【イベントレポート】東北オンラインスタディツアー2021 ~震災から10年。防災で守ろう、私の大切なもの~(2021.2.14)
2014年から毎年夏に行ってきた「東北スタディツアー」。全国の高校生約10名が、Dialogue for Peopleフォトジャーナリスト安田菜津紀と共に、東日本大震災の被災地を訪れ、現地の方と出会い、写真を通じて交流を深めてきました。ところが2020年、新型コロナウイルスの感染拡大により、例年通りのプログラムの実施ができませんでした。
直接足を運ぶことは難しくても、心を寄せ、関心を持ち続けるきっかけをつくることはできないかーーそんな思いから、2021年2月14日、東日本大震災の発災から10年を前に、Dialogue for People(D4P)とオリンパス株式会社は、中学・高校・大学生世代の皆さんを対象とした「東北オンラインスタディツアー2021 ~震災から10年。防災で守ろう、私の大切なもの~」を開催しました。震災当時は、3歳~小中学生だった参加者の中には、関心はあっても被災地を訪れるきっかけがなかったという人も多くいました。岩手・宮城・福島のそれぞれの語り部たちと、全国各地の皆さんをオンラインでつなぎながら、一緒に「大切なものを守るための防災」について考える時間となりました。
Contents 目次
- 時も場所も超えて、震災当時に思いを馳せる
- ■岩手県陸前高田市 佐藤一男さん・あかりさん
- 佐藤一男さん
- 佐藤あかりさん
- 同級生と違う住環境のストレスを緩和してくれたのは「地域交流」
- 災害時は団体行動よりも「自分で行動できる力」を
- 自分や大切な人の命を守るのは自分
- 要支援者と要配慮者の認識が大切
- 災害時こそ問われる「日常にしていること」
- 支援物資の難しさ
- 今日から簡単に始められる防災
- 10年を振り返って
- ■宮城県石巻市 佐藤敏郎さん
- 佐藤敏郎さん
- 「ようこそ、大川小学校へ」
- 震災前の日常伝えたい
- あの日の大川小学校
- 命を守るのは「判断」と「行動」
- 平時の備えが命を守る
- 「真ん中」で考え続けるということ
- 大川小学校を「未来を拓く」場所に
- ■福島県大熊町 木村紀夫さん
- 木村紀夫さん
- 原発事故の影響 色濃く残る
- 教訓で未来の命を守りたい
- 終わりの見えない捜索活動
- 約5年9か月かかった汐凪さんの捜索
- 早く見つけられなかった後悔
- 娘2人に支えられた10年
- 大切なものを守るために
時も場所も超えて、震災当時に思いを馳せる
イベント前日の2月13日23時ごろ、福島県や宮城県で震度6強の地震がありました。10年前に東日本大震災を引き起こした地震の余震とみられています。翌14日、東京の配信会場にてイベントの司会進行を務めた安田菜津紀は、東日本大震災の後、多くの被災された方が「みんな大変なんだし、自分は我慢しなくては」と、不安や動揺を心に押し込めていたことに触れ、「昨晩の地震で心がざわついている人もいるかもしれない。けれどそうした心配や不安もぜひわかちあってほしい」と話し、オンラインスタディーツアーを開始しました。
東日本大震災から10年という月日が経ちました。その10年をどのように捉えるかは、人それぞれでしょう。ただ、安田が岩手県陸前高田市で出会った方々の言葉を借りるとすれば、「災害は人々がその恐ろしさを忘れた頃にやってくる。忘れた頃にやってくるというところにも、恐ろしさがある」のです。
それぞれの語り部の声に触れながら、私たちは今、何をすべきなのか、何を学んで何を大切にしていくべきなのか。改めて考えていきたいと思います。
■岩手県陸前高田市 佐藤一男さん・あかりさん
佐藤一男さん
1965年岩手県陸前高田市出身。高校卒業後、山形県米沢市で就職。27歳で陸前高田市にUターン。2011年3月、東日本大震災で自宅、漁船、作業場を失う。避難所運営役員となる。同年5月、仮設住宅自治会長、10月、桜ライン311設立。2014年、防災士取得。認定NPO桜ライン311勤務。陸前高田市消防団本部副本部長。高田松原を守る会理事。
