食と農を通じた暴力―ホロコーストとパレスチナ(藤原辰史さんインタビュー)

ナチス・ドイツが主導した、ユダヤ人やロマの人々、社会的マイノリティなどへの大量殺戮「ホロコースト」。こうした過ちを二度と繰り返さないため、加害の歴史・記憶を受け継いできたはずのドイツ社会ですが、イスラエルによるパレスチナの人々への民族浄化が加速する現在、むしろドイツ政府はイスラエルに加担する姿勢を続けています。
なぜドイツ国内において、パレスチナの現状は軽視されてきたのでしょうか?食や農の観点を踏まえ、歴史学者の藤原辰史さんに伺いました。

ホロコーストと記憶の偏り
――そもそも「ホロコースト」とは何なのか、藤原さんはどのように説明されていますか。
ホロコーストの定義は様々あり、一概には言えません。よく言われるのは、古代ユダヤで行われていた、動物の肉を焼いて神様に捧げる祭りの伝統を指す「ホロコースト」という言葉を、ナチスによるユダヤ人の迫害、とりわけ強制収容所においてガス(実際は穀物倉庫で害虫を殺すための青酸ガスの殺虫剤)で殺害し遺体を焼いたことの喩えとして使ったというものです。
しかし、ユダヤ人だけでなく、同様に収容所で殺されたシンティ・ロマの人々や同性愛者の人々、あるいは政治犯やソ連の捕虜などの殺戮を含めて「ホロコースト」と呼ぶ人もいて、そこには論争もあります。
――様々な人々が迫害の対象となっていた中で、ドイツの中での伝承のされ方、眼差しの格差のようなものはあったのでしょうか。
ユダヤ人がナチスの最大の被害者であるという点に間違いはありませんが、その前提の上でもなお、2つの意味で現実と異なるバイアスがあります。
1つ目は、アウシュビッツ強制収容所を中心とする、収容所におけるユダヤ人の虐殺と、それ以外でのユダヤ人に対する虐殺のあり方について、前者に特化して論じられることが多かったのではないか、という点です。
たとえば、イスラエルの4代目首相ゴルダ・メイアの回想録は日本語でも読めますが、ナチスのユダヤ人迫害として書かれているのは基本的に収容所でのガスによる殺戮です。ツィクロンBという殺虫剤でユダヤ人を大量に殺した「近代的な殺し方」というイメージがありますが、実際にはそんなに単純ではなかった。
犠牲になったユダヤ人の多くは東欧ーー今のポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、チェコ、スロヴァキア、ハンガリーなどの地域の人々で、イスラエルを建国した人々もその辺りからナチ時代の頃に逃げてきたユダヤ人が多いのですが、彼らを殺したのは実はドイツ人ばかりではありませんでした。同じ村で一緒に暮らしていた、昨日まで隣人だったポーランド人やウクライナ人たちにも、武器を用いて殺されているんです。こうした血で血を洗うような直接的な暴力で亡くなったユダヤ人は、全体のユダヤ人の犠牲者の半数を占めます。
そういう迫害もガスによる収容所での殺戮の一方であったのですが、記憶として定着していないということを、オメル・バルトフというイスラエル出身のアメリカの歴史家が指摘しています。(『ホロコーストとジェノサイド』オメル・バルトフ著、橋本伸也訳、岩波書店、2024年)
2つ目は、各地で殺されたシンティ・ロマの人々についてです。たとえば、旧ユーゴスラヴィアのクロアチアにあった「ヤセノヴァツ強制収容所」では、ナチスの傀儡政権(クロアチア独立国)となったカトリックのクロアチア人によって、ユダヤ人よりも多くのセルビア人が殺されています。セルビア人はセルビア正教の信者が多い。これは1990年代のユーゴスラヴィア紛争につながっていくのですが、このヤセノヴァツ強制収容所に行くと、シンティ・ロマの人々のお墓が残っており、多くの人々が殺されたことがわかります。もちろん、アウシュヴィッツにもシンティ・ロマの犠牲者の記念碑も立っています。ナチスによって、ソ連の捕虜も300万人餓死させられています。ユダヤ人以外の犠牲者について、記憶の偏りがあることは否めないと思います。

アウシュビッツ博物館(2017年9月撮影)
記憶文化とイスラエル・パレスチナへの姿勢
――そうした迫害の記憶、あるいは「記憶文化」は、ドイツにおけるイスラエルとパレスチナに対する態度にどのような影響を与えているのでしょうか?
