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ナクバとパレスチナ―「ナクバ」とは何か(鈴木啓之さんインタビュー・前編)

数世代に渡り放牧を営んできたオディ・アブシャルクさんの作業小屋は、何度建て直しても入植者に破壊される。(佐藤慧撮影:ダハリーヤ/2024)

5月15日は「ナクバの日」――パレスチナの人々にとって、歴史的な悲劇を振り返り、現在の状況を考える重要な日です。

1948年のイスラエル建国以前から、パレスチナの地にユダヤ人国家を建国しようとするシオニズムによって、推定70万人以上のパレスチナ人が故郷を追われ、難民となりました。また、多くのパレスチナ人の村や都市が破壊され、現在の占領や封鎖、軍事攻撃へと繋がっています。

ジェノサイドが放置され、国際社会が根底から揺さぶられる今、東京大学中東地域研究センター特任准教授の鈴木啓之さんと一緒に考えていきます。

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鈴木啓之さん(本人提供)

ナクバとは?—イスラエル建国前から続く暴力

――5月15日は「ナクバの日」、パレスチナの方たちにとって歴史的な悲劇を振り返る重要な日です。この「ナクバ」という言葉の意味について、あらためて教えていただけますか。

「ナクバ」はアラビア語で「悲劇」を意味します。たとえば日本では、「原爆」や「大震災」という言葉特定の出来事を連想しますが、それと同様に、ナクバもある事件を指す言葉として使われています。1948年のイスラエル建国と前後して、パレスチナに暮らしていたアラブ系の人々、のちにパレスチナ人と呼ばれるようになる人々の生活が破壊されたことです。

この時、140万人いたとされるパレスチナのアラブ人のうち、約半数の70万人が家を追われ、難民となったと言われています。そのまま生まれた家に住み続けた方もいましたが、それは本当に少数派です。

 

――イスラエル建国やその後の戦争だけでなく、それ以前からもパレスチナの人々が土地を追われることはあったのでしょうか?

パレスチナのアラブ人の流出は、1920年代頃から始まっていたと言われています。当初は南米に移民として出て行くという形でしたが、1920年そして1929年に大きな衝突があり、その後1936年から39年にかけて「アラブ大反乱」という非常に大きな衝突がありました。

この「アラブ大反乱」では、2万人のパレスチナ人が亡くなったと言われています。イスラエル建国後の第一次中東戦争の犠牲者よりも、1930年代のほうが多かったと言えます。

イスラエル建国以前から、パレスチナの人々は暴力や脅迫によって、継続的に追い出され続け、故郷を離れざるを得なかったということです。

 

――パレスチナの人々が土地を追われた背景には、1920年代頃から始まった入植活動があったと思います。ユダヤ系の人々が入植してきた背景についてはいかがでしょうか。

19世紀末頃から、「シオニズム」というユダヤ人の国を作ろうという政治思想に共鳴するユダヤ人たちがパレスチナに移住するようになりました。イギリスがパレスチナを植民地支配する前の、オスマン帝国がまだ健在であった頃です。

第1波アリヤーと呼ばれる最初の移民の波で、主にロシアや東欧から約4万人のユダヤ人がパレスチナにたどり着きました。これが最初に自分たちだけの国を作ろうと決意してやってきたユダヤの人たちでした。最初は4万人ですからそんなに人数はいなかったのですが、この移民の波というのが繰り返されていきます。

第2波・第3波でやはり4万人。第4波で8万人ほど来て、ヨーロッパでナチスドイツによる迫害が始まった1930年代には、約30万人のユダヤ人がパレスチナに移住しました。

これらの人々が、自分たちユダヤ人だけの国を作ろうとし、現地に暮らしていたパレスチナ人を追い立て、産業から追い出すようになっていきました。

 

難民となったパレスチナの人々

――こうして故郷を離れざるを得なかったパレスチナの人々は、その後どのような生活を送ることになったのでしょうか?

一番わかりやすいのは、無国籍の難民という非常に悲惨な状態に置かれた人々です。レバノンに逃れた10万人、シリアに逃れた7万5000人の人々。その子孫の一部はその後他国に移住しましたが、今もレバノンには登録人数で50万人、シリアには60万人近くの人々が無国籍のまま暮らしています。国籍がないため、移動の自由もままならず、国家の保護も十分に受けられない状況です。

ヨルダンに逃れた約28万人は、ヨルダンがパレスチナの一部を併合していた時代、一時的にヨルダン国籍を与えられましたが、併合していたヨルダン川西岸地区がイスラエルに占領された後、国籍は不安定な状態に置かれました。パレスチナ自治政府のパスポートを持っていても、それで渡航できる国は限られています。

イスラエルが建国された場所に残った人々もいました。1948年当時で約15万人と言われ、現在では約200万人に増えています。この人々はイスラエル国籍を持っていますが、1966年まで軍の監視下に置かれ、「敵性市民」として扱われました。差別も厳しく、経済的に自立してきた層もいますが、依然として貧困層の中心を形成しています。

かつて同じ場所に暮らしていた人々が、これほどまでに分散し、日本では当たり前に享受されているような「権利」のない状態で暮らしているのです。

 

――ガザ地区には、ナクバの時多くの難民が逃げ込み、現在でも人口の多くがその子孫だと言われています。現在のガザの状況をどうご覧になりますか?

