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第12話 ダイエットとの長い付き合い(後編)

晴れて共学の大学生になった。

そこで、私に待ち受けていたのは、案の定、つねに男子から容姿をジャッジされることだった。学部の先輩は、新入生をランク付けしていたし、テニスサークルは、入るときに顔セレクションといわれるような面接があった。サークルの先輩が「50キロ以上あると女じゃない」と飲み会で言い放ったことが忘れられないし、ちょっとトラウマになってもいる。いまでも、体重計に乗って50キロを超えると、胃の奥がぎゅーっと締め付けられる。最近は、なにごとにも、負荷がかかることに対して耐性が低くなったゆえに、なるべく体重計に乗らないようにしているくらいだ。

大学生になって化粧をし始め、服装にも気を遣うようになった私は、さあ本格的なリセットとばかりに、いよいよダイエットを始めた。自分が、太っていてダサい、と気に病んでいたからこそ、真剣だった。50キロを越えている自分はダメなのだと思っていた。

当時流行したエアロビクスなどに手を出し、テニスや水泳もするようになるが、思うように体重は落ちない。そこに、アメリカ留学という変数も加わって、体重は落ちるどころか増えてしまった。家でなるべく食べたくなくて、叱られつつも夕食の時間より遅く帰って食事を抜いたり、昼食を総菜パン1~2個ぐらいですませたりする、などの自己流の食事制限もしてみるが、あまり効果はなかった。トマトダイエットとか、バナナダイエット、林檎ダイエット、パイナップルダイエットのような、これだけを食べる、というのも試すが、続かなかった。母と同居しているため自宅では徹底できないという事情もあった。

そのうちに、私の部屋に無断で入って日記を盗み読んだ母が、私がダイエットをしていることを知り、激昂する、という事件も起きた。そこには、母の悪口もたくさん書かれていたから、怒りのボルテージは最高値だった。

母は、娘がダイエットをすることを忌み嫌っていた。その背景には、おそらく、亡くなった姉がとても痩せていたから、というのもあるだろう。普段から、テレビのタレントが細いことに対して、恨みでもあるのか、というぐらい悪く言ったりもした。もしかしたら、自分がことごとくダイエットに失敗したからというのもあって、痩せている人に嫉妬していたのかもしれない。とにかく、そんな母の元での私は、堂々とダイエットをすることはできず、こっそり取り組むしかなかった。

母は、娘が痩せるのを快く思わないだけでなく、おしゃれを意識したりすると、「色気づいた」と言って激怒することもあった。高校1年のとき、友人と映画を観に行った際に、買ったばかりのイヤリングをつけて帰ったら、母に見つかり、頬を叩かれた。部分パーマをかけたことと学校をさぼったのがばれて、母の通う美容室にひきずられていき、必死に伸ばして手入れも念入りにしていた長かった髪をかなり短く切られた。

また、洋服は幼い頃から、目立たないことが第一で、紺や黒やグレーなど、地味目の服を着させられた。母によると、それが、品のある服、だそうだ。カラフルな色の服や派手な柄の服を着るのはおかしい、下品だ、とも言っていた。

大学生になって私服になっても、毎朝通学前に玄関で服装をチェックされた。そして母と買った、あるいは母が買ってきた服を着るようにと厳しく管理された。我が家はそのころじゅうぶんに余裕のある生活をしていたにもかかわらず、お小遣いは極端に少なかった。なにか私が親の気に入らないことをすると制裁でお小遣いをくれなくなるということもよくあった。したがって、自分で服を買う余裕はなかったから、母に従うしかなかった。

「アルバイトはダメ」の禁忌を破って、家庭教師や出版社でのアルバイトをするようになって(渋々認めてくれたアルバイトだった)やっと、自分好みの服をたまに手に入れたが、それを着ると母がぐちぐちと文句を言ってきた。社会人になって給料をもらい、自分で自由になるお金が増えてからは、さらに服を買えるようになったが、自宅から通っていたので、つねに母の服装チェックがつきまとい、無視して出かけていくと、のちに、不機嫌と辛辣な嫌味が待っていた。

