め、生活が苦しいはずの商店なども店を閉めていった。

こうした動きに対し、米軍政は済州島を「アカの島」と決めつけ、抑圧を強めていった。とりわけ残忍な動きをしたのは、「西北青年団」だった。北朝鮮を故郷とする彼らは、政治的な変化によって南へと追いやられた人々だった。当初、警察の制服をまとっていたものの、無給で済州島に送り込まれた彼らは、略奪を繰り返していくことになる。その上、「アカ」だと教えられた島民を拷問・殺害することを厭わなかった。

済州4・3平和公園内に並ぶ、行方不明者の墓碑

非道な鎮圧作戦、3万人が犠牲に

こうした経緯をたどっていくと、「4・3事件」はある日突然起きたのではないということが分かる。

分断を決定づける南での単独選挙が1948年5月10日に決まると、事態のさらなる不安定化や戦争などを懸念し、反対する声が済州島で強くあがった。

そして1948年4月3日、一部島民が漢拏山を拠点に武装蜂起する。米軍政はこの武装隊について、「北朝鮮と連携した共産主義者の暴徒」と、事実ではないことを喧伝した。その過程で、島内・吾羅里の村を武装隊が放火したかのように捏造する事件まで起き(吾羅里放火事件:のちに西北青年団が捏造した事件だということが明らかになった)、平和協商は阻まれた。結局5月10日に行われた選挙では、多くの島民が投票を拒み、済州島の3つの選挙区のうち2つで結果が無効となった。

済州4・3記念館内には、投票を拒み、山へと向かった人々の絵が展示されている

「解放」の日から3年が経つ8月15日、大韓民国政府が誕生し、初代大統領に李承晩が就いた。自らの正当性を示す必要があった政権は、国内の「不都合」を取り除くことに躍起になった。済州での強力な討伐は10月17日にはじまり、海岸線から山側に向かって5キロ以上離れた地域は「敵性区域」とみなされることになる。そこに出入りする人々は無条件に射殺する、という残忍な布告令が出された。非道な鎮圧作戦は、暮らしの場である村々を焼き尽くした。

焼き討ちによって失われた村の一つ、坤乙洞が、史跡として保存されている

韓国ではこの年、日帝時代の「治安維持法」をもとにした「国家保安法」が制定される。朝鮮戦争が起きると、「北」に同調し反逆する「恐れがある」とみなされた人々が、済州島でも「予備検束(※)」によって拘束され、殺害されていった。

※予備検束:かつて抗議運動に参加した経歴を持つ人々らを警戒し、何か行動を起こすまえに「予防的」に拘束、殺害する制度。

こうして「鎮圧作戦」は1954年9月21日まで続き、3万人が犠牲になっていったとされる。

済州4・3平和公園内の行方不明者の墓碑前に、連行されていく人々の像が建てられている

長年のタブー視、「連座制」という鎖

玄さんの祖父、玄萬権(ヒョン・マングォン)さんも、犠牲になった一人だ。島南部・表善(ピョソン)の浜辺で殺害されたとされているが、遺骨は今も見つかっていない。ところが、島で起きたこうした無数の虐殺は、長年タブー視されてきたという。

「2000年に真相究明の法律(4・3特別法)ができ、名誉回復の動きが始まるまでは、4・3事件で身内が亡くなったことを公に話すことは憚られる空気がありました。そういう取り組みがようやく定着してきたのは、2010年代になってからです」

2008年に開館した済州4・3平和記念館内には、事件に対する正式な名が定まらないため、文字を刻むことができないままの白碑が横たわっている。

記念館内の白碑

「“暴動”、“反逆”と言われてきた武装蜂起について、市民社会では『抗争』と位置づけようとはしています。ただ、警察や憲兵など、討伐した側とは、事件をどう定義づけるのかという合意がなされていません」

確かに山に入った人々も、事件が長引き、追い詰められるにつれ、民間人に対する略奪や、警察・軍に協力した人々に対する残忍な報復を繰り返すようになったことが指摘されている。それ自体を「正当化」することはできないだろう。

ただ、「どっちもどっち」と並列に語ることもまた適切ではないはずだ。長らく真相究明がなされてこなかったのは、韓国社会で権力を保持してきた側が、直接的、あるいは間接的にこの事件に責任があったからだ。当時の支配層による構造的な暴力や、分断・戦争を食い止めようとした島の人々に対する評価は宙吊りのままだ。

