イスラエルによるパレスチナでの民族浄化が続いている。差別を背景とし、存在そのものを抹消する大量殺戮といえば、ナチスドイツによる「ホロコースト」を思い浮かべる人も多いかもしれない。しかし人類史には、世界大戦以降も多くの虐殺が存在し、それらは今なお真相解明や根本問題の解決に至っていない。
2024年末、イラク南部の人里離れた砂漠で、約150人のクルド人女性と子どもの遺体が発見された。中には生後10日未満の乳幼児の遺骨もあったという。「アンファール作戦」による虐殺の被害者だと見られており、周辺には同様に遺体の埋まっている場所が数ヵ所確認されている。クルド人に対する虐殺は、未曾有の民族浄化でありながら、まだまだ世界的に認知されているとは言い難い。

イラク軍に連行されるクルドの子どもたち。(アンファール虐殺博物館の展示物を撮影)
「戦利品」という名の虐殺
「私の家族がどのように殺されたのかはわかりません。どこに遺骨が眠っているかもわからないのですから」
そう語るのは、イラク北部クルド自治区にある「アンファール虐殺博物館」の職員で、虐殺犠牲者の遺族でもあるカルワン・ムハンマドさんだ。

博物館に展示されている遺族の名前の中から父の名前を指差すカルワンさん。(佐藤慧撮影)
1988年、イラン・イラク戦争が長期化し、苦境に立たされた当時のサダム・フセイン政権は、独立を目指し政権と対立するクルド人組織を抑制するため、同年2月から9月にかけて、大規模な掃討作戦「アンファール作戦」を決行した。
1987年以降、イラク政府はクルド人地域のアラブ化政策を進めてきた。これに対するクルド人による抵抗運動が勃発し、88年に政府は、クルド人抵抗勢力およびその支持者を徹底的に排除することを決定した。戦闘員か否かは問われず、政府に協力しないクルド人はすべて「悪質なクルド人」とみなされ、殲滅の対象となった。
「アンファール」とは、イスラム教の聖典『コーラン』の中に出てくる「戦利品」という意味の言葉だが、政権はこの言葉を「クルド人虐殺」へとあてはめ、その行為を正当化した。わずか7ヵ月あまりで5千以上の村々が破壊され、10万人から20万人以上のクルド人が犠牲になったと推定されている。
カルワンさんは、父と3人の叔父を「アンファール作戦」で失っている。ある日突然村に現れたイラク軍は、カルワンさんの父らを含む106人の村人を連行した。
「彼らがどこに連れていかれたかはわかりません。ただ、当時そのようにして連れ去られた人々の多くが、イラク南部の砂漠などで銃殺され、まだ息のある人間も含め、巨大な穴に放り込まれました。おそらく、私の家族もそのようにして殺されたのだと思いますが、どこでどのように殺されたのかは、判明していません」

アンファール虐殺博物館の裏手に広がる犠牲者の墓地。(佐藤慧撮影)
いまだ見つからない犠牲者の遺骨
「アンファール作戦」は、8つのフェイズで遂行された。まるで巨大なワイパーで地図上のほこりを払うように、そこに居住している生身の人間を、短期間で、実に手際よく「抹殺」していった。政権はそれらを「秘密裡」に行うのではなく、むしろ「戦果」として大々的に報道した。
それぞれのフェイズは同じような「手順」を踏んで行われた。
最初に民間人やゲリラを対象とした化学兵器による攻撃を行う。その後クルド勢力の軍事拠点を破壊し、地上部隊が街や村々に侵攻。家屋を破壊し、家財道具や家畜を略奪、そして放火した。捉えられた住民は収容所や移送キャンプに連行された。なんとか逃亡できた者も、秘密警察の追跡から逃れることはできなかった。

「戦果」を伝える当時の新聞報道。赤い枠の中で「アンファール作戦」について述べられており、「裏切り者」を拘束したとされている。(アンファール虐殺博物館の展示物を撮影)
作戦対象地域内の成人男性は、「戦闘可能な年齢」とされ、自動的に処刑対象とされた。女性や子どもはキャンプに移送され、高齢者は刑務所に送られた。そうした先で、数えきれないほどの人々が、放置、飢餓、病気などにより死亡した。「失踪」した人々は、イラク南部の砂漠など、いくつかの場所で「集団処刑」され、巨大な穴に無造作に放り込まれた。
1960年代以降、イラクでは推定100万人が「失踪」しており、殺害または行方不明とされている。
集落がイラク軍に襲われたとき、カルワンさんはまだ妊娠6ヵ月の母の胎内にいたため、父や叔父とは一度も会えていない。
「私の心の中には、“永遠の怒り”があります。ここには犠牲者の墓がありますが、そこに埋められているのは特定の個人の遺骨ではなく、虐殺の犠牲者の遺骨が埋められています。いまだ見つかっていない遺骨も多く、発見された遺骨のDNA鑑定なども、まだ十分にできていないのです」

