「ここに追悼施設をつくりたいというのは私のわがままでしょうか――」
2019年2月、静かな雪の舞う福島県大熊町帰還困難区域内で、木村紀夫さんは慰霊碑を前にそう呟いた。慰霊碑といっても、コンクリート片を置いただけの簡素なものだ。色彩のない荒れ地に供えられた花は、娘の汐凪(ゆうな)さんに捧げられたものだった。
木村さんの自宅は、東京電力福島第一原子力発電所からわずか3キロ地点に位置していた。今でこそフレコンバッグがあちこちに積まれ、時が止まったように朽ちた家が佇んでいる地域だが、震災以前は自然豊かで、長閑な生活が営まれていたという。
地震発生当時、小学1年生だった汐凪さんは、小学校での授業を終え、隣の児童館で遊んでいた。木村さんの父、王太朗(わたろう)さんが児童館へ駆け付けたが、いったん海の側の自宅に引き返すという王太朗さんの車に汐凪さんも乗り込み、そのまま行方不明となった。翌12日には原発事故により木村さんも避難を余儀なくされ、捜索を続けられなかった。その後王太朗さんと妻の深雪さんが遺体となって発見されたが、汐凪さんの遺体は見つからなかった。それから数年、限られた一時帰宅の時間を使って汐凪さんを探し続けた。2016年11月、中間貯蔵施設予定地の現地調査を行う環境省に依頼し、重機での捜索を開始した。それから1ヵ月もしないうちに、汐凪さんの骨が見つかった。泥だらけのマフラーから、小さな首の骨が出てきたのだ。
その後しばらくして、沖縄県で戦没者の遺骨収集活動を続ける具志堅隆松さんら有志が集い、年に数度、同地で汐凪さんの捜索活動が行われることとなった。2022年初頭には、汐凪さんの大腿骨の一部が見つかっている。
そして今年(2023年)のゴールデンウィークも、そうした人々が木村さんのもとに集い、捜索が行われていた。
豆粒大の遺骨、どれだけバラバラにされてしまったのか
数日をかけて行われた捜索だったが、実は取材で訪れる前に、すでに遺骨の一部が見つかったとの連絡を受けていた。現場で見せて頂いた骨は、2cm角程度の大きさでしかない。「基節骨――右足親指のつけ根です」と、沖縄から駆け付けた具志堅さんは語る。わずかな間接面や大きさなどから、子どもの骨であることを見定めていく。見つかったのは、これまでに顎の骨や大腿骨が出てきた場所の周辺だった。この辺りに、汐凪さんの遺骨の大部分が眠っているのかもしれない。捜索チームの集中力が増していく。
具体的にどのような作業を行っているのかというと、いくつかの工程に分かれる。まず一番肝心なのが、「どこを掘るか」という見定めだ。広大な敷地の中の、いったいどこに手を付ければいいか。候補地はいくつかあったが、遺骨収集経験の長い具志堅さんは、地形や水の流れ、当時の状況などから場所をしぼっていく。結果、2022年初頭の大腿骨発見に繋がることになる。現在はその場所を中心に捜索活動を続けている。
場所を決めたら、次に草木を刈って行く。あの津波からすでに12年以上の月日が経っているため、うっそうと生い茂るクマザサやセイタカアワダチソウも、瓦礫の荒野のあとに伸びてきたものだ。草を刈ると、外見からは分からなかった窪みが見つかることがある。もしかしたら、そうした窪みに遺骨が流れ込んでいるかもしれない。
幸い今年は苦しめられることはなかったが、大変なのが「排水処理」だ。候補となる場所は水の通り道である窪みや斜面の下であることが多い。季節によっては大量の水が流れ込む。昨年のゴールデンウィークの捜索では、水路づくりに多くの労力を割かざるをえなかった。
やっと発掘作業に入っていくわけだが、むやみやたらに掘り返せばいいわけではない。まずはおおまかにスコップを入れていくと、すぐに「瓦礫の層」に到達する。服や家財道具、家屋の破片や海の石など、あらゆるものが「瓦礫」となって堆積している。中には、木村さんが中学時代から大切にしていたという宝物が混じっていたりして、そういうときには手を休め、木村さんの過去の話に花を咲かす。過去と現在、東日本大震災の発生したあの瞬間――。この地には、幾多の思い出が地層のように重なっている。
「瓦礫の層」の土は、丁寧に、丁寧にほぐしていく。これまでの捜索では大腿骨のような大きな骨が見つかったこともあり、あきらかに「骨」だとわかるものの発見に期待が募るが、実際には無数の「欠片」となって眠っている。今回の捜索では、ほかにいくつか遺骨が見つかったが、それは小豆程度の、ちいさな、ちいさな塊に過ぎなかった。
