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この街で、これからも―陸前高田に生きる

“5年経ったら、伝わらなくなってしまうの?“ そんな言葉を何度、この街で耳にしただろう。

岩手県陸前高田市。津波の高さは最大17メートル超。1900棟以上の建物が全壊。死者・行方不明者、約1800人。震災当時、義理の父、母がここに暮らしていた。

001:義理の母、佐藤淳子が瓦礫の下から見つかったのは、震災から約1カ月後だった。(2011年3月)
002:かつての営みの中心地。市役所も病院も、生活の基盤がここにあった。(2011年3月)
003:「ねえねえ、うち流されちゃったんだよ」と、避難所の庭で少女がつぶやいた。(2011年3月)
004:被災した気仙小学校の子どもたちは、高台の別の学校でこの日を迎えた。(2011年4月)
005:例年になく雪が降ったこの年。かさ上げを待つ市街地で。(2013年1月)
006:小正月。ばらばらの仮設住宅に暮らす子どもたちが、もう一度集える祭りの日 。(2013年1月)
007:川原祭組。市役所解体前、最後の祈りの舞。(2013年1月)
008:諏訪神社に続く階段。こんな年だから、新しい一年をしっかり迎えられるように、 と。(2011年12月)
009:パパのほっぺた、あったかい。仮設住宅集会所の、小さなクリスマス会。自治会長 の佐藤一男さんと、次女のるなちゃん。(2011年12月)
010:校庭も体育館も使えなかった最後の年を追えて。小さな教室の卒業式。(2012年3月)
011:最後は全校生徒そろって、卒業生を送り出す。(2012年3月)
012:骨組みだけの作業場で、カキ養殖の再出発。(2012年5月)
013:夏の食卓をにぎわす水ダコ。“しゅっぺ”こと、菅野修生(しゅうせい)君もじいちゃんのお手伝い。(2013年7月)
014:菅野修一さんの第二志田丸。水揚げがはじまると、ウミネコたちがざわめきだす。(2012年9月)
015:“口ばり(ばかり)動かしてねえでかせげ(働け)”と、カキ養殖を支えるお母さんたち。(2012年5月)
016:震災の前も後も、根岬の港がしゅっぺの遊び場。(2013年7月)
017:気仙川、灯篭流し。盆で帰ってきた魂を、もう一度送り出していく。(2013年8月)
018:高さ20メートルもの梯子から舞う。根岬梯子虎舞組。(2015年10月)
019:土に埋まりゆく市街地を、山車が練り歩ける最後の年。(2015年8月)
020:川原町内会解散後も、祭組だけは残す。その決意がこの年もつながった、うごく七夕祭。(2015年8月)
021:梅雨明けの祭り、「お天王さま」。「ちゃんと肩入れて担げ!」と、かつての市街地に男たちの声が響く。(2014年7月)
022:米崎小学校、室外機の音だけが響く深夜の仮設住宅。(2016年3月)
023:人が集う場を絶やさずに。仮設中庭の小さな花火大会。(2013年7月)
025:長女、佐藤あかりちゃん。校庭が仮設住宅になってから、ここがいつもの遊び場になった。(2014年4月)
026:畳屋の芳野真砂基(まさき)さん。庭にはいつも、花を植える。仮設店舗が少しでも、明るくなるように。(2012年8月)
027:米崎小学校仮設住宅、夕刻。少しずつ、明かりのない空室が増えてきた。(2015年10月)
028:台風18号に伴う大雨。「あの日を思い出す」と仮設住宅の住人たちが、体育館に避難した。(2015年9月)
029:一本松。潮につかりながらも、このときまだ懸命に生きようとしていた。(2011年10月)
030:かつては美しい砂浜だった。大野海岸、護岸工事と、防潮堤の建設。(2015年3月)

「忘れられるのが恐い」という言葉に、 「忘れるはずないよ」を、何度でも伝えていきたい。 いまだ声さえあげることができない悲しみがあることを、 そして豊かな自然に育まれた宝物がたくさん、この場所にあるということも。

031:只出(ただいで)の港。“非日常”を背に、日常が続く。(2016年3月)
032
033:3度目の開催となる、「高田に輝(ひかり)の花を咲かせよう」。「輝」という文字は、25歳で消防団の活動中に亡くなった菊池勇輝さんの名前からとったものだった。(2016年3月)
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035:2019年3月までに完了を目指す、高台移転と区画整理。いまだ全容の見えない街から、人の流出は続く。(2016年1月)
036:14:46。海に向かって。(2016年3月)
037:佐藤一男さん一家、震災当時小学校1年生だった長女あかりちゃんは、中学生になった。(2013年3月)

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