ナチスの迫害による様々な犠牲者に対して、ドイツは国家として追悼し責任を明らかにしなければならなかった。しかし、犠牲者の中で自分たちの被害を代表してくれる国家を戦後に持てたのは、イスラエルを建国したユダヤ人だけなんですね。
ドイツのハイデルベルクには、シンティ・ロマの過去の記憶を、ナチ時代だけではなくそれまでの差別も含めて歴史的に伝える博物館があるのですが、そこの館長(彼もロマなのですが)は、イスラエルという国があるユダヤ人と国をもたないロマの記憶文化は国際社会でのプレゼンスが異なる、と言っていました。国連などで自分たちの迫害と戦後の対応の不十分さについて発言しようとしても、どうしても弱くなってしまう、と。
ソ連の捕虜についても、冷戦期の時代状況の中で、なかなかソ連が取り上げてくれなかった。世界政治のアクターとしてはあくまで国が強いので、国を代表してものが言えたのは、やはりイスラエルだけだったわけです。
武井彩佳さんの『〈和解〉のリアルポリティクス――ドイツ人とユダヤ人』(みすず書房、2017年)などのご著作から学んだのですが、イスラエルという国はナチ時代には存在していなかったので、ドイツに対する賠償を求めるというのは、国際法的には本来難しいことです。しかし、国際法のこれまでの慣習を超えるほど悲惨なことだったという思いがイスラエル・ドイツ双方にあり、さらには物資が欠乏していたイスラエルにとってドイツからの経済支援が必要だったことから、経済援助と戦後の責任をないまぜにして、ホロコーストという超法規的に悲惨な出来事の贖罪を経済を通じて行うという関係がドイツとイスラエルとの間で生まれたのでした。
西ドイツの初代首相コンラート・アーデナウアーは、元ナチだった人物を裁判にかけたり、パージ(追放)するなどのいわゆる「非ナチ化プロセス」を経たあと、元ナチが政権の周囲にいることが明らかになり、ユダヤ人からも批判を受けた人ですが、一方ではイスラエルに経済援助をするだけではなく秘密に軍事協定を結んでおり、パレスチナおよびアラブ諸国との戦争の中で戦えるよう武器を援助するという構造を作ってしまった。ホロコーストがあったがゆえに戦争を支えてしまうという構造が、その後も統一後のドイツの記憶文化やイスラエルとの関係性を決めていったというのは、重要な点だと思います。
――藤原さんのご著作『中学生から知りたいパレスチナのこと』(岡真理さん、小山哲さんとの共著、ミシマ社、2024年)では、「西ドイツによる支援が結果的にイスラエルの国家開発につながっていったのではないか」とも指摘されています。
ゴルダ・メイアの回想録でも、「(建国直後の)イスラエルは本当に貧しかった」と述べられていますが、たしかに背に腹はかえられない状況があった。一方、ドイツは当時多くの企業が世界からの信頼を失い、市場を求めていた。たとえばフォルクスワーゲンにしても、ダイムラー・ベンツにしても、大企業はナチスとの関わりを一応は認めていますがーー(化学産業の)IGファルベンはニュルンベルク裁判にもかけられていますーー戦後、西ドイツはこうした企業を基本的には温存します。私がいま研究しているテプファーという穀物商社も東欧やフランスの占領地で利益を得た企業ですが、戦後も世界有数の企業に変身を遂げました。
