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悪夢の終わりという希望を握りしめながら―パレスチナ・ガザ地区、市民の殺戮と避難生活

2023年11月24日現在、イスラエル—ハマス間の一時停戦の合意、発効が報じられているが、深刻な食糧・水・エネルギー不足やインフラの破壊、蔓延する感染症など、市民の直面する困難は過酷さを増している。ガザ地区で避難生活を送る、D4P現地取材パートナーのAysar(アイサール)さんに、10月7日以降~11月17日に至るまでの日々について寄稿頂いた。

2001-02年にかけてイスラエル軍により破壊されたガザ国際空港。(撮影:佐藤慧/2019)

私もここで死ぬと思った

2023年10月7日、とてつもなく大きな音が轟きベッドから飛び起きました。窓を開けると、何十ものロケット弾がガザ地区から北の方角へ――イスラエルへ向けて飛んでいったのです。「戦争が始まる」と即座に理解しました。

私は母や兄弟たちの様子を見に階下へと降り、テレビやインターネットで情報収集を始めました。ところが、およそ2時間もの間、関連する情報はいっさい入手できず、私たちは何が起きたのかわからないまま自宅で待機していました。その後、「エゼディン・アル・カッサム旅団(ハマスの軍事部門)」のリーダーが、イスラエルへ突入する車両の映像などを背景に、今回の攻撃の意図について説明を行う動画が出回り、少しずつ事態を把握することになりました。

イスラエルからの「報復攻撃」が始まれば、境界線に近いガザ北西部に位置する自宅は安全ではありません。昼食を済ませた私たちは、重要な書類や服など、必要なものを集め始めました。猫も置いていくわけには行きません。準備を終えると、同じくガザ市中部にある祖母の家へと避難しました。

大規模な空爆によりすでにあちこちで死人が出ていました。イスラエル軍は、「市民すら」殺戮したいのです。米国製の兵器が頭上を駆け抜けていくたび、「もうダメだ」と死を覚悟しました。夜になると空爆も激しさを増し、とても安心して寝られません。

イスラエル軍の砲火は人々の頭上から襲い掛かり、近所中を「消し去って」しまいました。破壊の状況は(これまでに何度も戦禍を経験してきているのですが)信じがたいほどです。中には、これまでの軍事侵攻では聞いたことのない音を出しながら飛来するミサイルもあり、そうした新兵器は本当に多くの人々を殺害しました。その音はまるで空飛ぶ怪物のようです。

軍事侵攻から3日目、いとこから電話があり、ジャバリア難民キャンプにいた叔父が爆撃により亡くなったと知らされました。一度に70人が命を奪われる大きな爆弾だったそうです。叔父は、彼の自宅へと避難してきた人々のために、食糧を買いに出ていたところを殺されたのです。私たちは彼の葬儀へ参列しましたが、葬儀の間中ひどい空爆が続き、私もここで一緒に死ぬんだと思いました。

その帰り道、ガザ市の自宅が爆撃を受けて半壊していると知人に聞かされました。こうした緊急時には、まずは大切な人々や自分の「命」が第一ですが、自宅が破壊されたことや、思い出が奪われたことにも強い悲しみを覚えました。

爆撃の中眠りにつき、目を覚ます

10月13日深夜のことです。ある「噂」が飛び交いました。「ガザ市を含むガザ地区北部の住民は、南部へ避難しなければならない」というものでした。今後、イスラエル軍の軍事侵攻がガザ北部でより激しいものになるというのです。当初私は「まさかそこまで……」と思っていましたが、翌朝には「本当にこれまで経験したことのない規模の攻撃に晒されるかもしれない」と考えを改め、避難を決意しました。

祖母を含め、ガザ北部で暮らしていた親族、総勢22名での出発でした。私たちのほかにも、南部へ逃れようとする人々は何十万人もいます。当然、タクシーなど捕まえることはできず、私は自分の車を何度も往復させ、まずは親族全員をガザ市内の「文化センター」へと集めました。なぜなら、そこはガザ市の中でも「安全な場所」だと言われていたからです。全員集まったところで、避難計画をたて、南のガザ渓谷を目指して出発しました。

幸運なことにタクシーを手配することができましたが、値段は平時の3倍でした。なんとか親族全員安全に、アル・ヌセイラット難民キャンプにある、親族の経営する幼稚園に辿り着いたときには、みな悲しみと疲労で意気消沈していました。

ある晩、その幼稚園のとなりの敷地に大きな爆弾が直撃しました。周辺に暮らしていた人々は、奇跡的に生き延び、私たちの居場所へと避難してきました。彼らはみな動揺し、パニック状態でした。

お年寄りから子どもたちまで、小さな部屋に約40人で寝泊まりしていました。マーケットからは日に日に食糧がなくなり、飲料水を入手することすら難しい状況となりました。大きな貯水槽からバケツへと水を移動させるのも、大変な労力を伴うものでした。

至る所で殺戮が行われていました。爆撃はますます過激になるばかりです。「どうかあたりませんように」と願いながら、爆撃音の轟く中、寝床につきます。ときに何百というロケット弾が近所に撃ち込まれました。そうした振動とともに眠りにつき、また爆撃の音で目を覚ますのです。

子どもたちは空爆の大音響や振動でパニックを起こします。女性たちも恐怖に慄いています。大人たちは子どもに「これは花火なんだ、パーティなんだよ」と語り掛けます。それぐらいしか、できることがないのです。何もできず、そのような光景を見ていることはとても苦しいことです。

悪夢の終わりという希望を握りしめながら

その後、ガザ地区への地上侵攻が始まりました。イスラエル軍は、戦車を侵入させる前に、その道中にあるあらゆるものを破壊します。家も通りも、人々もです。本当に、信じられないほどの破壊の規模です。ガザ市は破壊されてしまいました。私の大切な、これまでの人生のすべてを過ごしてきた街は、瓦礫と化してしまったのです。

侵攻開始から30日が経過しました。私は閉塞的な状況に嫌気が差し、ガザ地区南部のハンユニスに暮らす友人を訪ねることにしました。車はすでに故障していたため、公共交通機関で向かいます。とはいえ、それらは平時とはまったく違ったものでした。10月7日以降、ガザ地区への物資の搬入は以前にも増して厳しく制限されていたため、ディーゼルも枯渇していました。なので旧式の自家用車やトラックを食用油で動かしていたのです。

私はトラックを乗り継ぎ「カート乗り場」へと到着しました。ここからはロバや馬で引っ張るカート(引き車)で移動するのです。幸運なことに、そこで私の姉とふたりの娘たちと再会することができました。彼女たちもまた、ガザ南部に向けて避難するところだということです。軍事侵攻後はじめての再会にホッとしました。

ハンユニスへと向かう道は群衆で溢れていました。多くの知人たちの顔もそこにありました。やっとのことで友人宅に着いたとき、久しぶりに談笑し、寛いだ時間を過ごすことができました。友人宅で2日過ごした私は、近所の病院に避難している友人一家を訪れることにしました。そこは大量の避難民で溢れていて、私は所持品(ふたつのバッグ)を紛失し、今はインフルエンザにかかり床に臥せっています。この悪夢がなんとか終わるよう、希望を握りしめながら……。

(翻訳・編集者注:本記事はSNSでのやりとりを重ねながら執筆して頂いたものです。最後の段落を現地から送って頂いたのは2023年11月17日になります。その後通信が断続的となり、本記事公開前の数日は連絡がとれていません。※公開の許諾は得ています。)

(2023.11.24 / 文 Aysar 翻訳・編集 佐藤慧)


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