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第15話 サンドイッチを片手で

サンドイッチが好きだ。「サンドウィッチ」という名前は実在のサンドウィッチ伯爵のおかげだというが、私は長らく「サンド」=挟むという意味にとらえていた。ウィッチではなくイッチと認識もしていた。また、サンドイッチは、イギリスの貴族がカードゲームを楽しむために片手で食べられるように工夫したものだと言われている。



とくに、トーストしたパンで作ったサンドイッチに目がない。BLTサンドイッチを初めて食べたのは、デニーズだったと思うが、あのときの感動は忘れられない。30年くらい前に、代官山で並んで入ったサンドイッチ屋さんのコンビーフサンドも衝撃のおいしさだった。

コンビーフサンドはいまでもときどきウーバーイーツ(出前)で頼んだり、店に行って注文したりするが、サンドイッチのなかではかなり好きな方だ。脂分で滑らかになっている細かい肉は、塩味の効いた味付けが加わって、トーストしたパンとよく調和する。



トーストしていないパンで作るサンドイッチも負けていない。喫茶店などでは、厚切りになっていることもあるが、耳を切った薄切りが、断然私のなかで勝利する。あれを食べると、小学校のころ遠足などで、母がサンドイッチを作って持たせてくれたことを思い出す。

バターやマーガリンにマヨネーズを混ぜて、パンに塗り、具財をはさむ。しゃきっとしたレタスやみずみずしいきゅうりにハムの組み合わせは、たまらない。茹でた玉子を細かく切り、マヨネーズで和えて具にした玉子サンドも好きだった。



思い出深いサンドイッチといえば、ロッテリアのイタリアンホットも外せない。

祖母が生きていた頃、毎週日曜日の朝、ミサに出るため、一緒に教会に行った。当時、ミサの前は食事を摂ることが許されなかったので、ミサのあとは、空腹の限界だった。だから帰りに、祖母、母、私、妹たちで、教会の近くのロッテリアに行くのがお決まりとなっていた。外食をめったにしない祖母がとても楽しみにしていた行事でもあった。

表情がそう豊かでない祖母が、はにかんだ笑みを浮かべながら、イタリアンホットを頬張っていた姿を覚えている。教会に行くときは、必ずおめかしをしていったので、祖母はモヘアのカーディガンや、白いブラウスにグレーのスカートを着ていた。私は紺のワンピースにエナメルの靴といったような恰好だった。よそゆきの服装の、大人と子ども、しかも女性だけの集団が、ロッテリアでむしゃむしゃと食べている姿は、なかなか微笑ましかったのではないだろうか。

私たちは、必ずイタリアンホットを注文した。いま思うと、パニーニみたいなものだ。焼いた薄いパンが独特の風味で、挟んである肉やチーズが熱々だった。あのころは、すごく美味しいと思ったけれど、いま、イタリアンホットは、ロッテリアのメニューにない。ロッテリアにはそれこそ20年以上行っていないが、イタリアンホットを復活してくれたら、ぜひ食べに行きたいと思う。



スタイルコンシャスが極まっていた20代の、いきがっていた頃は、村上春樹の小説に出てくるサンドイッチがおしゃれだなあと思って真似してみたこともある。残念なことに、どうってことなかった。たぶん、ちゃんとしたレシピにそったわけでもなく、適当につくったからだろう。



また、最近では、アフタヌーンティーにも、フィンガーサイズのサンドイッチが出てくることがあって、嬉しくなる。甘いものばかりのなかで、あの、ちょっとだけ甘くないもの、というのが絶妙で、きゅうりのサンドイッチなどがさっぱりしていて抜群だ。ちなみに、本場イギリスではきゅうりのサンドイッチが人気だそうだ。一説によると、サンドウィッチが普及しはじめた当時のイギリスでは新鮮な野菜がきゅうりくらいしかなかったせいだという。

ともあれ、サンドイッチは、コンビニでも手に取ることがあるくらい、私が親しんでいる食べ物のひとつだ。美味しいサンドイッチ店のことを聞きつけると、行ってみたくなるし、お気に入りのサンドイッチ店もいくつかある。近頃は、ハンバーガー店のサンドイッチもあなどれない。バケットやクロワッサンのサンドイッチもおしなべて好きだ。そして、ベトナムのサンドイッチ、バインミーも大好きだ。ホーチミンで食べて以来、日本でも美味しいバインミーを求めてやまない。