実は、私の両親は、私が働くことにも反対した。「女の子は働かなくていい」と、大学院に行くか、家で花嫁修業をしろ、あるいは韓国の大学に留学しろというのだ。大学院に行くほど学問に興味はなかったし、なぜ頑張って勉強して大学に入ったのに女だからという理由でいまさら花嫁修業なのかと腹がたった。韓国に留学って、言葉も話せないのにいやだ、と当時の私は思った。もちろん、いまは、花嫁修業も、韓国に留学もいい経験では? 大学院は今行きたいぐらいだ、と思ったりするが、社会に出て働きたいと胸を躍らせていた当時の私には、ありえない選択肢だったのだ。

両親が私に就職をさせたくないのは、お小遣いが極端に少なかったように経済的に縛ることで、私を支配し続けたいからでもあると察知した私は、ぜったいに、どんなことがあっても働かなければと誓って就職活動にいそしんだ。英検や秘書検定をとり、大学の成績もよかったのに、韓国籍だった私にとって、就職活動は非常に厳しいものだった。男女雇用機会均等法も施行されたあとで、女性の総合職を採るようになっても、在日コリアンにはまだまだ厳しい世の中だと実感した。もしかしたらそういうこともわかっていて私を傷つけたくなくて両親は就職に反対したのかとも頭の隅にちらついたが、くじけずに粘り強く就職活動を続けた。バブル期の売手市場で周りの友人たちはいくつも内定をもらっていたのに、私は韓国籍のため門前払いが多くて、悔しくてたまらなかった。どうにか外資系の銀行に入ることができたが、社会に拒絶され続けることは、あまりにも理不尽で、耐えがたかった。この経験が、のちに私が日本国籍を取るにいたった理由のひとつでもある。子どもに同じ思いを味わわせたくないと強く思ったのだ。

私をいちいちチェックし、ジャッジする母の態度は、逆張りではあるが、ある種の、見た目至上主義、ルッキズムだろう。ちなみに、いまだに母は、私(や孫)に会うと、服装や見た目についてとやかく言ってくる。もはや聞き流しているが、気分はあまりよくない。

こうしてみると、私はルッキズムの被害者ともいえるが、同時に、私自身がルッキズムの加害者でもあったと思う。私は、自分がジャッジされることについて傷ついたりうんざりしたりしているにも関わらず、世間的に言われる、イケメン、が好きだった。当時は、「面食い」という言葉がつかわれたが、まさに、そうだった。高校時代に一目ぼれしたのもみなルックスがよい、と私が思った男子だった。アイドルを好きになるとはそういうことなのかもしれないが、竹本孝之の顔がこのうえなく好きだった。

「面食い」は、大学に入っても変わらなかった。たいしてよく知らないのに、容姿が好みだというだけで、魅かれた。その好み、というのも、一般的な美男というのともずれていたこともあるようだったが、とにかく、一目ぼればかりしていた。あれは、本当の意味で好きだったのだろうか。見た目が好みの恋人がほしい、ということにとらわれていただけだったような気もする。自己愛が強すぎて、自分の容姿には自信がないくせに、自分と付き合うのは、かっこいい人、顔がいい人、おしゃれな人、背の高い人しか許せない、と思っていた。

つまり、私自身が、人をジャッジしまくっていたのだ。

なんて、傲慢なのだろう。

そんな心持ちでいたからだろう。恋愛がうまくいくはずもない。私を好いてくれた優しそうな人を拒んで、かっこいいけれど性格のよろしくない男性とつきあったり、浮気に悩まされたり、まあ、つまりは、交際はうまくいかないことばかりだった。そして、友人からは、「男性を見る目がない」とまで言われた。

好ましい性格の人と感じのいい交際が始まっても、男性からの電話を親が取り次いでくれない、日本人と付き合うなんて絶対にだめだという親に見つかったら別れさせられるという事情もあって、私との交際は相手にとって面倒なことが多かった。だから物理的にも付き合い続けるのは困難で、去っていく人もいた。私の性格も素直ではなかったし、ふられるのも当然だった。私の恋愛道は険しいものだったが、そもそも、あれらを恋愛と呼んでいいのかも疑問だ。思い込みで突っ走っていただけだったのかもしれない。厳しい家庭環境なのに、どうしてあんなに必死になれたのか。若かったのだな、としみじみ思う。

