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父の悲嘆が残したもの―東日本大震災から15年

母の遺体を見つけた数日後、父の言葉にできない思いにシャッターを切った。(佐藤慧撮影)
本エッセイには東日本大震災の津波や、死別についての記述があります。

東日本大震災から15年が経ちました。直接的、間接的にこの震災を経験した人々の中でも、その15年という月日に対する感覚や思いはみなそれぞれ違うでしょう。

ときおり、高校などに授業をしに行く機会があり、東日本大震災について尋ねることがあるのですが、「記憶にない」と答える生徒たちが増えてきました。

それは当然のことです。何が起きても、起きなくても、15年という月日は流れていきます。

あのときの光景が、昨日のできごとのように脳裏にこびりついていても、客観的な時間は立ち止まることなく、新しい日を迎えます。日々新しいできごとが報じられ、各地で災害が起きたり、身近なところで生活が一変するようなことが起きたり、それぞれに大切なもの、フォーカスするものは変化していきます。

けれど、周囲の関心が移り変わったり、時計の針が進んだところで、個々人の内面には色褪せないものがあるのです。

それはときに悲しみだったり、怒りだったり、深い喪失感だったりと、一般的にはネガティブなイメージで捉えられているものも含まれています。それらは「トラウマ」として、日常生活に侵入し、今を生きることを難しくさせることもあります。ですが中には、苦しみを伴いながらも、何かとても大切なもの――それは目には見えず、手で触ることもできないものですが――を、しくしくとした痛みと共に、教えてくれることがあるとも感じます。

2011年3月22日、陸前高田市街地は壊滅していた。(佐藤慧撮影)

僕の母は、岩手県陸前高田市で、東日本大震災の津波によって命を落としました。

1ヵ月後に、海岸から9キロ離れた川の上流で遺体が見つかったとき、すでにその肉体は朽ちかけていました。バクテリアに分解され、暗褐色に沈んだ母の顔を目にしたとき、情報としての事実を理解することはできても、体はそれを拒絶しているようでした。

葬儀も終え、納骨し、ひととおりの儀式を終えた後にも、そのときの母の顔や、瓦礫の中で嗅いだ「死のにおい」が、突然よみがえってくることがあります。

そうした瞬間に生じる感情は、これまで僕が名付けをしたことのない感情でした。怒りでも悲しみでもなく、恐怖とも少し違う。自分の足場が突然すべて崩れ落ち、際限のない重力の穴に落ちていくような、「驚き」とも似た感情でした。その感情を、僕はネガティブにもポジティブにも、分類できません。ひとつ確かなことは、それは僕に「問い」を残したということです。

「お前はなぜ生きているのか?」

虚空に浮かぶ自分に、そうした問いが突きつけられているように感じるのです。

思えば幼少期から、きょうだいの死(弟は小児がんで、姉は自死で亡くなりました)を経験するごとに、そうした問いの種子はまかれていたのだと思います。実学よりも、哲学的・宗教的問いに関する本を多く読んできたのも、そうした影響があったのかもしれません。

どこかに答えがあるのではないかと、古典文学や哲学書を読みあさったり、様々な芸術家が残した作品から、生きる意味を見いだせないかと苦悶しました。

ところが、そのどこにも自分の探している答えは見つからず、「同じような問いが無数にある」ということだけが、わかりました。

かつて日本百景にも数えられた7万本の松林が根こそぎ引きちぎられた。(佐藤慧撮影)

津波に呑まれながらも一命を取り留めた父は、生涯の伴侶が突然いなくなったことに、深い喪失感を抱いていました。僕にとっては母ですが、父にとっては、共に子どもたちの死を抱え、支え合ってきたパートナーだったはずです。

震災前は気丈で、よく冗談をいう父でしたが、母を喪ってからというもの、表情筋が悲しみに固定されたかのように、どこか遠くをながめ、ときおり涙をこぼしました。

実は僕の両親の家は、沿岸の陸前高田市ではなく、内陸の盛岡市にありました。父は医師として、岩手県内のあちこちの病院に勤務しており、数年ごとに母とともに赴任して各地で暮らしていました(陸前高田市の病院での勤務は、僕の姉の最期を看取った医師と一緒に働くという、父の悲願によるものだったそうです)。

陸前高田市では、病院の隣の官舎に暮らしており、その3階建ての官舎は、屋上まで津波に襲われました。そのため家にあったあらゆるものは破壊され、思い出の品の多くが失われました。けれど内陸にも家があったため、そこは震災前と変わらず残っていたのです。

その実家に、父はあまり帰りたがりませんでした。

父は震災後、津波による恐怖が体に刻み込まれ、海を見ると手が震えるという症状に悩まされました。外科医だった父には重大な症状でした。結局父は、別の県の親族宅に身を寄せ、そこで緩和医療に関わる医師として働くことになりました。

震災後、被災地の支援活動にかかわっていた僕は、内陸の家を拠点とし、沿岸の街々へと通っていました。実家には、母が使っていたものが残っており、ときおりそれを眺めては、生前の母を思い出し、心が痛みました。

