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写真で伝えるウクライナ・キーウ郊外、人々の声(2) ―ブチャ・ボロディアンカ編

キーウから北西約24キロのブチャ。人口約3万7,000人だったこの街で、ロシアによる軍事侵攻後、400人を超える市民が殺害されたとされる。平穏を取り戻しつつあるように見えるキーウから、車を走らせて30分ほどの距離でしかない場所で、残虐な行為の数々が繰り広げられてからあまりにまだ日が浅い。さらに北西へと進んだボロディアンカは、キーウから60キロほど離れた人口約1万2,000人の街だった。破壊の爪痕が深く刻まれた街並みの中にも、少しずつ日常を取り戻そうとする人々の姿があった。その様子を、写真を通してお伝えする。(写真は2022年5月18日・19日に撮影)


破壊された家屋の前で、どこからともなく人懐っこい猫が近づいてきた。
イルヘニ・ジェーニャさんは、ブチャからほど近いボルゼルに暮らしている。ロシア軍による侵攻後も、「行政機能が失われてしまえば、残った市民で何とかするしかない」と街に留まり続けていた。ある時、ロシア兵に呼び止められたジェーニャさんは、冷たく汚れた地面にねじ伏せられ、背中を踏みつけられながら「殺すぞ」と幾度も脅された。「彼らはまるで獣のように振る舞った」と表情を歪ませる。「痛い」と体を起こそうとすると、兵士は足に銃を突きつけ、「ロシアをどう思う?」と尋ねてきた。「正直に答えてほしいか?それともお前の欲する答えを言おうか?」。そう答えるジェーニャさんに、「正直に言え。ロシア軍はお前たちを守り、救いに来たんだ」と兵士はすごんだという。ジェーニャさんは「自分のアパートを占拠し、妻を蹴りだす相手とどう付き合えというのだ」と抗った。蹂躙に飽きたのか、気が変わったのか、彼らはジェーニャさんを解放したという。「彼らは家々から略奪したものを森へと運び込んでいった。家具や服、下着まで、あらゆるものだ。ある一人の男性は、兵士たちにレイプされ自殺してしまった」と声を震わせる。
ペトロさんの家は、ウクライナ軍とロシア軍の撃ち合いに挟まれ、身動きがとれなくなってしまったという。そのため、一時近隣の住人たち30人ほどで、ペトロさんの家の地下室で、いざというときの火炎瓶を作りながら息を潜めていたという。
街の外れに、焦げた車や戦車が集められていた。窓ガラスが粉々になった乗用車の車内には、犠牲になった市民の髪の毛などが残されていた。
キーウ方面からボロディアンカに差しかかる交差点脇の集合住宅。一階は、噴水と美しい庭のあるレストランだったという。
このレストランで警備員を務めていたニコライさん。暮らしている村は、ボロディアンカから11キロほど離れた、ベラルーシから続く主要道路のそばにある。「ロシア軍は、彼らが敷いた“ルール”に反する人間、例えば外出禁止令を破った人々を、男女問わず殺害した。彼らの戦車が道を通る間、我々は直立不動の姿勢をして、黙って立っていなければならなかった」。やがて村は、ロシア軍がさらに南へと攻撃を仕掛ける拠点のひとつとなり、朝4時からロケット砲が発射されることもあったという。「家が崩れるのではないかと思うほど揺れた。そんな時は自宅の一番頑丈そうな、壁に囲まれた部屋の奥でうずくまった」。ニコライさんと共にレストランに入ってみると、兵士たちが上階の住居から毛布などを持ち込み寝泊まりしていた痕跡が残っていた。
かつては夕食を楽しむ人々でにぎわっていたレストラン。壁や窓だけではなく、部屋の奥のテレビにまで銃痕が残されていた。ロシア兵たちが残していった食べ物が腐り、すえた匂いが漂っていた。
レストランは2店舗あり、ニコライさんはもう一方の、比較的被害が少なかった店舗に植物を運び、植え替えているのだという。「7月になれば、紫色の背の高い花が咲くだろう」と顔をほころばす。
破壊され、黒焦げになった集合住宅の前の広場では市場が開かれ、日用品、肉や野菜などが並んでいた。小さな露店で球根を売っていたおばあさんは、「ほら、植えたらこんなにきれいな花が咲くのよ」と写真を見せてくれた。
ポーランドからの支援を受け、ボロディアンカに建設された仮設住宅。250人が登録し、入居を控えていた。
中央の廊下は、トイレや共用スペースにつながっている。「住人第1号」と呼ばれていた黒猫も。
ラドミラさんは3月頭に街から避難したが、物資の運搬や人を避難させる支援を続けていた夫のセルゲイさんは留まり、犠牲となった。自宅に撃ち込まれた兵器の残骸を見せながら、「夫も奪われ、仕事も、生活も何もかも壊された」と怒りを込めて語る。
無残に破壊された自宅跡地には、鉄の破片が飛び散っていた。
破壊された自宅前に立つ、11歳の孫、ディアナさん。
夫のセルゲイさんは墓石を作る仕事をしており、その事務所が支援の拠点になっていたため、狙い撃ちされたとみられる。事務所に置かれていた強固な墓石さえ砕かれた上、セルゲイさんの遺体はちぎれ、黒焦げになっていたという。

それぞれの街を取材していると、偶然通りかかった人々が、自身が見たこと、亡くした人たちのことを懸命に語ってくれる。復興は、街のインフラ再建の問題だけではない。あまりに深く刻まれた恐怖や悲しみと向き合い、日常を取り戻していく過程はこれからだ。その長い道のりを見据えた支えが、今後も欠かせないはずだ。

(2022.5.24/写真・文 安田菜津紀)


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