遺骨のひとつを発見したキヨスヨネスクさんも息を呑む。地中には「だま」になっている土の塊がいくつもある。その塊を指の先で丁寧に砕いていくわけだが、これまでに掘り返した全ての土で、このように繊細な作業ができているわけではない。いずれそうした土を再度点検する必要もあるだろう。
遺骨の発見に集まった人々は安堵の声を漏らすが、木村さんの気持ちは複雑だ。
「こんな小さな骨がぽつぽつと見つかるなんて、どれだけバラバラにされてしまったのかと……。こんなことが起きてしまう社会というのは、やはりどこかおかしいのではないかと考えてしまいます。嬉しいという感情は湧いてこない。それ以前に、これだけ残酷な現状がありますから……」
「ただ、こうして少しずつ見つかることで、“確実にここにいる”とはっきりしてきた。なので、『この場所を残していきたい』と言いやすくなったというのはありますね。汐凪がそうやって気を遣ってくれているのかもしれない」
汐凪の存在がそのままここに残っている
1年半ぶりの遺骨の発見(※)に、具志堅さんもほっと一息つく。
「(大熊で)遺骨が見つかるという感覚をしばらく忘れていたように思います。まるで初めて見つけたときのような感覚を覚えます。それだけ、“出ない”日々が長かったということでしょう。けれど、このように少しずつ見つけていくということにも、大きな意味があると思います。汐凪さんに近付いていこうとするこの行為――、それはこの東北の被災地の“終わらない現状”と向き合うことであり、震災と、そして犠牲者と、自分の体で向き合うことでもあります」
「だからこそ――」、と具志堅さんは続ける。「沖縄でも、『現場安置』という言葉を使います。収集できる遺骨はもちろん収集し、返すべき場所に返すべきでしょう。ただ、回収しきれないご遺骨は『現場安置』という形で、その場所そのものを“悼む場所”にしていくんです。この場所でも、これから先、何年かかっても、一度にたくさん見つからなくても、少しずつ汐凪さんに近付いていくということ。そこに多くの人々がかか関わっていくようになると嬉しいです」
「ここに追悼施設をつくりたい」という、冒頭の木村さんの言葉もここに繋がる。
現在大熊町では、大川原地区復興拠点の整備など、避難指示の解除拡大に向けた環境整備が続いている。大熊町を含む沿岸の被災地域では、ロボットなどの新産業を興す国家プロジェクト「福島・国際研究産業都市(イノベーション・コースト)構想」の推進が進んでいる。「GX(グリーントランスフォーメーション)脱炭素電源法案」という名で糊塗された原発政策の大転換も、この国の産業の形に大きな影響を与えるだろう(「具体的な運用は法改正後に決める」というあまりに杜撰な議論を土台としているが)。
しかしその喧噪から離れた帰還困難区域内では、豆粒大に砕かれた小さな骨が、木村さんの手のひらのうえで無言のメッセージを放っている。
(※)その後鑑定の結果、今回見つかった骨は動物のものであることが判明しました。汐凪さんの遺骨は、大きなものとしては大腿骨しか発見されておらず、そのほかは本記事にみられるような小さな骨片などとして見つかっています。木村さんは、「汐凪に行動するよう、背中を押されていると感じる」と語り、今後も遺骨捜索を行っていくとのことです。
【修正のお詫びと報告】上記文中にて下記表現を改めました。
(元)豆粒大に砕かれた汐凪さんの遺骨が、
(改)豆粒大に砕かれた小さな骨が、(2024/2/28加筆)
「本人はもういないけれど、汐凪の存在がそのままここに残っているんです。捜索に参加することで、ここで起きた出来事を“自分ごと”にするきっかけとなるんじゃないか。もちろん、最終的に判断するのは一人ひとりです。けれど、知っているのと知らないのとでは全然違う。汐凪が足元にいるこの場所を、行政と力を合わせて慰霊の場所にしていけないでしょうか。今の社会に疑問を持っている人々が、悩んだり、語り合ったりする場所をつくっていきたいです」
(2023.5.18 /文 佐藤慧)
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