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ガザの写真家は「記憶の番人」―友人の血から始まった写真家の道

「停戦」後もガザ地区では殺戮が続いています。ガザ地区出身のD4P現地取材パートナー、モハンメド・H・サレムさんによる寄稿記事です。
モハンメド・H・サレム(Mohammed H Salem)
パレスチナ・ガザ地区出身の写真家。様々な写真エージェンシーと協働するほか、プラットフォーム「Untold Palestine」の共同創設者の一人でもある。その作品は、国内外の多くの雑誌やメディアで発表されている。また、フリーランスとして「アルジャジーラ・イングリッシュ」とも提携している。
私が写真の道へ進む過程は、歓迎のレッドカーペットや学術的な栄誉で敷き詰められていたわけではありません。むしろそれは、まだ冷めやらぬ血の痕跡と、その血への献身によるものでした。
ガザにおいて、私たちが職業を選ぶことは多くありません。多くの人が隠蔽しようとする真実を記録するという責任に直面したとき、「職業のほうが私たちを選ぶ」のです。
友人の血から始まった写真家の道
写真家としての私の物語は、2018年、具体的にはガザ地区の境界付近で始まった「帰還の大行進」(※)とともに幕を開けました。
(※)帰還の大行進:2018年3月30日(パレスチナの「土地の日」)から2019年末にかけて、ガザ地区の境界付近で行われた大規模な抗議活動。難民の「帰還の権利」実現やガザ封鎖の解除に加え、当時のトランプ米政権による在イスラエル大使館のエルサレム移転への強い抗議もあった。特に大使館が開設された5月14日には抗議が激化し、イスラエル軍の銃撃等により1日で60人以上が殺害された。ジャーナリストや医療従事者、子どもを含む200人以上のパレスチナ人が殺害され、数万人が負傷する凄惨な事態となった。
当時、私はプロ用の機材を一切持っておらず、控えめな18-55mmのレンズを装着したCanon 600Dのカメラを持ち歩いていました。紛争地帯や攻撃を受けている地域において、どんな写真家であってもこのような機材は無に等しいと考えるでしょう。しかし、その小さなレンズの後ろには、写真の質以上に私を突き動かすものがありました。
それは友人の血です。
友人のアフマド・アブ・フセインは、現場で起きていることを記録しようとカメラを構えている最中に殉教しました。その瞬間から、私は写真が単なる「趣味」ではないと感じるようになりました。
写真は、より崇高な目的であり責任なのです。
私は自分に言い聞かせました。「彼がこの写真を届けるために命を落としたのなら、私たちはこの使命を軽んじることなどできない」と。
取材の初日、私は境界へと向かいました。周囲で銃弾が飛び交う中、私の写真を見て応援してくれる仲間たちの存在こそが、私に活動を続ける動機を与えてくれました。

パレスチナ自治区ガザ北部、ジャバリア難民キャンプの東部境界付近で、パレスチナ人の青年がイスラエル占領軍の発射した催涙ガス弾から逃れようとしている様子。「帰還の大行進」抗議活動の一場面。(モハンメドさん撮影/2018年)
単なる数字ではない人々の日常
当初、私は情熱と信念に支えられ写真を撮っていました。しかし間もなく、世界が目にするガザの映像は、「ニュース速報」の中だけであることに気づきました。その瞬間から、「ガザの日常」が私の仕事の羅針盤となりました。ニュース番組の単なる数字ではなく、私たちも日々を愛し、畑を耕し、遊び、そして夢を見る人間なのだと、世界に証明したかったのです。
この時、私は自分の感情との間に矛盾を感じました。多くの人から「ガザ市民としてこの街へ抱く思いと、写真家としての仕事を、どうやって切り離しているのですか?」と尋ねられます。
実のところ、このふたつは切り離すことができません。
取材のために初めて訪れた葬儀のことを覚えています。私は1枚も写真を撮ることができませんでした。ただ号泣して、家へ帰りました。しかし時間が経つにつれ、私の涙は、私の写真がもたらすほどには人々の助けにならないことを学んだのです。
ガザで写真を撮ることは、幾度も襲い掛かってくる戦争が私たちに強いてきた残酷さの中に、美しさを見出そうとする絶え間ない試みです。瓦礫の上でパルクールをする若者や、廃プラスチックで飛行機を作る子どもの写真を撮るとき、私は単に貧困を記録しているわけではありません。人類がいかにして痛みを乗り越えられるかを記録しているのです。
2019年、私は様々なメディアや組織で働き始め、趣味で写真を撮ることからプロフェッショナルへと転向しました。私が初めて働いた国際的な報道機関は「Middle East Eye」でした。
その後、私は「Untold Palestine」で働きました。この組織は、殉教した人々、あるいは終わりの見えない戦争の背後で誇り高く生きる人々の物語や記憶を伝えるために、私が共同設立したプラットフォームです。その後2021年の半ばには、フリーランスとして「Al Jazeera English」とも協働を始めました。