きっと父は、こうした思い出がよみがえってしまうからこそ、この家にあまり帰ってきたくないのかもしれません。

そう考えた僕は、ある日父がやってくる前に、徹底的に家の掃除を行いました。

散らかっていたものは整理し、思い出の品は同じところにまとめて置きました。ほこりを被ったまま放置されていたトイレのドライフラワーも、このさい気分を変えて新しいものに入れ替えました。

カーテンを洗い、空気も入れ替え、家がよみがえったように感じました。ところが父は、自宅の玄関をくぐったとたん、こうつぶやいたのです。

「全部、きれいに“してしまった”んだね」

そのときになってやっと僕は気づいたのです。ここは父の「タイムカプセル」だったのだと。

それは母との思い出を想起させ、辛く悲しい気持ちを刺激する場所でもありましたが、決してネガティブな感情だけが詰まった場所ではなかったのです。父がそれだけ深く悲しみ、嘆くことができるということは、それと同等か、それ以上の喜びや愛が存在していたことの証でもあったのではないでしょうか。

いつの間にか僕は、勝手に他者の悲しみを「重荷」であり、「手放さなければいけないもの」だと決めつけていたのでした。

人には、悲しむ権利があるのです。愛する権利と同じように。

母の葬儀後、よく家族で休日を過ごした公園を訪れた父。(佐藤慧撮影)

数年後、心身共に衰弱した父は息を引き取りました。父の携帯には、もう通じなくなった母の番号へとかけた履歴が残っていました。

最後まで悲嘆に沈んでいた晩年の父について、「辛い時間だったね」と声をかけてくれる人がいます。もちろん、とてもしんどく、悲しみに押しつぶされるような日々だったのではないかと想像しますが、それだけではなかったのだと、今の僕は感じています。

色褪せない悲しみは、父にとって最愛の人との思い出が詰まった写真のようなものだったのではないでしょうか。

父の悲嘆とその後のできごとについては、下記にも綴っています。

今でもときどき、自問自答します。家の掃除はしないまま、そのままにしておいた方がよかったのでしょうか。

家の居間は、となりの和室とつなげて、広間としても使えるようになっていました。「ここで自分の葬式もできるようにと考えて、設計したんだ」と、かつて父が言っていたことを覚えています。

結局父の葬式には大勢の人が集まり、家には入りきらないということで、お寺を借りて葬儀を行いました。父の願いはかなえられませんでしたが、その場はとても、温かいものになりました。

その家も、維持費がかさみ手放しましたが、思い出の品のいくつかは残してあります。それらに触れると、痛みとも、悲しみともつかない感情がよみがえってきます。それと同時に、父が最後に残してくれた思いもまた、響いてくるのです。

悲しむことは、愛すること。

とても情緒的で、つかみどころのない言葉かもしれません。けれどこうした価値観は、誰しもが死別や喪失を経験する人生において、ひとつの意味を与えてくれるものでもあるのではないかと、僕は感じています。

いつか自分の命が尽きることは、誰しもに自明のことです。愛する人や、大切な場所とも、いつか別れなければなりません。けれどそれが、単に何かを失ったというネガティブな意味ではなく、それほどまでに大切なものに出会えたのだという証でもあるのなら、ちょっとだけ、「なぜお前は生きているのか?」という問いに、光を与えられるような気がするのです。

もちろんそれは、「みんな喪失を経験したほうがよい」という意味ではありません。特に、人為的に誰かの命が奪われたり、故郷を追われたりということには、全力で抗うべきです。

ですが、どうしようもなく、ふいに襲い掛かってくる喪失の中にいる人がいたら、その人が、その人の必要なだけ、悲しみを感じたり、悲嘆に沈むことを支えられる世界を、僕は望みます。

それはきっと、異なる環境やバックグラウンドの中で、苦難に直面している人々の心情を想像しエンパシーを広げていく、共生社会を育む苗床ともなるのではないでしょうか。

東日本大震災に限らず、亡くなられた全ての方々の冥福を祈るとともに、その死別と日々向き合う人々の、心の安寧を願って。

母の遺体が見つかった川で行われた灯篭流し。命はどこからきて、どこへ流れていくのだろうか。(佐藤慧撮影)

Writerこの記事を書いたのは
Writer
フォトジャーナリスト / ライター佐藤慧Kei Sato

1982年岩手県生まれ。認定NPO法人Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル/D4P)フォトジャーナリスト。同団体の代表。世界を変えるのはシステムではなく人間の精神的な成長であると信じ、紛争、貧困の問題、人間の思想とその可能性を追う。言葉と写真を駆使し、国籍−人種−宗教を超えて、人と人との心の繋がりを探求する。アフリカや中東、東ティモールなどを取材。東日本大震災以降、継続的に被災地の取材も行っている。著書に『しあわせの牛乳』(ポプラ社)、同書で第2回児童文芸ノンフィクション文学賞、『10分後に自分の世界が広がる手紙』〔全3巻〕(東洋館出版社)で第8回児童ペン賞ノンフィクション賞など受賞。

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