社会人になると、年齢もあるのか、とくにダイエットをしなくても、じょじょに痩せてきた。毎日会社に行って働き、食べる量も減ってきたことがよかったのだろう。ニキビも落ち着き、容姿への劣等感は、減っていった。

そして、私は人生最大のモテ期を迎えた。だが、心は冷めていた。自分のことは棚に上げて、世の中のひとびとのゲンキンさに呆れていたし、そうやって近づいてきたところで、私の正体を知ったら幻滅するんでしょ、と思っていた。そして、実際に、その通りだったのだ。

韓国人と打ち明けたら、そこで別れが待っている。(相手が去っていく)

日本人と付き合っても、どうせ結婚はできない。(どちらの親にも反対される)

それまでの経験から学んだ私は、それなら学生時代と同様、見た目のいい人と短い交際ぐらいしたって罰はあたるまい、と開きなおっていたふしもあった。そもそも夕食はかならず家で家族ととるべきと門限も厳しく、男女交際も禁止されていたのに、果敢に恋愛をし続けたのは、意地になっていたからかもしれない。強く抑えつけられれば抑えられるほど、反発のエネルギーが湧いたのだろう。交際相手の車に乗せてもらって家に戻った際に、母の帰宅と重なり、慌てて逃げたら母が追いかけてきて、一般道でカーチェイスのようになったこともある。

やがて私は疲れてしまった。あまりにも両親の権力は大きくて、かなわないと悟ったのだ。つまりは、ギブアップだ。

それに、やはり、結婚しなければ、という圧は、自分の中にも、世の中の雰囲気にも、そしてもちろん両親からが一番あった。25歳までに(当時はクリスマスケーキといった)と母は私の顔を見るたびに言っていた。

私としては、とにかく窮屈な家から出たかった。社会人になっても、独立は許されず、私は相変わらず過干渉な親の元で、監視されながら暮らしていたのだ。思い切って家出をしたものの、見つけられて連れ戻され、父から散々に殴られたこともある。駆け落ちしかけて、家に監禁されたこともあった。

結婚しか、このくびきから逃れるすべはない。

そう考えた私は、親がすすめる、在日コリアンとのお見合いを始めた。親が許してくれる結婚しか私には家を出る選択肢がなかったのだ。家父長制の強い在日家庭に嫁ぐのは不安もあったが、自分の家の、牢獄のような厳しさに比べれば、ましではないかと判断したのだ。25歳になったころだったと思う。25歳までにという言葉も呪いになっていた。

そうして、何度かの見合いを経て、拙作「縁を結うひと」(新潮文庫)の「金江のおばさん」という短編のモデルとなったお見合いおばさんの紹介で、元夫と出会い、27歳で結婚した。見合いでも私にとって大事だったのは、見た目だった。元夫は、さわやかな雰囲気で、「この人なら」と思えた人だったのだ。もちろん、外見だけでなく、性格も明るくて、話していて楽しかったのも決め手となった。

あれだけ日本人との交際に反対し、妨害をした母が、在日コリアンのお見合い相手とデートに行くときは、新しい服を買ってくれたり、にこにこして電話をつないでくれたりしたことに、私は呆れてしまった。だが同時に、親に反対されない交際って、こんなに楽なのかと感じた。

結婚が決まってからは、それほど、ダイエットということを意識しなくなった。もう、選ばれる戦場、恋愛市場にいない、というのが大きかったのだと思う。もちろん、結婚式や披露宴に向けて、太りすぎないように多少の努力はしたけれど、学生時代のひりひりした痩せ願望とは異なっていた。

私が、人生で一番痩せていたのは、最初の子どもを妊娠し、11週で流産したあとだった。しかし、そんな痩せ方は、不健康で、ちっともよくない。体調も崩した。それなのに、私は体重が減ったことがちょっと嬉しかった。完全に認知がおかしかった。再度妊娠して、ああ、これで体重が増えてもいいんだ、と解放されたかと思ったが、産婦人科の健診のたびに体重をはかり、増えすぎると怒らた。やはりつねに体重に一喜一憂しなければならないことはストレスだったし、お腹が猛烈に空いた時期は苦しかったけれど、赤ちゃんのため、という魔法の言葉で、自制することができた。