佐藤あかりさん
佐藤一男さんの長女、現在17歳。小学一年生のときに被災。東北スタディツアー2019(6期)参加者。得意な教科はプログラミング。「あまり真面目な話は得意ではないですが、自分の経験やスタツアの感想などはしっかり伝えられるように善処します。よろしくお願いいたします」。
まず、お話してくださったのは、岩手県陸前高田市の佐藤一男さんと娘のあかりさんです。海の側にあった佐藤さん一家の自宅は津波に呑まれ、その後4ヵ月間、避難所となった体育館で暮らしました。一人当たり幅80cm、長さ2.5mのスペースで寝ていたといいます。それから仮設住宅に移り住み、2019年12月、やっと仮設を出て災害公営住宅に入居し、現在に至っています。
【関連記事】 佐藤さん一家が災害公営住宅で暮らすまでの9年間についてはこちらの記事を参照ください
同級生と違う住環境のストレスを緩和してくれたのは「地域交流」
佐藤あかりさんは、仮設住宅と災害公営住宅の違いについて、「仮設住宅の時は、外気が家の中に入ってきて、冬はすごく寒かった。災害公営住宅は、エアコンがついていなくても部屋の中が温かいです。仮設住宅の時は壁が薄かったので、隣の人の生活音が聞こえることもありました。災害公営住宅の方が、一世帯当たりの部屋の大きさも大きく、生活音も気にならないです」と話しました。震災後、狭い仮設住宅で暮らしている自分と、そうではない同級生との環境の違いがストレスになっていたこともあるといいます。
そのストレスを緩和してくれたのは、地域交流でした。あかりさんは、「普段から積極的に地域防災に関わり、災害時には避難所運営に携わることを想定してほしい」と同世代の参加者たちに語りかけました。
災害時は団体行動よりも「自分で行動できる力」を
あかりさんは、災害時には自分で行動できる力が重要だと話します。「私も含め、日本人は、普段から周りに合わせてしまう人が多いと思います。でも災害時には、団体行動よりも、自分で行動できる力が重要です」。
調和を重んじることはひとつの処世術ですが、「逃げなくていいんじゃない?」「自分はきっと大丈夫」という声に流されてしまうと、命を危険にさらすことにつながる可能性もあります。予期せぬ出来事が起こると、「こんなことはありえない」という先入観が働き、都合の悪い事実を無視したり、「まだ大丈夫だ」と自動的に認識する「正常性バイアス」という働きが人にはあります。こうした働きは、日常生活では様々なストレスなどに過度に反応しないよう心を守ってくれますが、災害時には、この機能が過剰に働きすぎることで、逃げ遅れる可能性があります。「他の人が大丈夫って言っているから、きっと大丈夫だろう」と思わずに、自ら考えて行動する力が重要でしょう。
自分や大切な人の命を守るのは自分
災害時には、自助・共助・公助が連携することで、被害を最小限にできるといわれています。自分で何とかする「自助」、地域住民同士で助け合う「共助」、自治体や国からの助けである「公助」の3つです
佐藤一男さんは、「災害をゼロにすることはできないが、被害をゼロにすることはできる」と語ります。そのためには「公助」だけを当てにするのではなく、「自助」「共助」をきちんと行っていくことが重要だと語ります。
「何かあったら自衛隊や消防団が何とかしてくれると考えている人が少なくないと思います。確かに、避難のための道路整備などは公助に該当します。しかし発災直後に、閉じ込められている人や家具の下敷きになっている人がいないか、隣近所で声を掛け合って確認したり、足腰の悪い人が逃げる手助けをしてあげたりすることは、共助でないとできないことです。市役所の職員や消防職員が全てを賄うことはできません。そして、地震に備えて行うべき家具の固定や、家の周りに燃えやすいものを置かないなどといった災害対策は、自分にしかできません」