占領期の日本では財閥解体で大企業が解体されながらも結局はかたちを変えて生き残り、朝鮮戦争の特需によってさらに力をつけたのと並行して、ドイツでもやはりナチスを支えた企業が戦後も残り、外へ市場を求めていくわけです。
イスラエルへの補償として、資金ではなく商品を輸出できるというのは、ドイツの主要産業である自動車業や造船業にとってはとても助かる。そして、イスラエルの経済が発展してくると、非常に乾燥した地域が特にイスラエル南部には多い中で、水の確保が大きな問題になります。
これも武井さんのご研究から知ったのですが、たとえば当時イスラエルで、海水から塩分を抜いて淡水にし、その電力を原子力発電でまかなうという計画があったそうです。これに対し、ドイツが原子力発電の技術を輸出した記録があるのですが、淡水化のプロジェクト自体が頓挫してしまい、使われなかった。断言はできませんが、イスラエルの核開発の過程で、もしかするとドイツの技術が使われていたかもしれない。やはりイスラエルの戦後の形をつくっていく上で、ドイツの援助は本当に大きかったと思います。
――こうしたイスラエルへの支援が確立していった一方で、なぜパレスチナに関しては、ドイツ国内で軽視されてきてしまったのでしょうか?
パレスチナを「軽視」してきた、つまり「無視してきたのではない」ということが、大事だと思っています。ドイツはパレスチナ難民への援助として、国際社会として難民に向き合っていると言えるだけの資金は提供してきています。しかし、矛盾するのは、パレスチナ人が難民となる原因である戦争を、イスラエルに軍事物資を輸出することで支えているという点です。これはパレスチナにまったく援助しないより、余程タチが悪いと言えます。
こうした指摘はドイツ国内でも批判されているのですが、一般的には「とりあえず難民に対して援助している」ということが、かえってパレスチナの問題を見えづらくしてしまっている。
日本でも「若い人たちは政治に無関心だ」などと言いますけれども、「ちょっと関心はあるし知っている」と言っている人たちのほうが、実は安易な図式に安住していて、かえって物事の本質がわからなくなっていることがある。むしろ無知であることを自覚して、学ぼうとするほうが未来性があります。
ドイツでも、私たちはホロコーストのことを知っている、ナチズムのことももちろん反省して勉強しているし、19世紀からイスタンブールとバグダッドをつなぐ「バグダード鉄道」を敷設して物資を運搬してきたドイツにとって中東とは歴史的な関係が深く、無視してきたわけではないという認識があったことが重要なのではと思います。

アウシュビッツ博物館(2017年9月撮影)
農業と食を通じた統制
――藤原さんは「食」という切り口からもナチスについて論じていらっしゃいます。ナチスは「食」を通じてドイツ国民をどう統制したのでしょうか?
