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【エッセイ】千年先に命を繋ぐ

岩手県の内陸、盛岡市から東部の岩泉町へと車を走らせる。新緑の木々が瑞々しい光を揺らし、鳥のさえずりが春の空気を彩る。山林が面積の8割を占める岩手県を、郷土の詩人、宮沢賢治は理想郷の意を込めて「イーハトーブ」と呼んだ。日ごろ東京で暮らす僕は、故郷である岩手に帰るたびに、体に沈殿した澱を吐き出すように大きく深呼吸をする。土があり、水があり、空気がある。都会的なものが「何もない」山中は、目に見えない何かに満ちているようだった。そこかしこに無数の命の息遣いを感じながら、東へと向かった。

標高が高くなるにつれ、空気がひんやりと透き通っていく。目指すは「なかほら牧場」、著書『しあわせの牛乳』の舞台となった場所だ。広葉樹の生い茂る林を抜けると、一面芝生に覆われた山肌が現れる。この山で行われているのが、なかほら牧場の「山地酪農」だ。通常の日本の酪農では、牛たちは牛舎で飼われることがほとんどで、餌も穀物が主体の濃厚飼料が主となる。しかし山地酪農では、牛は山へ自由に放牧され、自分で好きな草を食べて生きる。急峻な山肌をものともせずに上り下りし、子牛も友達と遊びながら駆け回る。牛の糞尿は山へと還り、その栄養が牛を支える草木を育む。山と牛がひとつの大きないきもののように呼吸をし、人間はそこから牛乳という恵みを、牛に過度な無理をさせない量だけ頂く。

なかほら牧場の芝生の上を自由に闊歩する牛たち。(撮影:安田菜津紀)

自然のリズムに寄り添うようなこの酪農を提唱したのは、植物生態学者の猶原恭爾氏だった。自然の再生速度を上回るような大量生産をしてはいけない、と猶原氏は語った。当時大学生だった、なかほら牧場の牧場長、中洞正さんは、その猶原氏の思想に衝撃を受けた。当時は近代酪農と呼ばれる、大量生産を目指す酪農が日本中で拡大している時期だった。少しでも乳量を増やそうと、牛本来の主食である青草ではなく、栄養価の高い穀物飼料が開発された。山を自由に歩かせると、エネルギーが無駄となり乳量が減ると言われ、効率的な牛舎での飼育が広まっていった。しかし過度な大量生産は、いずれ自然のリズムを壊し、長続きはしないと猶原氏は言う。「千年家を目指しなさい」と、繰り返し、繰り返し、学生たちに説いた。自分の代だけが生きられたら良いというのではなく、千年先の子孫たちも豊かに生きられるように、自然と人間が調和しながら生きていくような酪農をしなさいと言うのだ。

同じような話を以前聞いたことがある。それは、ザンビア初代副大統領、サイモン・カプウェプウェ氏の言葉だった。イギリスの植民地から独立を果たしたザンビアは、食料需要の急増に備え、トウモロコシの大規模栽培を推し進めた。伝統的な作物を育てていた畑をトウモロコシ畑に変え、大量の化学肥料を投与し収穫量を拡大し続けた。しかし、主要輸出品である銅の国際価格が下落すると、国内の経済も悪化の一途をたどり、多くの農村では化学肥料を購入する資金もおぼつかなくなった。化学肥料で育てた畑は、化学肥料の使用を止めると一気に荒廃していった。その頃には既に、伝統的な農業方法の知恵も廃れ、畑もなく、現金収入もない人々は貧困へと追いやられていった。そんな人々に向けてサイモン氏はこう言ったのだ。「自然の成長と共に歩めば、資源が尽きることはない」と。現在は、故サイモン氏の意志を継ぎ、娘のチルフィアさんが、農村の復活を目指し活動を続けている。伝統的な木々が成木となる、20年、30年、ときに100年というサイクルが、ひとつのリズムなのだと彼女は言う。短期的な目先の利益を追っていては、未来の世代から資源を奪うことになり兼ねないと。

自然のリズムに則った農法を復活させようと活動を続けるチルフィアさん。(撮影:佐藤慧)

人は何のために生きるのか。「次の世代を育むためだよ」と中洞さんは言う。草木の苗床となる山の表土は、しっとりと湿った黒い土だ。真砂土の多い北上山地では、この黒土はほんの数十センチ堆積しているに過ぎない。中洞さんは温かいまなざしでその土を見つめる。「オレはこの山の土が愛おしくて仕方ないんだ」。この土は、何万年、何億年という時間をかけて積み重なってきた、無数の命の残滓なのだ。そこから芽吹いた草木が他の命を支え、そしてまた土へと還っていく。ひとつの命が尽きても、その命は他の命の中で紡がれ、皮膚で区切られた境界線を越えた、大きな、大きな流れとして呼吸を続けていく。この息吹に耳を傾けながら社会を築いていくこと。それが自然と人間が、永久に共生していくために必要なことではないだろうか。

豊かな山とのんびりと過ごす牛と戯れる中洞さん。(撮影:安田菜津紀)

(2019.5.14/文 佐藤慧)

※中洞さんも登壇する『しあわせの牛乳』関連のイベントを6月29日(土)に行ないます。
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