いまは、食べたいからサンドイッチを食べるのだが、ほかに選択肢が少なくて、仕方なくサンドイッチを食べる、という時期があった。二人目のこどもである娘が生まれてからだ。

娘が生まれたとき、長男は2歳8か月だったから、まだまだ手がかかり、やきもちもすさまじかった。

加えて息子は、小児ぜんそくがあり、身体が弱かったので、ありとあらゆる流行り病をもらい、ぜんそくの発作もしょっちゅうで、救急外来の常連だった。離乳食も全然食べず、断乳後もずっと牛乳ばかり飲んでいたから鉄欠乏性貧血になった。食が細くて好き嫌いも多かった。アレルギーもあり、毎日床だけでなくカーテンからシーツまで掃除機をかけたし、皮膚もかぶれやすく、とにかく世話が大変だった。



ほとんど家にいない夫には頼れず、ひとりで育児に奮闘していた。その頃は、実家に頼れない事情もあって、非常に孤独な闘いをしていた。娘をベビーベッドに寝かせていると、息子がそこに行ってつねったり踏んづけたりしてしまうので、家の中でも娘を抱っこ紐で括り付けていた。あまりにもいつも抱っこ紐をつかっていたため、鎖骨を折っていることにも気づかなかったぐらいだ。つねに娘を抱いているから、息子はますますやきもちをやき、泣いたりすねたりぐずったり、癇癪を起した。赤ちゃん返りもひどかった。



息子のやきもちは1年ぐらいで落ち着いたが、乳幼児ふたりは目が離せないので、ほんとうに大変だった。

息子に食べさせることにはかなりの労力を割いたが、自分の食事は適当だった。娘は母乳をあげていればよかったので、つねに私にべったりと甘えてくる息子のケアーに専心していた。1人目のときは、母乳のためにと自分の食事も栄養に気を配ったが、2人目はそんなことよりとにかく日々生きていくだけで精一杯だった。口に入れられるものを、タイミングを見て摂取する、という感じだった。

あのころの体験が、「乳房のくにで」(双葉文庫)を生み出した。



子どもが眠った時などを見計らって、自分用におにぎりやサンドイッチを作っておくこともあった。娘を抱いていても、息子の世話をしていても、片手で食べられるからサンドイッチは最適だった。カードゲームではなく、育児のためだが、まさにサンドイッチの本領発揮だ。当時は生協の宅配で食材を頼んでいたが、ご飯を炊かなければならなくて、握る、というひと手間があるおにぎりよりも、サンドイッチは具財をはさむだけだったから楽で、頻繁に作った。パンにバターやマヨネーズを塗るのも省いて、具はハムとかスライスチーズ程度の簡単なものだった。パンを切ることすらしなかった。

自分のために手をかけたものを作るような時間も、心の余裕もなかった。しかし、手づくり信仰に陥っていたから、息子の食事だけでなく、自分の口にするものも、手作りということだけは死守していた。



その作り置きのサンドイッチは、ものすごい速さで私の口の中に、胃の中に、おさまっていく。立ったままキッチンで、ということもあった。年の近いふたりの子育てのおかげで、私はかなり早食いとなってしまった。わずかな隙に気が急いて食べるからだ。ひどいときは、娘に授乳しながらサンドイッチを頬張っていた。



のちに、一人っ子のママとランチをしたとき、「食べるの、早いよねえ」とすこし馬鹿にしたように言われて、そうなのか!と気づいた。それまで、自分では早食いであることをあまり意識していなかった。子どもと一緒に食事をしながら自分はすぐに終えても、子どもに食べさせるのに必死だったから気づかなかったのだ。あのころは、すべてにおいて自分を省みるような視点は持てなかった。

一人っ子だと、ちょっとこどもが大きくなれば、ゆっくりと食べる時間もあったのだろうか。それとも、その人はたまたまパートナーの助けもあるから、早食いせざるを得ない環境ではなかったのだろうか。たしかに彼女は、そのとき、優雅に、落ち着いて、ゆっくりと食べていた。