産後は母乳だったこともあって、どれだけ食べても太らず、体重も順調に落ちていった。ただ、乳児の育児があまりにも大変で、ふらふらだった。それから、約三年後に娘を産んだあとは、二人の乳幼児のワンオペ育児で自分が食事や栄養をしっかりとるような余裕もなく、とにかくいっぱいいっぱいで、体重計に乗ることすらほとんどなかった。実を言うと、そのころのことは、あまり覚えていない。痩せていたような気もするし、太ってしまったのかもしれない。離婚にいたる様々な出来事があった時期にも重なって、とにかく、自分の見た目など、正しく言うと、自分のことなど二の次になっていた。

娘が小学校に通うようになり、中学年になると、ようやく自分のルックスを省みる余裕が生まれて、年齢的に太りやすいことにも気づいた私はまたこりずにダイエットを始めた。友人からサプリを大量に摂取するダイエットをすすめられて飛びついたら、マルチ商法だった、という経験もあって(そういうところは、母に似ている)、今度は食事制限ではなく、近くのジムに通い始めたのだ。ジムでは、筋トレとピラティス、水泳、ランニングなどをした。

岩盤浴も流行りはじめ、気に入ってよく行った。こどものいないわずかな時間に、自分の身体に向き合った。ヨガに出会ったのもこのころだ。実を言うと、当時、離婚したことで、父親と母親がそろっている家庭を子どもたちから奪ったことに対する罪悪感と、自分が失敗をした、という気持ちが大きくて、心の調子がだいぶ崩れており、通っていたカウンセリングの先生にも、運動をすすめられた。実際、ジム通いは、心の健やかさを取り戻すのに、役立った。

日本語講師の仕事も始めており、シングルマザーとしての日々の生活は大変だったし、ママ友との付き合いには苦労したが、充実していた毎日だったと思う。ジム通いはダイエットだけでなく、精神的な面でよい効果があった。小説を書き始めたのも、このころで、がむしゃらに書いていた。そして小説を書くこともジム通いに勝らずとも劣らず、私の心によい効果があった。小説、フィクションを書くことが、たまった思いを吐き出す場所になっていたし、なにより、書くことが楽しかった。自分の軸になることが見つかったような気がしていた。

すると、そろそろ……いい加減……もう……ダイエットをしたくないし、自分の見た目ばかり気にしたくないなと思い始めた。

しかしながら、ダイエットは終わらなかった。

私は、新人文学賞を受賞し晴れて作家となることができた。そして皮肉にも受賞の贈答品がTANITAの体重計だったのだ。また、インタビューなどで写真を撮られるような機会も増え、世の中に容姿がさらされることになった。

さらには、更年期というものが私にも訪れ、体重が激増した。高校1年生のときの最大値に近づいたのだ。体調も芳しくなく、心も鬱々として、ジムに行く気力もそがれてしまった。おまけに、コレステロール値も高くなり、医師から注意された。

しつこくルッキズムにはとらわれていたし、なにより加齢、つまり、老けて見られることへの恐怖も大きかった。

歳をとることは止められないけれど、せめて、太ることは避けられるだろう。コレステロール値も下げなければ。

ふたたび、ダイエットをしよう!

そして私は、断食に出会う。体験者が10キロ痩せたと知り、私はやるしかないと思った。鍼治療をしながら指導をうけて断食をする、という方法だった。断食にはデトックス効果もあると聞き、「不要なものは、削いで、リセットしなければ」とやる気満々で、鍼に通い、断食を始めた。私は、どうも、リセットすることが好きなようだ。

折しも、子どもたちふたりは留学中で、私は一人暮らしだったので、断食もしやすかった。4日間の断食のあと、だんだんと食事を増やす、というプロセスで、私は、約3か月で8キロを落とすことができた。コレステロール値も下がった。断食中は、頭痛がして本当に辛かったし、食事制限で空腹を耐えることは、思った以上に難しかった。髪の毛が抜けて、吹き出物が大量に出たことは、好転反応だと説明されても辛かった。けれども、しんどさよりも、やはり8キロも痩せたことは、嬉しくてたまらなかった。子どもたちに、痩せた自分を見せたい、驚くだろうな、とわくわくしていたぐらいだ。

