
カイロ中心地に位置するタハリール広場は、フランスのエトワール広場(シャルル・ド・ゴール広場)を模して造られたという。「解放」を意味するその名の通り、権力に抵抗する市民の広場として、これまでにも何度も革命の舞台となってきた。2011年、「アラブの春」の潮流がエジプトに及び、約30年にわたり独裁を維持したムバラク大統領が辞任に追い込まれた。その後発足したムルシー政権は2013年7月、軍事クーデターにより失墜することになる。その後アブドルファッターフ・アッ=シーシー氏が大統領に就任し、現在は3期目を迎える。
2023年10月以降、イスラエルによる軍事侵攻で数えきれないほどの人命が奪われてきたパレスチナ・ガザ地区から、国境を接するこのエジプトへと身を寄せる人々がいる。その数は少なくとも10万人以上とみられており、23年の侵攻前からの避難者を含めるとその倍以上のパレスチナ人が暮らしているとされる。しかし、多くの避難民は「難民登録」ができない法的空白の状態にあり、就労や教育、医療へのアクセスが制限されているという厳しい現実がある。
カイロ中心地から車で1時間ほど離れた郊外のとある街は、都市部の人口増加に対応するために開発されたニュータウンだ。道路網やメトロも整備されつつあり、産業・教育の中心地としても開発が進んでいるという。中心部と比べると家賃も比較的安く、ガザから逃れてきた人々が多く身を寄せている街のひとつでもある。
この街の集合住宅で、母と暮らすアフマドさんは、ガザ地区南部のラファ出身だ。23年の軍事侵攻時、高校最終学年だった。10月7日は化学やIT技術の試験の日だったという。学校に行く準備をしていた朝、爆音が轟いた。慌てて屋上から状況を確認したところ、無数のロケット弾が周囲に降り注いでいた。アフマドさんは当時の衝撃を「第三次世界大戦が起きたのかと思った」と語る。

流暢な英語を話すアフマドさん。(佐藤慧撮影)
学校は閉校となり、物価は3倍近くまで跳ね上がった。アフマドさんは6人兄弟の末っ子だったが、ひとりの兄を除いて、他の兄は周辺国へ出稼ぎや留学に出ており、母はその兄弟のひとりを訪ねて、ガザを離れていた。ガザに残っている父と兄、そしてアフマドさんらは、いつ、誰が殺されてもおかしくない状況だった。
「この中で自分ひとりが生き残ってしまうより、みな一緒に死んだほうがいいのではないか、と話したこともありました」
苛烈さを増す爆撃に、アフマドさんはガザを離れエジプトへと避難し、母と合流することを決意する。しかし父の越境許可は出なかった。アフマドさんは元々心臓に持病を抱えており、定期検査を必要としている時期で、猶予はなかった。兄とふたり、ガザ南部の検問を通り国境を越えた。そしてその1週間後、自宅は爆撃により粉々に破壊されたという連絡が入る。自宅周辺にはもう、街と呼べる場所は残されておらず、荒野となっていた。
「ガザを離れるとき、長くても3~4ヶ月で戻ってこられるだろうと思っていました。また元通りの生活に戻り、友人たちとも再会できると思っていたのです」
自宅からは何も持ち出せず、着の身着のままでエジプトへと逃れた。高校の残りの学期は、周囲に友人もいないまま、独学で学び続けた。現在は「留学生」としてエジプトの大学でコンピューター工学を学んでいるが、生活は不安定だ。一緒に逃れてきた兄は、職を求めて他の国へと渡航した。母のイマンさんは語る。
「賃料の安い郊外に暮らしていますが、公的な支援もなく厳しい状況です。やっと先月、冷蔵庫を購入することができました」
彼女らはイスラエル軍のドローン攻撃により、17人の親族を失っている。イマンさんの母も、戦禍による医療崩壊で、糖尿病の薬を入手できずに亡くなった。63歳になる夫(アフマドさんの父)は、今もガザでテント暮らしをしている。日々、絶望による鬱状態だという夫の現状に、イマンさん自身も「自分はこうして安全な場所にいる」という罪悪感のようなものを常に感じているという。こうしたサバイバーズ・ギルトとも呼ばれる感情は、多くの避難民が共通して語るものだ。
「ガザに戻れば夫に会えるかもしれません。けれどなんとかしてガザに戻っても、今度はまた出られなくなってしまうかもしれない。そうすると息子たちには会えなくなってしまいます。どちらかとしか一緒にいることができないという現状に、胸が張り裂けそうです。自分の家族に会ったり、家に戻ったりというあたりまえの権利が、なぜ奪われてしまうのでしょうか」
イマンさんは、アフマドさんが学業に集中し、未来を切り開いてくれることを願っている。
「難民として苦しむことがない未来を、彼自身の手で切り開いてほしいのです」
アフマドさんも自身の将来についてこう語る。
「将来、僕にも家族ができるかもしれません。そんなときに、家族が僕と同じような経験をしなくて済むように願っています」
言葉だけの「停戦」が取り繕われる中、ガザ地区ではインフラの破壊された街で、多くの人々が困難に直面している。ヨルダン川西岸地区では、これまで以上に軍や入植者による暴力が加速している。国境を越え引き裂かれた家族は、再会の目途も立っていない。イスラエルによる占領や暴力、不条理は、今も世界の衆目のなか続いている。

夜遅くまで人々の行き交うカイロ中心地。(佐藤慧撮影)
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フォトジャーナリスト / ライター佐藤慧Kei Sato
1982年岩手県生まれ。認定NPO法人Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル/D4P)フォトジャーナリスト。同団体の代表。世界を変えるのはシステムではなく人間の精神的な成長であると信じ、紛争、貧困の問題、人間の思想とその可能性を追う。言葉と写真を駆使し、国籍−人種−宗教を超えて、人と人との心の繋がりを探求する。アフリカや中東、東ティモールなどを取材。東日本大震災以降、継続的に被災地の取材も行っている。著書に『しあわせの牛乳』(ポプラ社)、同書で第2回児童文芸ノンフィクション文学賞、『10分後に自分の世界が広がる手紙』〔全3巻〕(東洋館出版社)で第8回児童ペン賞ノンフィクション賞など受賞。
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