大量虐殺の現場から見つかった遺骨を再現した展示物。(アンファール虐殺博物館の展示物を撮影)
迫害され続けてきたクルドの人々
イラクやシリア、トルコ、イラン、そしてアルメニアなどに暮らすクルドの人々は、長きにわたり民族としての権利を認められず、各国でマイノリティとして迫害を受けてきた。その背景には、植民地時代の国境画定や、大国間の勢力争いが深く関わっている。
第一次世界大戦中、オスマン帝国の領土分割を画策したイギリスとフランスは、1916年5月、秘密裏にサイクス・ピコ協定を締結した。この協定は、両国の植民地主義的な利益を最優先し、中東地域を民族自決の原則を無視して恣意的に分割するものだった。

現在の国境線と、サイクス・ピコ協定により策定された支配地域。(D4P作成)
サイクス・ピコ協定に始まり、セーヴル条約、ローザンヌ条約と、国際情勢の変遷に翻弄され続けてきたクルドの人々は、その居住地域を複数の国境線で分割され、独自の国家を築くことは叶わなかった。トルコをはじめ、独立して「国」となった地域では、クルド人に対する同化政策や弾圧が強まり、大規模な虐殺事件も発生することになる。
イギリスやアメリカなどの大国は、石油などの資源獲得を目指し各国の政情に介入し、冷戦時代には代理戦争の舞台ともなった。現代の中東地域の戦乱の火種が、こうして大国のエゴも絡まりバラまかれていくことになる。

現在の国境線と、クルドの人々が主に居住しているとされる地域。(D4P作成)
1970年代、イラクのバアス党政権(※)はクルド人との和平合意により自治を約束したが、実際には十分な自治は実現せず、クルド人居住地域の境界線を恣意的に定めるなど、約束は反故にされた。
特にキルクークなど、石油資源が豊富な地域では、アラブ人を大量に移住させ、クルド人を排斥する「アラブ化政策」が推し進められた。こうした強制移住はその後も続き、イラン・トルコ国境沿いでは25万人が軍の管理下にある居住地に移住させられ、虐殺へと続いていく。
(※)バアス党政権 バアス党は1940年代にシリアでミシェル・アフラクらによって創設された政党。「バアス」とは、アラビア語で「復興」を意味する。アラブ民族主義と社会主義、世俗主義を掲げ、20世紀後半に中東で大きな影響力を持っていた。イラクのサダム・フセイン、シリアのハーフィズ・アル=アサドおよびバッシャール・アル=アサドらが長期にわたりバアス党政権を担った。
ハラブジャの悲劇――終わらない苦しみ
風に揺れる緑の先には、雪で白く染まった壮大な山脈がそびえている。イラク北東部の街ハラブジャは豊かな土壌を持ち、果実や野菜の質の高さでも有名だ。しかしそこはかつて、イラン・イラク戦争の最前線の街のひとつだった。

壮大な自然の広がるハラブジャの光景。(安田菜津紀撮影)
「ハラブジャの悲劇」は、「アンファール作戦」の渦中で起きた、化学兵器による大量虐殺だ。
「ハラブジャの悲劇」は、「アンファール作戦」の過程で起こった出来事であることは間違いないが、作戦の一環として計画されたものなのか、あるいはイラン・イラク戦争の戦況の中で、上記作戦とは無関係に起こったものなのかについては、見解が分かれている。
1988年3月16日、砲弾が飛び交う中、人々は自宅の地下や防空壕に身を潜めていた。
「爆弾が自宅を直撃しました」
そう語るのは、当時26歳だったハディザ・アミンさんだ。激しい爆撃に晒され、近隣住人とともに地下室に避難していたという。
「通常の爆弾とは違い大量の煙が出ていたので、私たちは地下室のドアを閉めてそこに留まりました。しかしそれは毒ガスだったのです」
空気よりも重いサリン系のガスが、人々の逃げ込んでいた地下室に充満した。ガスを吸った住人たちは激しく咳き込み、痙攣し、泡を吹いて倒れ、街のいたるところで人間から動物まで、あらゆる遺体が散乱した。街の人口の1割を超える、約5千人が犠牲になったといわれる。
ハディザさんが地下室から脱出したとき、すでに6歳と、生後3ヵ月の息子ふたりの息はなかった。目が見えず呼吸も絶え絶えの中、なんとか近郊の村まで避難したが、地元の人々を助けに戻った父親は数日後に亡くなった。
ハディザさんはその後両目の手術を受けたが、視力はほぼ戻っていない。肺にも重い後遺症が残り、インタビューに応じながらも、常に鼻から酸素吸入を続けなければいけなかった。