済州4・3平和公園の位牌奉安室は、犠牲者として認定された約1万4000人を追悼する空間となっている。玄さんの祖父の名前もここに刻まれていた。ところが、ずらりと壁一面に並ぶ位牌が、部分的に空白になっていることに気づく。

「当初は名前が刻まれていたはずの場所です。重複していたり、本当は犠牲者ではなかったことが後になって分かったケースもあるのですが、軍や警察による異議申し立てによって削除されてしまった場合もあります。法の中で、武装隊の中心的な役割を担った人は、犠牲者として認定されていません。一度は名前が刻まれた後、家族も含めてここから排除されたケースもあります」

公園内の位牌奉安室

こうして慰霊の場から名前が消されたように、「アカ」「暴徒」とされた島民の遺族までが烙印を押され、事件後も就職が困難になるなど、「連座制」に縛られ続けた。そんな「汚名」を返上しようと、朝鮮戦争で、あるいはその後のベトナム戦争で、国への忠誠を示すため、自ら兵に志願した島民たちもいたが、「反逆者」というレッテル貼りは根深く残ってきた。

記念館内に展示されている玄さんの祖父、玄萬権さんの写真。41歳で犠牲になった。

島民の血と汗の上に

済州島南西部、西帰浦市(ソギポシ)大静邑(テジョンウプ)、緑に覆われた畑の傍らで、トラクターが土を耕す音が響いていた。そんな開けた平野の視界を遮るように、扇形の古びた倉庫のようなものが辺りに連なる。「アルトゥル飛行場」に残る、旧日本軍の掩体壕(えんたいごう)だ。

今も残る旧日本軍の掩体壕

周辺には他にも、人間魚雷「回天」の秘匿壕はじめ、旧日本軍の痕跡が残っていた。

「小さい時に済州市内の山に遊びに行くと、人工的な穴がたくさんありました。当時は肝試しで入ったりしていましたが、後からそれが日本軍の堀ったものであるということを知りました」と玄さんも振り返る。

掩体壕の一つには、戦闘機を模したオブジェが置かれていた

4・3事件などの歴史を伝える「済州ダークツアー」代表、梁聖周(ヤン・ソンジュ)さんは、自らも祖父を亡くした遺族でもある。この日は主に島外から集まったツアー参加者を、済州東部、城山周辺に案内していた。

第二次大戦末期、日本の「本土」を守るため、済州島は巨大な「要塞」とされた。その軍事施設構築に、多くの島民が動員されたとされる。城山の海に面した崖にも、かつての日本軍の壕の入り口が不揃いに連なっていた。梁さんはこうした場所が「島民の血と汗の上に成り立っていた」と語る。

城山周辺を案内してくれた梁聖周さん(左)

「植民地時代、日本軍が様々な施設を作りましたが、日本の降伏が遅れれば、済州島も沖縄と同じ状況になっていたかもしれません。実際に沖縄からツアーに参加してくれた方も、状況が似ていると話していました」

済州島での虐殺と南北の分断の源流には、日本の植民地支配があった。ヤン ヨンヒ監督による映画『スープとイデオロギー』でも描かれているが、命からがら、済州島から多くの人々が日本に逃れてきた時代もある。そして私たちは、その歴史と地続きの今を生きているのだ。

▶︎ Radio Dialogue ゲスト:ヤン ヨンヒさん「映画『スープとイデオロギー』からたどる済州の記憶」(6/22)

松岳山の崖に残る旧日本軍の壕入り口

「同じ歴史を繰り返さない」ために

果たして済州島で起きた出来事は、「遠い過去」として位置づけられるものだろうか。朴槿恵元大統領の退陣や弾劾を求めるキャンドルデモが始まった当時、一部勢力がデモ参加者を「アカ」呼ばわりし、かつて済州島で残忍の限りを尽くした「西北青年団」の再興まで主張したことがあった。「ぞっとし、身の毛のよだつ思いだった」と梁さんは語る。

城山近くで「西北青年団」が拠点の一つとしていたとされる小学校跡地は、保存作業もなされないまま、壁は植物に覆われ、朽ちようとしていた。「同じ歴史を繰り返さない」というのであれば、それには繊細な検証と、記憶をつなぐための作業が欠かせない。

「西北青年団」が拠点としていた小学校跡地

「なんと凄惨な歴史だろう」――そんな感想に留まるだけでいいのだろうか。

日本から多くの人々が、この地を訪れ、歴史に触れ、自身と引き寄せて向き合うこともまた、「繰り返さない」ために必要なことではないだろうか。

(2022.9.26/写真・文 安田菜津紀)


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