いずれにしても、育児の同志かと思っていたママ友に痛い事実を指摘されて、悲しかったし、とても恥ずかしかった。

たぶん、私はいまでも食べるのが早いと思う。無意識に、テーブルで一番先に食べ終わっていることがままある。



下の娘がすこし成長してからは、ふたりの子どもを連れて、たまにファミリーレストランで外食をして、気分転換をした。

けれども、行ってみると、とてもじゃないが、気分転換どころではなかった。自分は娘を抱っこしながらBLTサンドイッチを片手で忙しく食べるものの、落ち着きのない子どもたちに食べさせるのが難儀で、ぐったりと疲れただけだった。こぼしたり、落としたりするし、騒ぐこともあって、周りの目も気になる。子どもだけでなく、私もこぼしてしまったりする。私の叱る声もうるさかっただろう。周りから白い目で見られているのがわかった。

結局、外食をしたことを後悔して終わるのだ。それなのに、家にいて親子3人で煮詰まると、また外食に行きたくなった。誰かにつくってもらった食べ物を食べたくなったのだ。BLTサンドイッチを食べたかったのだ。

とはいえ、行けば行ったで、後悔する、といったことを繰り返していた。



ある、よく晴れた春の日、ベビーカーに乗せた0歳児の娘と、遊びたい盛りの3歳の息子を連れて公園に行った。

そのころ、公園デビューという言葉があったように、公園で遊ぶ仲間とママ友をつくるのは大きな試練で、一大事だった。そして、トラブルも耳に入ってきていた。

幸い、産婦人科が一緒で、新生児室で並んで世話をした人が近所に住んでおり、彼女も下の子が生まれていたので、共通の話題も多く、親しく付き合っていた。私はいつもその親子と待ち合わせて公園に行った。通ううちに、公園で知り合った仲間も自然にできたけれど、最初から行動をともにする人がいたことは心強かった。そんなわけで、公園遊びの社交は親子ともども順調だった。

だが、その日は土曜日で、公園仲間とは一緒でなかった。元夫は仕事でおらず、私は公園に行くと言ってきかない息子に折れて、ひとりで娘と息子を連れて公園に向かった。

すると、公園には、パパやママと一緒、あるいは、パパが連れてきている親子づればかりだった。ベビーカーの娘がいるから、息子の相手もろくにできなかったが、息子は自分で世界を作って、なにかの設定のもと、ひとりでぶつぶつ言いながら、公園のなかを駆け回っていた。ほかの子の父親に話しかけて、相手をしてもらったりもしていたし、いつのまにかそこにいた女の子たちと一緒に砂場で「家族ごっご」を楽しんだりもしていた。息子は人見知りもせず、社交的だったのは幸いだった。

それでも、やはり寂しいのか、私のところに来て、「パパがいればよかった」とぽつりとつぶやいた。

「明日はパパも休みだから一緒に公園に来られるよ」

息子は首をふって、「いま、パパと遊びたいんだよう」とうなだれた。

私は、返す言葉が見つからなかった。もう、自分と子どもだけで土曜日に公園に来るのはやめようと思った。

「そろそろ帰ろうか」と私が言うと、息子はこくりと頷いた。



帰り道、息子は疲れてか、甘えてか、歩くのを嫌がったので、娘を抱っこ紐で自分にくくりつけ、ベビーカーに息子を乗せた。ベビーカーから身体がはみ出していたが、妹がベビーカーに乗っているのをいつも羨んでいたから本人はご満悦だった。そして、すぐに寝てしまった。

重いベビーカーを、娘を抱いたまま、えっちらこっちらと押していると、いつの間にか娘も寝付いていた。私は、こんなタイミングは逃せないと、どこかでお茶でもして帰ろうと思った。空腹だったので、なにか食べてもいい。たしか、ファストフードの店があったはず、あそこなら子連れでも大丈夫だろうと、うろ覚えの道のりを行くと、アメリカンスタイルのサンドイッチ屋さんがあるのを見つけた。

