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写真で伝えるウクライナ・首都キーウと日常

5月17日、ワルシャワからバスに乗ること15時間半。車窓から、白み始めた早朝の空の下に浮かび上がる街に目をやると、ウクライナ首都キーウへと続く道のわきにも、破壊の爪痕を色濃く残す建物が所々に目につく。街中は一見すると平穏を取り戻しているように見えるが、いたるところに土嚢が詰まれ、バリケードが残り、「戦時下」を思わせる光景も目立つ。毎日のように空襲警報が鳴り響き、スマホに入れていた“空襲警報アプリ”も避難を呼びかけるが、「もうこの日常にも慣れてしまった」と、人々は特にシェルターに向かう素振りもなく往来を続ける。そんな街中の様子を、写真と共にお伝えする。(写真はいずれも2022年5月17日、19日に撮影)


独立広場に向かう地下通路の入り口には、爆風などを防ぐための土嚢が積まれたままだった。
広場前に設置されたモニュメント。犠牲者の数が増えていく様子を伝えている。
広場脇の歩道橋に掲げられた「#SAVE MARIUPOL」(マリウポリを救え)のフラッグ。
空中遊歩道からドニプロ川を望む。
旧ソ連時代に設置された、ロシアとの友好を象徴する「人民友好アーチ」は、5月14日、「ウクライナ国民の自由のアーチ」へと名称変更された。アーチ下に設置されていた、ウクライナ人とロシア人の労働者2人がソ連の友好勲章を掲げるブロンズ像は、4月26日に撤去された。
市内に残るソ連式アパートは、近年アート作品に活用されているという。
チョルノービリ原発事故の歴史を伝える国立チョルノービリ博物館には、入り口脇に東京電力福島第一原発事故に関する展示スペースが設置されている。
聖ミハイル黄金ドーム修道院前の壁には、2014年以降、ウクライナ東部で犠牲になった兵士たちの顔写真が並んでいた。
国立ホロドモール虐殺博物館。旧ソ連時代、ウクライナをはじめ、厳しい集団化政策や収穫物の徴収に見舞われた農村部では、1932年から33年にかけて、人為的な大飢饉「ホロドモール」が起きた。ウクライナ全土では推定で400~500万人が亡くなったとされている。
キーウファッションパークから臨んだ市内。
練習場が破壊され、公園で練習を続けるボクシングクラブ。ウクライナはヘビー級世界王者のオレクサンドル・ウシク氏やライト級王者のワシル・ロマチェンコ氏を筆頭に、ボクシングも盛んだ。ボクシングクラブに所属していたユースの選手たちは国内外に散り散りとなり、「大切な試合の機会を逃し続けなければならない状況は、子どもたちの未来に今後も大きく影響する」とコーチを務めるオレーさん(左)は語る。
ボクシングクラブがかつて練習していたスポーツクラブ。3月頭、道路を挟んで向かい側のテレビ塔が爆撃された際に被害を受けた。この攻撃で、通行人らが亡くなっている。

街を歩いていると、ロシア語とウクライナ語、そのどちらも人々の間で飛び交い、「ロシア語話者=親ロシア派/ロシア系住民」という単純化した図式があてはめられないことを実感する。

私たちと取材を共にしてくれたキーウ在住の女性は、「自分がロシア語を話しているのか、ウクライナ語を話しているのか、特に意識せず、自然にしゃべっている」という。元々彼女は東部ドンバス地方出身であり、2014年に、ロシアが後ろ盾となっている分離派とウクライナ軍との間で戦闘が始まってから、キーウで暮らすようになったという。ただ、「ドンバス出身」と周囲に伝えると、「親ロシア派なのか」と度々身構えられた経験があると、彼女は複雑な思いを語ってくれた。

また、市内や国内から逃げることを選んだ人、留まることを決断した人、この軍事侵攻に対してどのようなリアクションをしたのかによって、今後日常を取り戻していく中で、人々の意識の分断につながらないかと懸念する声にも触れた。目に見える戦禍が収まれば、戦争のすべてが終わるわけではない。だからこそ今後も継続して、街や人々の息吹を伝えていきたい。

(2022.5.27/写真・文 安田菜津紀)


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