まず重要な点として、ナチスが政権を獲得したのは1933年、第一次世界大戦が1918年に終結してから、わずか14〜15年後のことだったんですね。ドイツでは第一次大戦の間からイギリスの海上封鎖により76万人と言われる人々が飢餓で亡くなり、さらに戦後、おそらく栄養失調が蔓延していたこともあり、スペイン風邪によってかなりの方が亡くなっています。
この背景には、ドイツが、とりわけルール工業地帯の発展に必要な安価な穀物や飼料などをアメリカやカナダやアルゼンチンなど他国からの輸入に依存していたことがあります。そうした中で、ナチ党は戦後民主主義のヴァイマル共和国の時代、東欧の穀倉地帯に勢力圏を伸ばすことで自給自足を目指し、二度とドイツ人を飢えさせはしないという主張を選挙戦で掲げました。
「封鎖」も、イギリス帝国主義からナチスを経てパレスチナへと脈々と流れている現代史の暗部を考える際に重要なキーワードです。植民地や自治領などの広大な穀倉地帯を背景に持つイギリスが第一次世界大戦時にドイツを海上封鎖したトラウマが、封鎖にも耐えうる農業的な国を作らねばならぬという、ナチスの農本主義を涵養していく。農民こそ国家の背骨であり、たくさん子どもを産んで、将来の兵士を生み出していくという、女性を一つの産む機械とみなしながら、ナチスは農本主義と軍国主義を一体化させていきます。
しかし、この自給自足という言葉の意味をナチスは途中から大きく変えていくんですね。ヒトラーの『我が闘争』にも書かれていますが、ユダヤ人がたくさん住んでいた東欧の穀倉地帯、とりわけウクライナには、チェルノーゼムという非常に豊かな土壌が広がっています。第一次大戦期に一時ドイツが獲得できたウクライナを自給源にして、食料をヨーロッパ中に行き渡らせるということを考えていったのです。食料を最初は自分たちでつくるといいながら、結局は奪いに行き、戦争と関わっていく。
それから消費の面では、自国で生産できないオレンジやバナナは食べずに、もっと国産リンゴを食べようとか、植民地から輸入されるコーヒーや紅茶の代わりにハーブティーを飲もうなど、とにかくドイツの地産地消を唱えて、消費をコントロールしようとしていきます。
台所に立っていると想定される女性たちに対して、そうした材料を使いなさいとか、生ごみは豚が食べるように分別しなさいなど、農業と食政策という女性に対する二重の統制があったことも、ナチスを知る上で重要だと思います。
――「飢えていい人」と「そうではない人」の線引きのようなものが、こうした政策の中でなされてしまったのではないかと感じます。
ナチスにとっては人種主義がここで生きてきます。飢えてはいけない人、ちょっと飢えていい人、飢えていい人というランクをつけながら、食料政策をやっていく。
特に1941年8月にソ連に攻め入った後は、ソ連の捕虜に対して食料配給量をコントロールしていく。占領した以上はその土地の人を食べさせなければならず、戦争中なので配給制を敷くわけですが、配給制を悪用するということをナチスが発明してしまった。
食料を独占し、「優秀な人材」にのみ分配する一方で、特定の人種には食料が渡らないようにすれば、必然的に大量死が生じます。ユダヤ人はここでも犠牲者となり、ゲットーに閉じ込められ、食料の供給を絶たれたことで、多くの人々が飢え死にしました。
飢えによって人々を殺していく、武器としての食料という感覚が、ナチズム研究や現代史研究にもっと必要だと思います。食料は容易に武器になるということは、忘れてはならないことです。
しかし、それはナチスだけがやったことではありません。同時代にナチス・ドイツと同盟国であった日本も、日本本土だけでは十分なお米が収穫できないので、当時植民地にしていた台湾島と朝鮮半島から輸入ーー当時の言葉では「移入」していました。とりわけ朝鮮半島ではジャポニカ米が取れるので、大阪港にたくさん移入していたのですが、取り立てが厳しく、現地の農民たちが飢えてしまう「飢餓輸出」が引き起こされました。そういうかたちで飢えていい場所、朝鮮の人々が必然的に飢える構造を認めながら、日本の食料自給構想ができてしまうことと、繋がっている考えではないかと見ています。

パレスチナ・ヘブロン郊外のオリーブ農家の方
ナチ時代を想起させる今のドイツ
――パレスチナでは今も人工的な飢餓が作り出されていますが、ドイツ政府は「イスラエルを守るのはドイツの国是」だとして、イスラエルによる加害に対して否定的な姿勢を取ろうとしません。こうしたイスラエル寄りの姿勢にドイツ国民から疑問の声はどの程度あがっているのでしょう?