酸素吸入を続けながらインタビューに応じるハディザ・アミンさん。(佐藤慧撮影)
当時10歳だったチマン・アリさんは、毒ガスによる後遺症のほかに、当時の爆弾の破片で右足を失っている。叔母の家族は、14人全員が亡くなったという。チマンさんは、根深い差別についても語る。
「毒が感染すると言われ、人々は私に近寄ることすら怖がりました」
ハラブジャにはいまだ後遺症に苦しむ人々もいれば、「ハラブジャ出身」というだけで結婚差別に遭う女性たちもいるという。

薬代や診療費が重くのしかかると語るチマン・アリさん。(佐藤慧撮影)
1955年生まれのルナク・ウスマンさんは、その日たまたまハラブジャを離れ隣町にいた。何か重大なことが起きたとは伝わってきたが、街に戻ることはできなかった。その後、ヨーロッパにいた兄から知らせがあり、かろうじて生き延びた一人を除き、ハラブジャにいた家族22名全員が、化学兵器により殺されたと知った。
同様の証言は現地で幾度も耳にした。地下室に逃げ込んだ家族がみな殺された。私ひとりだけが生き残ってしまった。赤ん坊のときに被害に遭い救助され、家族がどこにいるのか、生きているのかさえわからない――。
「この地の悲しみや痛みは、まだ少しも癒えていません。私たちは助けを必要としているのだと、世界に伝えてほしいです」

当時から35年を迎えた追悼式典でお話を聞かせてくれたルナクさん。(佐藤慧撮影)
自身も重い後遺症を抱えながら、「Harabja Victims Society」という被害者支援NGOの代表を務めるロクマン・ムハンマドさんは、当時20歳だった。毒ガス攻撃により重症を負い、イラン、そしてドイツへと搬送された。集中治療の後、意識が戻り、妻や母の死を伝えられた。
ロクマンさんは、当時のフセイン政権に武器や毒ガスを販売した、欧州の企業や個人の責任を追及する裁判も行っている。
「あまりにも多くの悲劇が次々と世界で起こるため、ハラブジャの悲劇のような、過去の虐殺が置き去りにされてしまっていると感じます」

定期的にハディザさんの元を訪れるロクマンさん(右)。(佐藤慧撮影)
ハラブジャからヒロシマ・ナガサキへ
アンファール虐殺博物館職員のカルワンさんは、「ジェノサイドは人類に対する犯罪」だと、語気を強める。
「こうした悲劇を乗り越え、二度と起こさないために必要な唯一の解決策は、“兵器をなくすこと”だと思います。特に大量虐殺を引き起こす兵器を手放さなければなりません。世界中の国、政府が、こうした目的のために団結するべきです」
理不尽に多くの市民の命が奪われ、その後も苦しみが続いているという意味では、広島・長崎の原爆被害にも重なるところがある。
「同じ悲劇を抱えていることで、ハラブジャはヒロシマやナガサキと、姉妹のように強くつながっているのです」と、カルワンさんは語る。
実はハラブジャ市内には「ヒロシマ・ストリート」と呼ばれる通りがあり、「同じ痛みを抱えるヒロシマ・ナガサキへ、ハラブジャから連帯の祈りを伝えよう」と、8月には市民の集いも開催されている。

ハラブジャのヒロシマ・ストリートの標識。(安田菜津紀撮影)
今も戦乱の続く中東地域の取材に行くと、原爆被害への哀悼の言葉を頂くことがある。そして多くの人はこう続ける。
「日本は戦争を放棄した国なんですよね。なんて素晴らしいことでしょう」
しかし実態はどうだろうか。
大国の戦争に追随し、「防衛」と称する軍事費予算は右肩上がりだ。過去の加害を軽視する政治家の発言や、排他的な差別も横行している。
二度とこうした過ちを繰り返さないために、そして現在進行形の虐殺や差別を食い止めるために、社会は痛みを伴う証言を忘却せず、学び、行動していかなければならない。

ハラブジャ平和博物館に展示されている戦車。(佐藤慧撮影)
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フォトジャーナリスト / ライター佐藤慧Kei Sato
1982年岩手県生まれ。認定NPO法人Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル/D4P)フォトジャーナリスト。同団体の代表。世界を変えるのはシステムではなく人間の精神的な成長であると信じ、紛争、貧困の問題、人間の思想とその可能性を追う。言葉と写真を駆使し、国籍−人種−宗教を超えて、人と人との心の繋がりを探求する。アフリカや中東、東ティモールなどを取材。東日本大震災以降、継続的に被災地の取材も行っている。著書に『しあわせの牛乳』(ポプラ社)、同書で第2回児童文芸ノンフィクション文学賞、『10分後に自分の世界が広がる手紙』〔全3巻〕(東洋館出版社)で第8回児童ペン賞ノンフィクション賞など受賞。
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