ガザ市西部のアル・シャティ難民キャンプの路地で、パルクールの練習に励むパレスチナの若者たち。(モハンメドさん撮影/2021年)
300人以上の親族や友人たちの死
私は、2023年10月7日以降の大量虐殺が始まる、わずか3日前の10月4日の水曜日、ガザを離れました。3週間かけてエジプト、そしてサウジアラビアを巡る観光旅行を計画しており、11月までにそこで仕事の機会を見つけたいと考えていました。
ガザからカイロに到着するまでは、車で移動しなければならないため、決して快適とは言えない旅でした。そして土曜日、私は戦争が勃発したというニュースで目を覚ましたのです。
これは私の人生において、極めて重要な瞬間でした。私は戦争がすぐに終わり、帰郷できることを願いながら、サウジアラビアへの旅行をキャンセルしました。
私の家族の家は、境界に近いアル・スダニヤ地区(ガザ地区北部ベイト・ラヒア市の西)にあったため、軍事侵攻直後の10月8日に爆撃を受けました。
私は滞在していたエジプトの家から一歩も出なくなりました。あらゆる方面からの最新情報から目を離さないよう、テレビ画面に釘付けになり、手には携帯電話を握りしめていました。
私たち家族にとって最初の衝撃的な喪失は、2023年10月10日に、従兄弟のウィサムを亡くしたことでした。それ以来、さらに多くの喪失が私たちに降りかかりました。
イスラエル軍は、私の家族に対してふたつの虐殺を行いました。 最初の虐殺は2023年12月12日、シェイク・ラドワン地区が爆撃された時のことです。私たちはその日、約100人の家族や親族を失いました。
2度目の虐殺は2023年12月19日に起き、約160人が殺されました。2025年1月の停戦までに、私の親族の犠牲者数は300人近くに上りました。従兄弟、叔母、叔父、その子どもや孫たち、そして多くの親戚を失ったのです。
これまでの人生を支え合ってきた友人や知人も、命を奪われました。

カイロにてモハンメドさんが見せてくれた、完全に瓦礫と化した故郷の写真。避難民の多くが衝撃的な死別を経験している。(佐藤慧撮影/2025年)
今を生きる人々の物語を記録する
こうした現実に直面し、私は海外で仕事を探すどころではありませんでした。
私はエジプトに滞在しながら、写真展を2度開催しました。ひとつ目は『ガザのために(For Gaza)』というタイトルで、2023年12月8日に開催されました。この展示会の後、私はひどく落ち込み、家から出られなくなりました。約5ヵ月間、私はそこで何もできずに、ただ座り続けていました。
その後、2024年5月9日には、アレクサンドリアのフランス学院との共同で、ふたつ目の写真展『ガザ、私の愛しい人(Gaza, My Darling)』を開催しました。その展示会の後、私はこれ以上人々と関わることができないと感じ、働くことが非常に困難な状態に陥りました。
2025年1月19日に最初の「停戦」が始まったとき、家族は真っ先に私に対し、海外に留まり自身の人生について考えるよう励ましてくれました。彼らは戦争が終わったと考え、私が自分の人生で何かを成さなければならないと思ったからです。
私は、カイロにいるガザ出身のパレスチナ人を支援する、多くの国際機関と共に働きました。これが『ガザ、カイロ、そして希望(Gaza, Cairo, and Hope)』と名付けた新たな展示会のアイデアのきっかけとなりました。
これはドキュメンタリー写真のプロジェクトで、私はレンズを「視覚的な語り手」として用い、戦争中にガザからカイロに避難せざるをえなかった個人や家族の、深い人間模様を伝えました。
愛する人を失い、無慈悲な現実の中にあっても記憶を繋ぎ止めようと、静かな痛みを抱えて今を生きる人々の物語を記録しました。私は彼らの顔に、生きることに力を振りしぼる、レジリエンス(回復力)の兆しを見ました。
その後も国際機関での仕事を続ける傍ら、ガザの若者たちに写真のトレーニングを行うワークショップを企画・運営したり、講演などの発信活動を続けてきました。
占領軍によるラファ検問所に関する度重なるニュースの後、私は心身ともに消耗し、フラストレーションを感じました。私は、トルコへ向かうべきではないかと考え始めました。しかし、トルコへ行くためのビザを取得するには、どこかで居住権を持っている必要があります。
2026年1月、私はマレーシアへ渡りました。しかし、1ヵ月のビザしか取得できなかったため、そこでの居住資格は得られないことをすぐに悟りました。そのため私は、次にリビアへ向かうことにしました。そこが私の現在の居場所です。ここベンガジで、トルコのビザを申請するための居住資格が得られるかどうかを待ちながら、この文章を書いています。

エジプトのアレクサンドリアにあるフランス文化協会で開催された展覧会『ガザ、カイロ、そして希望』を訪れる人々。(モハンメドさん撮影/2025年)
ガザの写真家とは「記憶の番人」
この直近の戦争で、私は多くを失いました。家を失い、アーカイブの大部分を失い、そして最も苦しいことに、何百人もの家族や友人を失いました。しかし手元に残った写真を見つめると、ガザの写真家とは「記憶の番人」なのだということがはっきりとわかります。
私の旅は、シンプルなカメラと、亡き友から始まりました。今、私は世界に伝えるためにレンズを構えます。私たちの街を消し去ろうとどれだけ試みようとも、私たちがここにいたこと、そしてこれからもここに留まることを証明する目撃者として、私たちの写真は残り続けます。
写真は沈黙を打ち破ることができると私は信じています。それは単なる凍りついた瞬間ではなく、生きた証人であり、人間の物語なのです。
ニュースメディアの喧騒から離れ、私の写真を通じて、見る人が人々の物語を受け取り、彼女たち彼らの真実の声に耳を傾けてくれることを願っています。一枚一枚の写真にはメッセージが込められており、すべての情景は、放っておけば世界が目にすることのなかったであろう、「命の瞬間」を記録しています。
私にとってアートとは、人間性への連帯です。
アートは人の痛みや苦しみを表現することができますが、それと同時に、そこに生きる人々の命に光をあてるものでもあるのです。 暴力によって打ち砕かれた世界と、命をつなぐために世界の沈黙の中で闘い続けている世界――。写真を通して、私はそこに架け橋を築こうとしているのです。

ガザ市でのパレスチナの伝統的な結婚式で、喜びを表現する女性。その手には、この街の婚礼の習慣である「ヘンナ」が添えられている。(モハンメドさん撮影/2019年)
(文 モハンメド・H・サレム/翻訳・編集 佐藤慧)
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