私は喜び勇んで、店に入って行った。お昼の忙しい時間は過ぎたのか、それほど混んでいなかった。けれども「ベビーカーの方はテラス席でお願いします」と、ちょっと冷たい調子で言われた。

子連れは迷惑なのかな、と一瞬頭をよぎったが、断られたわけではないし、こんなチャンスはないし、と自分に言い聞かせ、テラス席に落ち着いた。

メニューが豊富で悩んだが、ここは原点に返るべきだろうと、BLTサンドイッチを注文した。飲み物は自家製レモネードにした。店員は終始不愛想だったが、気にしないようにした。

テラス席の隣には、女性の二人組がいたが、話に夢中でこちらのことは気にかけていないようでほっとした。子どもが苦手、という人も結構いるからだ。

サンドイッチが届くまで、目の前の道を歩いていく人たちを眺めていた。カップル、親子連れなどが通り過ぎていく。穏やかな土曜日の光景だった。



やがてボリュームたっぷりのBLTサンドイッチが運ばれてきた。

私は、心の内で、わあ!と声をあげていた。厚切りのベーコンが香ばしく、レタスとトマトは新鮮そうだった。ピクルスとフライドポテトが付け合わせてある。

娘の首がぐらぐらしていたので、頭を左手でおさえ、私は、BLTサンドイッチを右手でつかんで、かぶりついた。

なんて美味しいのだろう。

こぼれないように、紙にはさまれていたから、片手でもうまく食べられた。お腹がすいていたので、一気に食べ終えた。私は、心もお腹も満たされた。

いい気分で、残ったポテトとともに、レモネードをすすっていると、隣のテラス席の女性たちが同じくらいの年ごろだということに気づき、視線のはしで観察しはじめた。バジルチキンなるしゃれたサンドイッチとポテトをつまみに、ビールを飲んでいる。

 

聞くとはなしに、彼女たちの会話が耳に入ってきた。ひとりはどうやら大手企業勤務のようで、仕事の話をもうひとりに愚痴っていた。聞き役だった女性も、おそらく取引相手かなにかの企業の名前を出しながら、私もこんなことがあって、と苦労話を始めた。どう考えても、キャリアがありそうなふたりだった。休日らしいくだけた格好だったが、とても洗練して見えた。雑誌の1ページを見ているような、きまり具合だった。

息子に、砂で汚れた手で触られ、娘のよだれがついているカットソーに、慌てて履いたよれよれのチノパンの自分が、とたんにみっともなく思えてきた。

私は、彼女たちから遠いところに来てしまったな。

子どもはかわいいし、結婚や出産を後悔しているわけではない。だが、もしかしたら、彼女たちのような時間を私も持っていたかもしれないと思うと、たまらなかった。



隣にいるのがいたたまれなくなり、私は、会計をして帰ろうと椅子から立ち上がった。するとそのとき、娘が目覚めてしまい、泣き出した。からだをゆすってあやすが、泣きやまない。息子も目覚めて、「ママ、帰ろうよー」と叫んでいる。

隣の女性たちがこちらに視線をよこした。ひとりは、眉間にしわを寄せている。もうひとりは、すみませーんと手をあげて、店の人を呼んだ。

「席、なかに移動したいんですけどー」

私は、ぐずる娘をよしよしと背中をさすり、帰るー帰るーとわめく息子をなだめながら、おしゃれなふたりの女性がそそくさと店の中に入って行くのを見つめていた。

明らかに、避けられたのだ。当然だけど、落ち込んでしまう。

一刻も早く、ここから去りたいが、いま、こんなうるさい状態で、会計をしに店内に入るわけにはいかない。

そう思って、ママー、ママーと言い続ける息子に、「静かに」と注意するが、やめてくれない。娘は泣き止まない。



途方に暮れていたら、店員さんが来て、「こちらで払って大丈夫ですよ」と言ってくれた。さっきよりやわらかい物言いだった。コロナ禍を経たことでテーブル会計が当たり前となった現在とは異なり、かつては、会計はレジでしかできなかった店がほとんどだったから、店員さんの特別な気遣いがありがたかった。不愛想に見えたのは、私と子どもの存在が嫌だったからではなかったのだろう。

