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写真で伝えるウクライナ・キーウ郊外、人々の声(1)―イルピン編

ウクライナの首都キーウから北西約20キロの場所に位置するイルピン。人口6万人ほどだったこの街は、キーウ中心地への侵攻を防ぐため、激しい戦闘に見舞われた地のひとつだ。300人以上の市民が犠牲になったとされ、一時数万人が街を追われたとみられているが、さらなる実態の解明はこれからだ。私たちが訪れた日は、5月でも冷たい雨が降り、風の吹きつける一日だった。こうした状況下で暮らしの立て直しを試みる人々の声を、写真と共にお伝えする。(写真はすべて2022年5月18日撮影)


イルピンの破壊された橋。多くの市民たちがこの下から徒歩で避難を試みた。
医療支援物資などの運搬ボランティアを続けるイゴールさん。軍事侵攻前はスポーツジムなどがある施設で働いていた。「ウクライナ軍が侵攻を止めてくれるのでは」という希望を持ち、ぎりぎりまでイルピンに留まっていた。3月頭、いよいよ身の危険を感じ、激しい戦闘が行われているルートを避け、上述の橋を渡っての避難を試みた。ところが橋へと差しかかる手前で、100メートルほど前方にいる車が爆撃を受けるのを目の当たりにする。やむなく戦闘の続く別のルートで脱出。「ここにいるのは奇跡かもしれない」「爆発を実際に目の当たりにして、怖いという感情も消えてしまった」と語る。「この状況をただ見ていることはできない」と、イルピン解放前からボランティアに従事しているが、仲間のうち2人が、地雷などで重傷を負ったという。解放直後の街はまだ、そこかしこで煙がくすぶっていたという。
イゴールさんたちが活動中に見つけたという手りゅう弾。とりわけ解放直後は、地雷や仕掛け爆弾がないか、活動中も気を張っていたという。私たちのイルピン取材中も、爆破処理の音が響くことがあった。
ターニャさんの自宅の目の前で爆弾が破裂し、家の中には今も、破片が飛び散った痕跡が残る。侵攻前はブチャの幼稚園で働いていたが、子どもたちは国内外に散り散りになってしまったという。
爆発で損傷した玄関の扉を見せてくれたターニャさん。
ターニャさんと夫は無事だったものの、2歳だった愛犬のレックスは攻撃の犠牲となってしまった。「まだあまりに若かった。家族だったのに……」と肩を落とす。
イルピンはキーウ市内よりも不動産価格が安く、郊外の住宅街として知られていたという。集合住宅に近づいてみると、まだ焦げた匂いが漂っていた。
上記の集合住宅に、荷物を片付けに戻ってきたアレクシーさん。解放後、自宅に足を踏み入れると、掃除機から壊れたパソコンまで、多数の家財道具が持ち去られていたという。子どもたちと妻はスロバキアに避難し、自身もここに戻ってくるつもりはないという。「東部ドネツクでの戦争が始まった頃から、いつかこういうことが起きるのではないかと予想はしていました。けれどここまで市民を攻撃する侵攻が起きるなんて、想像もしていませんでした」。
アレクシーさんの自宅のキッチン。一緒に片付けにやってきていた父のイヴァンさんは、「妹家族はロシアに暮らしている。この周辺で起きていることを説明すると、姪たちは“ナショナリストだ”と私を批判する。“一体そんなナショナリストをどこで見たというんだ”と聞き返すがね」と表情を曇らせる。
道を歩いていたとき、「どこから来たの?」と話しかけてくれたアレクサンドラさん。81歳だという彼女は、第二次大戦を生き抜き、戦時下を生きるのはこれで二度目だ。「ロシア軍がやってきて、私は自宅から締め出され、家は占拠されました。スナイパーたちが屋根に陣取り、家々や車など、あらゆるものを破壊していき、親しかった近所の人まで犠牲になりました。思い出すのも苦しい」と声を震わせる。
炊き出しが行われていた学校の食堂には、ウクライナ各地からボランティアが駆けつけていた。スタッフとして加わっていたヴィタリさんは、ヘルソン州の出身で、かつて暮らしていた街は今、ロシアの占領下にある。軍事侵攻前はコンクリートを扱う仕事をしていたという。「ロシア軍はまるで自分たちが王様だとでも思っているかのようにふるまった。抵抗しようとする人々はどこかに連れ去られていった」。SNSで避難を希望する人々とつながり、車を乗り合わせて家族とともに逃れてきた。目的地の街までは、ロシア占領地側・ウクライナ側、双方のチェックポイントが厳しく設置されており、通常であれば1時間半で済む道のりを、9時間かけて移動したという。
各地で破壊され、黒焦げになった車が森のそばに集められ、積み上げられていた。
この侵攻で犠牲になった市民の墓地。ひとつ、またひとつと、日々墓標が増えていく。
この日は兵士の葬儀が執り行われていた。遺体に土を被せている間、一匹の白い犬が墓の裏で佇んでいた。

次回はキーウからさらに北西へと進んだ、ブチャやボロディアンカの様子をお伝えする。

(2022.5.23/写真・文 安田菜津紀)


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