要支援者と要配慮者の認識が大切
災害発生時に、「要支援者」と「要配慮者」をきちんと認識しておくことが重要だと、佐藤一男さんは語ります。
「要支援者」とは、逃げるときに支援が必要な人たちです。例えば、小さい子どもがいる家庭、高齢者、障がいのある方、妊婦さん、地震などでけがをした方などが、「要支援者」に含まれます。日本語でコミュニケーションが取れない方も要支援者に含まれます。日常会話ができる方でも、災害発生時に使われる単語は耳慣れないものが多く、理解が難しいという方もいるでしょう。
「要配慮者」とは、ひとつの空間で避難生活を送る上で、配慮が必要な人たちです。先ほど挙げた人々のほかに、食べ物にアレルギーを持つ人、女性、LGBTなどの性的マイノリティ、宗教的に価値観が違う人などが含まれます。東日本大震災で開設された避難所では、女性が様々な被害を受けたことが報告されています。周りがきちんと配慮しないと、災害によってではなく、避難生活の中で、心に傷を負う可能性があると一男さんは指摘します。
「災害発生から数時間は、命を守ることに専念すべきですが、ある程度命の危険が減ってきたら、プライドを守ることに力を注いでほしいです。その時に、要配慮者という認識を持つことが大切です。要配慮者の中に女性が含まれている以上、避難所にいる人の半数以上が要配慮者です。だから避難所では、要配慮者でない人が要配慮者に配慮するのではなく、できる人全員が、全体に配慮するという心がけが必要だと思います」
災害時こそ問われる「日常にしていること」
「災害が発生するから問題が発生するんじゃないんです。普段の生活の中で、やり過ごしていた問題が噴き出す。それが避難所生活です」と一男さんは訴えます。
「子どもを助ける人は多いんです。高齢者を助ける人も多いんです。でもなぜか、障がいのある方を助けようとする人は少ない。それは普段の生活の中で障がいのある方と接する機会が少ないからだと思います。体験学習や普段の生活で、障がいのある方々と触れ合い、学ぶ時間を作ってほしいと思っています」
避難所運営をするとき、男性や、生活に不便することのない人が役員になりがちです。避難所生活するうえで不自由がある人が役員になっていない場合、問題に気づくことさえできないといいます。問題に気づくことができなければ、解決されることはありません。
家族や友人に、自分とは異なる日常を送る人がいなければ、普段は、問題に気づかないふりをすることもできるかもしれません。しかし災害は、いつどこで起きるかわからないものです。いつもあなたがいる学校や職場、自宅かもしれないし、通勤・通学途中の歩道や駅にいる時に起こるかもしれません。災害時に突然対処しなくてはいけなくなるよりも、普段から時間をかけて、社会で見落とされがちな問題ひとつひとつに向き合っていくことが大切ではないでしょうか。
普段から、自分とは異なる暮らしのあり方にも目を向け、「お手伝いできることはありますか?」と積極的に声をかけていくことも、ひとつの防災でしょう。災害時に見落とされがちな課題に気づくことができるかどうかは、普段のあなたが世界を見つめる視点にかかっています。
支援物資の難しさ
支援物資を届ける側は、災害で失ったものを想定して送ります。なので全国から送られてきた物資は、基本的に不必要なものは無かったといいます。しかし、難しかったのは「数が合わなかった」こと。100人いるところに20個のおにぎりが届いて、どのように分配すればいいのか、頭を悩ませたと一男さんは語ります。
また、酒・タバコ・コーヒー類・おしゃれな衣服・化粧品などは、ぜいたく品なのでほしいとは言えなかったといいます。しかし、その気持ちに気づいて、サポートしてくれる団体もあったそうです。命をつなぐことができるようになった後には、尊厳が守られた暮らしができるようにしていくということが重要でしょう。
今日から簡単に始められる防災