たとえば首相が現在のショルツではなくメルケルであれば、ヨルダン川西岸地区への入植をもっと強く批判するなど、熱量は多少は違っていたでしょうし、「国是」についても、今のように安全保障的にイスラエルを守るというよりももう一歩手前の、これまでの歴史の反省から同盟をしっかり結ぶことが重要だというような、ニュアンスの少し異なるものだったと思います。しかし、その二人の差異は、パレスチナで繰り返される暴力の規模を前にすれば、ほんのわずかな差異にすぎません。全体としてイスラエルによる構造的な暴力に対する批判はとても弱いと思います。
他方でドイツは政治運動が盛んな国でもありますから、たとえばベルリンでは若い人たちが反対運動を起こしていますが、それに参加している私の知人によると、当局に逮捕されたり、拘留されたりといったことが繰り返されているそうです。もっとも私が去年訪れたボーフムという都市では、至る所にパレスチナを支持する落書きがあるもののデモらしいデモはなく、地域によってもかなり違うと思いますが。
――ヴェストファーレン州では警察から学校に通知が出されて、イスラエルを批判したりハマスを支持するようなことがあれば通報するよう奨励されているとのことですが、こうした公権力の動きはナチ時代を想起させると感じました。
ナチスを研究してきた人たちは、今起こっていることにこそ、もっと敏感に反応すべきだと思います。なぜなら、よく似ているからです。
たとえば、監視です。ナチ時代の監視というのは、常にサーベルを持った人がいて周りを注意するといったことではなく、普通の人が普通に街を歩いていて、誰かと一緒に話をして食事をして帰ったあとに、「あの人がこんなことを言っていた」と電話でナチに通報するというものです。それが意識されているので、日常生活で口の端に上るのを憚られるという、自主的に自分の言葉を抑制する装置を埋め込むような、そういう監視装置をナチズムは作り上げていたわけです。
現在のドイツでは、公権力による通報の奨励だけでなく、記憶文化の保護を掲げる団体が、知識人などの発言について通報するためのホームページをつくっています。そういった通報装置のようなものがあると、必然的に言葉を発さないようになってしまう、そのやり方がやはりすごく似ていると思います。
――イスラエルがパレスチナ人に対して行っていることにも、食と水の統制のような暴力が含まれていますが、特にどんな点に注目されていますか?
3つの点に注目しています。まず1つ目は、水が少ない土地で地下水などの水源を確保するため、パレスチナ人から暴力や様々な方法で奪っていき、あるいはヨルダン川の水を隔離壁を使いながら自分たちに都合のいいように使って、農地を拡大していったこと。これはまさに暴力だと思います。
イスラエルは日本の四国ぐらいの狭い土地で、水も少ないのに食料自給率は90%を超えており、食料自給率が四割を切る日本が参照すべき農業をやっていると言う人もいます。点滴灌漑や衛星の情報を利用して気象条件とマッチさせるなど、デジタルな情報を活用しての農業管理技術として非常に称賛されているのですが、しかしその土地や水はどこからきたのかという議論は一切されないわけです。
2つ目は、ドイツを含め世界各地で拡大した、イスラエルの暴力に反対するボイコット運動の対象の1つとなった「アグレクスコ(Agrexco)」というイスラエルのアグリビジネスの企業があります。イスラエルには元々社会主義的な考えを持った人たちが多く、この企業も協同組合から始まり、イスラエルの果物や特有の食べ物を世界各地で売るグローバル企業に発展していきました。
しかし、アグレクスコはパレスチナの農民に収穫をさせながら、農薬やビニールハウスなどの自社製品を一緒に買わせてもいた。立場が弱いパレスチナの農民たちに対して、自分たちの商品の作り手としてだけではなく、自分たちの消費者としても利用していた。アグレクスコはボイコットにあったことで会社として潰れていきましたが、こうした農業を通じた暴力もありました。