ところが、なんということだ。

持ち合わせの現金が足りなかった。公園に行くだけだからと、小銭ぐらいしか持っていなかったのだ。クレジットカードももちろんない。

消えてしまいたいぐらい恥ずかしかった。惨めだった。

「後でいいですよ」と言ってくれたので、住所氏名電話番号を書いて残し、逃げるように店をあとにした。そして、ほとんど走るように息子が乗る重量級のベビーカーを押して自宅を目指した。息子はスピードに喜んではしゃぎ、抱っこ紐のなかの娘は、ぐずぐずと泣き続けていた。



チョ・ナムジュ氏の小説「82年生まれ、キム・ジヨン」に印象深いエピソードがある。キム・ジヨンが、子どもがベビーカーの中で眠ったので、カフェで珈琲を買って公園のベンチで飲む。そして、近くにいたサラリーマンがなんとなく羨ましくなって見ていると、「ママ虫」(育児をろくにせずに遊びまわる、害虫のような母親という意味のネットスラング)と言われているのが聞こえてしまい、ショックで熱い珈琲をこぼし、公園を立ち去り、無我夢中でベビーカーを押して走って帰ることになる。

私は、この描写を読んで、サンドイッチ屋さんでの出来事を思い出し、胸がえぐられるようだった。

自分は邪魔ものなのだと、宣告されたような思い。

数年前までは、あの人たちと自分は、何も変わらなかったのに。

結婚して子供を産むことが幸せと刷り込まれてきたけれど、どうしてこんなに息苦しく、辛く、孤独なのだろう。

キム・ジヨンの思いや苦しみは、そのまま、当時の私の心の声だった。



私は、仕事をやめて長男が生まれるまで、時間を持て余していた。家事だけではあまりにも暇なので、日本語講師の資格取得の勉強をして、試験に合格した。そして、短い間だが、日本語講師として教えていた。

あの日、公園から戻った私は、試験勉強をしたときのテキストを引っ張り出して、子どもが寝付いた後、読み返した。そして、必ずいつか、日本語講師の仕事を再開すると誓った。

結局、離婚後に日本語講師として働くことになった。というより、日本語講師の資格があったから、離婚に躊躇もなかったのかもしれない。会社勤めは、ブランクがあると難しいと理解していたから、専門的な資格があってよかったとつくづく思った。



今年(2024年)の4月11日は、鷺沢萠さんの20回目の命日だった。

小説家を目指して新人文学賞に応募していたとき、鷺沢萠さんの遺作の短編集「ビューティフルネーム」に出会った。そこには、通称名で暮らしていた在日コリアンが本名を名乗るにいたった物語が描かれていた。

いわゆる在日文学といわれる作品を私はどちらかというと避けてきていた。プロの作家を志し始めた時点で、読んではみたのだが、あまりにも心が痛くて、読むのがつらかった。だが、鷺沢さんの作品は、すらすらと読めたのだ。まるで自分のことが書いてあると、どっぷりと感情移入するのだが、心が削られることはなかった。こんなふうに書きたいと、切実に思った。

そして、それまでは、ママ友のいざこざなどを書いていたが、初めて自分の属性に向き合って在日コリアンのことを書いてみたのが、「金江のおばさん」という短編で、私がお見合いでお世話になった池上のBさんをモデルとしたものだった。

そして、その「金江のおばさん」(「縁を結うひと」に収録)が新人文学賞を受賞し、私は小説家になることができた。



2012年に新人文学賞をいただき、2013年に単行本を出した。

そのころ、東京の新大久保や川崎の桜本、大阪の鶴橋といった在日コリアンの集住地域に排外主義団体が押し寄せ、ヘイトスピーチをまき散らすデモが行われていた。私はその事実を目の当たりにして、いてもたってもいられない気持ちで、参議院議員会館で行われた、ヘイトスピーチに抗う集会に出向いた。そして、そこで、川崎桜本に暮らす在日コリアン女性、崔江以子さんと出会った。たまたま「ひとかどの父へ」という川崎桜本が舞台のひとつとなっている小説を執筆中で、私から江以子さんに話しかけた。