だが、夏休みに久しぶりに会った娘は、空港で私を一瞥すると、「病気の人みたい」と言って、顔をしかめたのだった。老けて見える、とも言われた。

私は、なんのために痩せたのだろう。

新刊のプロモーションのために写真を撮るときに、「痩せている」自分の方がいい、と思い込んでいたけれど、自分がそう思っているだけではないだろうか。そもそも私が太ろうが痩せようが、周りの人たちは、あまり関心がないのではないか。

ここで、パラダイムシフトが起きた。

痩せる必要はないのではないか。自分が、自分を縛っていただけではないか。

そうなのだ。自意識の問題なのだ。痩せる、を手放そう。

ダイエットと別れを告げよう。

ルッキズムに振り回されないようにしよう。

そう決意して数年が経った。

もちろん、世間の痩せ礼賛はなかなかしぶといし、自分のなかのルッキズムも頑固にある。最近も美容皮膚科を検索してしまったし、外食するときなども、食べ物を前に、これを食べたら太るかな、と一瞬考えてしまう。一日に食べたものを反芻したり、カロリーを頭の中で計算したりする癖も抜けない。

しかし、少なくとも周囲に対して、容姿の良しあしを口にするようなことは減った。つまり、私自身がルッキズムを他人に対して発動するようなことはないように気をつけるようになったし(完ペキではないが)、痩せていることだけが正義だという風潮には抗っていきたいと思うようになった。今の私の体重は、昨年大幅に増加して、断食前に戻り、つまりリバウンドして、大学時代のサークルの先輩からしたら、「女じゃない」けれど、まあ、自分のちょっとぽっこりとしたお腹も、悪くない、と思えるようにはなっている。

なによりも、インフルエンザのあとにコロナにかかり、後遺症に苦しんでいるいまは、健康であることが一番大事だと痛感している。遺伝的に、コレステロール値が高くなりやすい体質ではあるが、体重の数値をむやみに気にするのではなく、食事の内容に気を付けることをこころがけるようになった。

春になって、これからますます薄着になる。体型も目立ってくる。それなのに、私は、昨年までの服はきつくて入らなくなっている。だからといって、ダイエットをしよう、ではなく、新しくひとまわり大きいサイズの服を買おうかと思っている。

自分に不満ばかりで、もっと痩せなければ、と思い続けるのは辛い。そこから解放され、ダイエットをして体重を落とすより、食べたいものを我慢しない方がずっと人生は楽しいと、いまの私は思う。そして運動も健康のため、ヨガは心地いいからやる、という姿勢になっている。

ただ、コレステロール値だけは、気にしながら……。

ああ、呪縛は完全にはなくならないのが、人生だ……。世知辛い。

そうそう、明るい色や派手な柄の服は、今後も積極的に着ていきたいと思っている。地味な服を着せられた反動がいまごろ爆発しているが、自分の気分がいいことを大事にしていきたい。

以前ほどは、どう見られるかが気にならなくなってきている。加齢とともに、自意識が薄れてくることは、いいこともあるのだ。あまりにも、自意識をなくして、他人に迷惑をかけるようなことにならない程度に、生きていきたい。

長い付き合いだったダイエットとは、やっと距離をとれそうだ。

だが、ルッキズムを完全に捨ててリセットすることは、難しい。

私は、今日も、韓国ドラマや映画を観て、「この俳優さんかっこいいー」と心の中で叫んでいる。

いくつになっても「推し」のすがたかちたちに心を奪われ続けている。

新人文学賞の贈答品。(著者提供)

【プロフィール】
深沢潮(ふかざわ・うしお)

小説家。父は1世、母は2世の在日コリアンの両親より東京で生まれる。上智大学文学部社会学科卒業。会社勤務、日本語講師を経て、2012年新潮社「女による女のためのR18文学賞」にて大賞を受賞。翌年、受賞作「金江のおばさん」を含む、在日コリアンの家族の喜怒哀楽が詰まった連作短編集「ハンサラン愛するひとびと」を刊行した。(文庫で「縁を結うひと」に改題。2019年に韓国にて翻訳本刊行)。以降、女性やマイノリティの生きづらさを描いた小説を描き続けている。新著に「李の花は散っても」(朝日新聞出版)。

これまでの連載はこちら

小説家 深沢潮 エッセイ「李東愛が食べるとき」

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