一男さんは、災害に備えて、「車の燃料を半分以下にしないこと」「モバイルバッテリーを持ち歩くこと」「事前に避難先を調べておくこと」の3つを心がけてほしいといいます。
車は、地震や津波からの避難には向きませんが、大雨からの避難には有効だといいます。また、避難所に入りきれなかった場合にも、冷暖房完備でテレビやラジオがついている車で過ごすことができます。モバイルバッテリーは、情報を得るための端末を充電できるようにするためです。しかし災害時には、スマートフォンの充電が十分にあったとしても、電波が遮断されてしまえば、情報を検索できません。
「災害が発生してから避難先を調べるというやり方では、対応できなくなる危険性があります。最低でも、職場と自宅からの逃げるべき場所とコースを今のうちに調べて頭に入れておいてください。最後に『避難所』と『避難場所』という言葉があります。これは、それぞれ調べて、意味と理由を頭に入れておいてください」と呼びかけました。
10年を振り返って
最後に一男さんは、日本で行われている防災について次のように語ってくださいました。
「日本では、これまでの災害で失敗したことを改善する形で、防災マニュアルが作られてきました。平成になってから東日本大震災まで、人的被害を出した地震は、たくさんありました。しかし実は、平日の日中に災害が発生したケースはなかったんです。つまり、平日の日中に災害が発生したらどうするかというマニュアルは、作られてこなかったのです」
今、あなたの学校や勤め先、集合住宅等で経験した避難訓練を思い出してみてください。いつも同じ曜日の同じ時間帯に行われていたり、事前に「今日は○時に警報が鳴るので避難訓練をします」と知らされたりしていた経験はありませんか。
災害は昼夜問わず、やってきます。ぜひ、学校や勤め先で、ふとした瞬間に今災害が起きたらどう行動すべきかを考えてみてください。脳内で、自主的に避難訓練を行うのです。避難先や、備蓄の量など、あなたが知らなかったことがきっと生じてくるはずです。災害への備えに対し分からないことを、平時に解消しておくのが一番の防災です。現実的には、集合住宅等では深夜に避難訓練を行うことは難しいかもしれません。でも例えば、多様なケースを想定したマニュアルを作成し、各戸に配布することで、避難経路や安否確認方法などを共有することはできるのではないでしょうか。
あかりさんは、「私はいろんな人との出会いがあったので、東日本大震災以降の出来事はいい経験になりました。でも私と同じ生活を送っていても、つらい思いをしていた人もいると思います」と話しました。
あかりさんが話してくれたように、震災からの10年をどう感じるかは人それぞれです。今後10年、20年と時がたち、震災を知る世代がどんどん少なくなっていきます。次の世代へ東日本大震災の教訓を語り継ぐとともに、震災を直接見ていない他の地域の人々にも、災害に対する備えの重要性を伝えていくことが、今後ますます重要になっていくのではないでしょうか。
災害は、地震や津波だけではありません。台風や火災、土砂崩れなどは、どんな地域でも起こり得ます。事前にハザードマップなどを用いて、自分がよく行く場所の災害のリスクと避難先を把握しておくことが大切でしょう。
■宮城県石巻市 佐藤敏郎さん
佐藤敏郎さん
1963年宮城県石巻市出身。元中学校教諭。震災で当時石巻市立大川小学校6年生の次女が犠牲に。現在は震災伝承やラジオなど幅広く活動。共著「16歳の語り部」(2016ポプラ社)は児童福祉文化賞推薦作品に選ばれた。小さな命の意味を考える会代表、NPOカタリバアドバイザー、(一社)スマートサプライビジョン理事。
次にお話をしてくださったのは、宮城県石巻市の佐藤敏郎さんです。敏郎さんの次女みずほさんは、当時大川小学校の6年生でした。3月11日は、みずほさんの中学校の制服が出来上がった日で、家に帰ったら、お披露目会の予定でした。しかし残念ながら、みずほさんはその制服に袖を通すことはありませんでした。