縁とは実に不思議なものだ。

なんと、江以子さんは、「私の話」という私小説に出てくる鷺沢さんの親友で、「ビューティフル・ネーム」のなかの短編「故郷の春」のモデルだった。また、鷺沢さんは、江以子さんの勤めるふれあい館で、識字学級のハルモニたちと心を通わせていたそうだ。

私は、江以子さんと親交を持つようになった。

彼女は、ヘイトスピーチ解消法や、川崎での条例の成立に貢献したことで、ネット上だけでなく、現実でもすさまじいヘイトスピーチを浴びている。勤務先に脅迫文や嫌がらせの品々が送られてくることもある。それでもくじけずに、差別と闘い続けている。私は、そんな江以子さんを応援することぐらいしかできずにいる。

私が鷺沢さんを敬愛していることを知っている江以子さんは、今年の鷺沢さんの命日に、私を、お墓詣りに、誘ってくれた。

生きていると、奇跡のようなことが起きるのだなと思う。

私は、鷺沢萠さんの墓前で、作家になることへと導いてくれたことに感謝した。そして、戦争を拒み、差別を許さなかった鷺沢さんが結んでくれた縁を大事にすることを誓った。安らかにと祈ると、お墓の近くにあった大木の枝が風に揺れて、まるで祈りに応えてくれたかのようだった。耳をすますと、鳥のさえずりが聞こえてきた。



お墓参りの帰りに、鷺沢さんが生前よく通っていたというサンドイッチ屋さんに行った。崔江以子さん、鷺沢さんの秘書だった方、そして私の三人で、ビールで献杯し、サンドイッチを食べた。そこは、1977年からやっている老舗のサンドイッチ屋さんで、カジュアルな雰囲気のあたたかい店だった。

生前に面識はなかったが、おふたりがたっぷりと思い出話をしてくれて、鷺沢さんのお人柄に触れたような気がして、素敵な、貴い時間だった。

サンドイッチは厚切りのトーストに、はみ出るほどの具が挟まっていた。コンビーフとキャベツのサンドイッチがとっても美味しかった。

忘れがたい、たいせつなサンドイッチの思い出が、またひとつ増えた。



韓国でも美味しいサンドイッチに出会った。ソウルには、ベーグルのサンドイッチも食べたし、BLTもサンドイッチも美味しかった。最近は、ベーカリーが増えて、パン自体の味も進化しているので、サンドイッチも当然優れたものが多い。

一方、韓国ドラマでは、サブウェイがよく出てくるのを見る。サンドイッチが日常的に食べられているようなシーンもある。そういえば、パンも具財もオーダーメイドでできるなんてと、サブウェイを初めて食べたときは驚いたものだったが、あれはだいぶ前のことだった。



両手でしっかりとつかんでサンドイッチを食べることができるようになった昨今である。だが、2匹の老犬との散歩の途中にたまに近所のサンドイッチ屋さんに行くと、抱っこしろとせがむ一匹のおかげで、片手で食べることになってしまう。

けれども、不便ながらも片手で食べるサンドイッチも、悪くはない。

犬のぬくもりを感じながら、すっかり大人になった息子や娘の幼い頃を思い出し、懐かしみ、あのころはよく頑張った、えらい、と自分で自分をひそかに褒めたたえている。



(著者提供)

【プロフィール】 深沢潮(ふかざわ・うしお)
小説家。父は1世、母は2世の在日コリアンの両親より東京で生まれる。上智大学文学部社会学科卒業。会社勤務、日本語講師を経て、2012年新潮社「女による女のためのR18文学賞」にて大賞を受賞。翌年、受賞作「金江のおばさん」を含む、在日コリアンの家族の喜怒哀楽が詰まった連作短編集「ハンサラン愛するひとびと」を刊行した。(文庫で「縁を結うひと」に改題。2019年に韓国にて翻訳本刊行)。以降、女性やマイノリティの生きづらさを描いた小説を描き続けている。新著に「李の花は散っても」(朝日新聞出版)。

これまでの連載はこちら
小説家 深沢潮 エッセイ「李東愛が食べるとき」
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