3つ目は、あまり知られていないことですが、イスラエルとパレスチナの緩衝地帯に枯葉剤が撒かれていたことです。ベトナム戦争では米軍が、木を枯らしてゲリラの人々をあぶり出したり、彼らが食べるものを汚染したりする目的で、モンサント社やデュポン社などの企業の農薬を撒き「枯葉剤」と呼ばれました。イスラエルが撒いているものは、グリホサートというモンサント社が作っていたものと同じような農薬です。緩衝地帯に撒いているので問題ないとしていますが、フォレンジック・アーキテクチャ(Forensic Architecture)という研究集団が明らかにしたのは、撒く時には常に風がイスラエルからパレスチナの畑に向かって吹いているということです。そもそもその緩衝地帯を一方的に設定したのはイスラエルであり、サラ・ロイの『なぜガザか』(岡真理、小田切拓、早尾貴紀編訳、青土社、2024年)によると、ガザ地区の耕作可能な土地の48%を占めています。海にも緩衝地帯が設置され、そこに近づくパレスチナ人の漁船を妨害したり、沈没させたりしています。
パレスチナとイスラエルの国境沿いには農地が多くあり、そこで作られている野菜にイスラエルが撒く農薬がかかっている。野菜を食べないとビタミンが切れてそれだけで飢餓になります。こうした農薬を通じた暴力も、農地を緩衝地帯に変えていくことと並んで、食べ物を通じた暴力として見逃してはならないと思います。
――パレスチナの人権状況を改善させるために、私たち一人ひとりが出来る取り組み、行動はどんなものだと思いますか?
今目の前にある食卓からイメージしていくことが大事だと思います。イスラエルの暴力は、空爆のような見えやすい暴力の背後に、長時間かけて相手を追い詰めていく悪質なスローな暴力もある。それは報道されにくい。たとえばパンを食べているとしたら、イスラエルはパレスチナへの空爆でパン屋をわざと狙っているんですね。もし日本を攻撃するとしたら米屋を狙ったり、原発を爆破したり、田んぼに農薬を撒いたりするだろう。そうしたら自分たちは食べられなくなる。封鎖を通じた暴力は、日本でも十分に起こりうるという観点ですね。
それから、実は日本自体も、そういう食料システムの中にあって、多くの人を飢えさせている。たとえば大量に買って穀物価格を上げるなど、もしかしたら自分たちもイスラエルやナチスと同じような形で、飢える人を選んでいるかもしれない。
私たち一人ひとりが持っている体やお金、時間は有限ですが、今起こっていることは私たちの身体的な恐怖をもたらす暴力だと理解することが、批判力を養うと思います。
※本記事は2025年1月29日に配信したRadio Dialogue「ホロコーストとパレスチナ」を元に編集したものです。
(2025.3.10 / 聞き手 安田菜津紀、 編集 伏見和子)
【プロフィール】
藤原 辰史(ふじはら・たつし)1976年生まれ。京都大学人文科学研究所准教授。専門は農業史、食の思想史。生態系の中に組み込まれた人間の在り方から、現代史を再構築する試みを続けている。また、新聞・雑誌のコラムの連載や、「パンデミックを生きる指針」(B面の岩波新書、2020年)や『中学生から知りたいウクライナのこと』(ミシマ社、2021年)、『中学生から知りたいパレスチナのこと』(ミシマ社、2023年)など時事問題にも積極的に発言をしている。『分解の哲学』(青土社、2019年)でサントリー学芸賞、『給食の歴史』(岩波新書、2018年)で辻静雄食文化賞、『ナチスのキッチン』(共和国、2016年)で河合隼雄学芸賞、また、ナチスの食研究全般に対して日本学術振興会賞を受賞。他にも、『カブラの冬』『食べることとはどういうことか』『歴史の屑拾い』『植物考』など多数。
【参考書籍】
『中学生から知りたいパレスチナのこと』岡真理、小山哲、藤原辰史著、ミシマ社、2024年『ホロコーストとジェノサイド』オメル・バルトフ著、橋本伸也訳、岩波書店、2024年
『〈和解〉のリアルポリティクス――ドイツ人とユダヤ人』武井彩佳著、みすず書房、2017年
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