「ようこそ、大川小学校へ」
現在、大川小学校で起きたことを伝えるガイドの活動をしている敏郎さんは、訪れる人々から、よくこんな質問をされるといいます。
「随分寂しい場所ですね。なんでこんな寂しい場所に学校を建てたんですか?」
確かに今は、壊れた校舎がぽつんと立っているだけです。でも、震災前は、周りに家が立ち並んでいました。街があって、生活があって、命があって、子どもたちが走り回っていた場所でした。「今日私は、思い出しながらお話をします。皆さんは思い浮かべていただけたらと思います」。画面の向こうからではありますが、「こんにちは。よろしくお願いします」という気持ちを込めて、黙祷を捧げました。
震災前の日常伝えたい
大川小学校では、現在校舎を「震災遺構」として残すための保存工事が行われています。桜の花が咲いていた昇降口、みずほさんも発表をした多目的ホール、そして、子どもたちが走り回っていた校庭。敏郎さんは写真を見せながら、震災前の様子を語ってくださいました。
「もう10年近く経ちました。あの日のことをしっかり伝えたいし、あの日からの10年も伝えたいと思っています。今、大事だなと思うのは、“あの日まで”です。ここにあった日常や風景を、私は忘れたくないし、伝えたいと思います。震災前の日々や、子どもたちが学び、遊ぶ姿が思い浮かべば、校舎の現在の姿を見て、あの日何があったのか、これからどうしていけばいいのかをみんなで考えられるのではないでしょうか」
あの日の大川小学校
※このセクションには、津波に関する表現があります。震災当時を思い出して心が苦しくなる方は、こちらのセクションは読まずに次へとお進みください。
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2011年3月11日14時46分、東北地方太平洋沖地震が発生し、大きな揺れが3分ほど続きました。数分後には、近くを流れる川の水がものすごい勢いで海の方へ引いていきました。川底が見えるほどでした。それから津波は、北上川を逆流しました。
大津波警報がすでに出ていた15時32分、大川小学校の近くを流れる富士川が溢れました。警報が出ていましたが、避難していなかった人も、富士川が溢れる様子を見て、避難行動を開始しました。15時35分に家を出た人がギリギリで助かっています。この頃までは、細い富士川は溢れていましたが、大きな北上川は溢れていませんでした。
がれき、家、船、車、人を巻き込んだ津波。最も多く流されてきたのは、3km以上先にある浜の松原に生えていた何万本もの松でした。その松の木が全部抜けて、津波として押し寄せてきました。北上川にかかる大きな橋がダムのようになって、津波をせき止めました。
15時37分、学校と街を大きな津波が、一気に襲いました。限界までせき止められていた分、大きなエネルギーを持っていました。まもなく、陸を遡上してきた津波も到達し、ぶつかって渦を巻いたといわれています。街が消え、橋が流されました。
校舎内にある時計や地域で見つかった時計は、すべて同じ時間、15時37分で止まっています。海から3.7km離れた場所にある大川小学校の2階の教室の天井(地面から約8.6mの高さ)には、津波の跡(波状痕)が残っています。
知らせを受けた敏郎さんが、船で大川小学校にたどり着くと、そこには、泥だらけのランドセルが山積みになっていました。その前には、何十人もの子どもたちがブルーシートを掛けられた状態で並べられていました。
「忘れられない光景です。忘れてはいけないと思います。うちの娘も、そこに眠っているようにして並んでいました。名前を呼んで『みーこ!起きろ!』と言って、揺り動かしても起きませんでした。それが10年前です。たくさんの子どもが、地域からも家からもいなくなってしまったことを、いまだに私はたぶん受け止め切れていないし、なんて話をすればいいのか、まだわかっていません」