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写真で伝える封鎖下のガザ―虐殺前の「日常」

「あなたたちが写真に撮った場所はもうないから。だから、こんな場所があったっていうことを、世界に伝えて」

虐殺が続くガザ地区から、友人がそんなメッセージを送ってきた。彼女が案内してくれた市場、港、学校――。降り注ぐイスラエル軍の爆弾と砲撃は、こうした暮らしの場を粉々にしていった。

イスラエルは今回の侵攻前から、ガザの周囲を壁やフェンスにより完全封鎖し、ただでさえ厳しかった人と物の出入りを制限してきた。事実上の「占領」は綿々と続いてきたのだ。

外界から切り離されれば、無論、自力での生活は困難となる。ガザでは人口の半数が、国連からの食糧支援を命綱としていた。電気も通信環境も十分ではなかった。

こうした隔絶状態が「天井のない監獄」とも形容されてきたが、「監獄」とは罪を犯した人間が収容される場所だ。この不条理を生きる人たちが、なんの「罪」を償わされているというのか。

ジェノサイドが始まる前から「異常」な状況下にあった「日常」は、人々が辛うじて保とうとしてきた営みだった。それさえも今、跡形もなく消し去られようとしている。

友人の呼びかけに応じ、この民族浄化としかいいようがない攻撃に抗う意思を込め、虐殺前の生活の痕跡を、ここに残しておく。


エレツ検問所からガザ地区内に続く通路。(安田菜津紀撮影/2018年)
ガザ北部の港。封鎖により、漁師たちが船を出せる海域は限られていた。(安田菜津紀撮影/2018年)
ガザ市内の市場で。(安田菜津紀撮影/2018年)
東日本大震災の復興を願う凧揚げの準備が校内で進められていた。(安田菜津紀撮影/2018年)
UNRWAの学校で、日本への手紙を綴っていた少女たち。(安田菜津紀撮影/2018年)
復興を願う凧あげへの思いを語ってくれたシャヘドさん(左)たち。(安田菜津紀撮影/2018年)
「日本ってどんなところなの?」と、質問の止まらない生徒たち。(佐藤慧撮影/2018年)
早朝の漁から帰った船の網をつくろう少年。(佐藤慧撮影/2019年)
人々の営みがガザにもあった。(佐藤慧撮影/2019年)
ガソリンが不足する中、ロバによる運搬は日常風景。(佐藤慧撮影/2019年)
エネルギー不足の深刻なガザでは足踏みミシンが大活躍。(佐藤慧撮影/2019年)
UNRWAの支援を受け続けられてきた女性たちの刺繍事業。(安田菜津紀撮影/2018年)
刺繍は女性たちの収入を支えるだけではなく、次の世代に受け継ぎたい伝統や文化そのものだった。(安田菜津紀撮影/2018年)
ドミノに興じる人々。(佐藤慧撮影/2019年)
イスラエルとの「境界」近くで、2014年に受けた攻撃について語るサディアさん。(安田菜津紀撮影/2018年)
2014年のイスラエル軍による侵攻で破壊された市場跡地。(安田菜津紀撮影/2018年)
銃弾の跡が残るガザ市内の住居の壁。(安田菜津紀撮影/2018年)
1998年に開港した「ヤーセル・アラファト国際空港(ガザ国際空港)」は2001-02年にかけてイスラエル軍に破壊された。(佐藤慧撮影/2019年)
築1600年ともいわれる聖ポルフィリオス・ギリシャ正教会も、人々が避難する中爆撃で破壊された。(佐藤慧撮影/2019年)
ガザの港を歩いていると「写真を撮って」と声をかけられた。(佐藤慧撮影/2019年)
夜の浜辺に集う若者たち。苦笑しながら「ここでの生活に未来はない」と語る。(佐藤慧撮影/2019年)
植木鉢を落っことして寝転ぶ猫。(佐藤慧撮影/2019年)





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