ナクバの時、ガザには約14万人のパレスチナ人が暮らしていましたが、約6万人が国外、おもにエジプトへ逃れました。

一方で、周辺地域から約20万人が難民としてガザに逃げ込みました。現在では、ガザ地区の人口の7割から8割がその難民の子孫と言われています。他の地域に比べても、難民の割合が多いのがガザ地区の特徴です。

パレスチナの南部地域、現在イスラエルの都市となっているアシュケロンやアシュドッド周辺の村々から多くの人々がガザに流入しました。なぜかと言うと、ガザ地区にはエジプト軍が展開しており、エジプトが守ってくれるだろうという期待があったからです。そこに一時避難した人々の多くが、その後70年以上も移動できない状態で暮らしています。

 

――いまだに占領が続き、難民の帰還の権利が棚上げにされている現状から考えて、ナクバがこの不安定な状態と不条理を生み出した大きな要因と言えるのでしょうか?

ナクバが、パレスチナの人々が置かれた苦境を象徴する言葉であることは間違いありません。5月15日は便宜的に定められた日ですが、ナクバは特定の日に特定の場所で起きた出来事ではなく、パレスチナという地域全体で続いてきた悲劇です。「日々続くナクバ」という言い方がパレスチナではされています。

そう考えると、1948年以前の苦境もナクバの文脈で理解されるべきですし、それ以降にパレスチナ人が直面した様々な不条理も、ナクバの継続、「続いているナクバ」として捉える視座がパレスチナの人々には共有されている。このことを私たちは理解する必要があると思います。

 

受け継がれるナクバの記憶

ガザ地区の境界となっているフェンスの前に掲げられていた「鍵」のモニュメント。23年10月以前、ここでは多くの若者がデモを行い、イスラエル兵の銃撃にさらされた。(2019/ガザ/佐藤慧撮影)

――パレスチナで出会う人々と話していると、数十年前に故郷を追われた記憶が家族の中で様々な形で受け継がれていると感じます。かつて家族が暮らしていた村や故郷の記憶は、どのように受け継がれてきたのでしょうか?

私が普段触れているのは、ナクバを経験した最後の世代が人生の最後に書き残した回顧録や自伝です。1948年当時10代だった世代は、今80代後半です。

彼らは、当時何があったのかを子どもたちやパレスチナ社会に伝えようと、詳細な記憶を書き残しています。学術的な立証は難しいかもしれませんが、生々しい記憶す。

お墓の横を通った時に、騒がしい音が聞こえてきて覗いたら、何か得体の知れないものがいて、とても怖かったけれども、お母さんがコーランを読んでくれて、自分のことを守ってくれたという怪談話のようなもの。ユダヤ人の実業家に土地を売ってくれと言われたけれど、お父さんが大激怒してそのユダヤ人を追い返したといった話など、非常に細かいディテールを書き残しています。

難民になった時に既に大人だった人々にとっては、子どもに話したり、象徴するような物を引き継いだりする形で伝えられてきました。各家庭にある古い鍵については、よく知られています。パレスチナの人々は、一時避難のつもりで家に鍵をかけ、逃げました。しかし、その後帰ることができず、家はきっとなくなってしまっている。70年前の古い鍵は、かつてそこに家があり、財産があり、故郷に帰る権利があるということを示す象徴として受け継がれています。

アラビア語で鍵を意味する「フターフ」という言葉があります。パレスチナのフターフ、「パレスチナの鍵」と言うと意味するものは一つです。パレスチナ難民が語り継いできた記憶、求め続けている公正な形で、あの時家から追い出されたことを補償してほしい。それは帰還をするということかもしれないし、財産に関して公正な形で賠償してほしいということかもしれないいずれにしても、公正な解決を求めるという意味で、鍵を引き継いでいます。

 

――土地の記憶と強く結びついているものに、土地の名前があると思います。東京にあるパレスチナ料理店「ビサン」は、かつて破壊された街の名前を使っています。このように、故郷の名前を引き継ぐ様子も目にすることがありますか?

もちろんです。難民キャンプの中のセンターに、かつて住民が住んでいた町の名前が付けられたり、かつての村民同士が集まって村民協会のような組織を作ったりしています。コミュニティの記憶を継承しようとする動きは、名づけ、組織活動、そして何よりも語り継ぐことから生まれます。

親から子へ、母から娘へ受け継がれるドレスや、父から子どもたちへ引き継がれるかつての家の思い出、地図、オスマン帝国の末期に書かれたような古い土地の権利書なども、故郷の記憶を語り継ぐための大切な手段となっています。

私たちはあそこに暮らしていたんだということを、色々な手段を使って語り継ごうとしていく。記憶が薄れることへの強烈な拒否感がうかがわれます。

続く【後編】では、イスラエルにおけるナクバの記憶、そして「第二のナクバ」とされるガザ地区の現状について考えます。(→後編を読む

※本記事は2025年5月14日に配信したRadio Dialogue「ナクバとパレスチナ」を元に編集したものです。

(2025.6.9 / 聞き手 安田菜津紀、 編集 伏見和子)

【プロフィール】
鈴木啓之(すずき ひろゆき)

博士(学術)。日本学術振興会特別研究員PD(日本女子大学)、同海外特別研究員(ヘブライ大学ハリー・S・トルーマン平和研究所)を経て、2019年9月より東京大学中東地域研究センター特任准教授。著書に『蜂起〈インティファーダ〉:占領下のパレスチナ1967–1993』(東京大学出版会、2020年)、共編・編著に『パレスチナを知るための60章』(明石書店、2016年)、『パレスチナ/イスラエルの〈いま〉を知るための24章(明石書店、2024年)、『ガザ紛争』(東京大学出版会、2024年)、共訳書にラシード・ハーリディー著『パレスチナ戦争』(法政大学出版会、2023年)。主に中東の地域研究に従事し、パレスチナ問題を軸に中東の近現代史を研究している。

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