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【イベントレポート】東北オンラインスタディツアー2021 ~震災から10年。防災で守ろう、私の大切なもの~(2021.2.14)

2013年、陸前高田市の市街地跡。

2014年から毎年夏に行ってきた「東北スタディツアー」。全国の高校生約10名が、Dialogue for Peopleフォトジャーナリスト安田菜津紀と共に、東日本大震災の被災地を訪れ、現地の方と出会い、写真を通じて交流を深めてきました。ところが2020年、新型コロナウイルスの感染拡大により、例年通りのプログラムの実施ができませんでした。

直接足を運ぶことは難しくても、心を寄せ、関心を持ち続けるきっかけをつくることはできないかーーそんな思いから、2021年2月14日、東日本大震災の発災から10年を前に、Dialogue for People(D4P)とオリンパス株式会社は、中学・高校・大学生世代の皆さんを対象とした「東北オンラインスタディツアー2021 ~震災から10年。防災で守ろう、私の大切なもの~」を開催しました。震災当時は、3歳~小中学生だった参加者の中には、関心はあっても被災地を訪れるきっかけがなかったという人も多くいました。岩手・宮城・福島のそれぞれの語り部たちと、全国各地の皆さんをオンラインでつなぎながら、一緒に「大切なものを守るための防災」について考える時間となりました。

時も場所も超えて、震災当時に思いを馳せる

イベント前日の2月13日23時ごろ、福島県や宮城県で震度6強の地震がありました。10年前に東日本大震災を引き起こした地震の余震とみられています。翌14日、東京の配信会場にてイベントの司会進行を務めた安田菜津紀は、東日本大震災の後、多くの被災された方が「みんな大変なんだし、自分は我慢しなくては」と、不安や動揺を心に押し込めていたことに触れ、「昨晩の地震で心がざわついている人もいるかもしれない。けれどそうした心配や不安もぜひわかちあってほしい」と話し、オンラインスタディーツアーを開始しました。

東日本大震災から10年という月日が経ちました。その10年をどのように捉えるかは、人それぞれでしょう。ただ、安田が岩手県陸前高田市で出会った方々の言葉を借りるとすれば、「災害は人々がその恐ろしさを忘れた頃にやってくる。忘れた頃にやってくるというところにも、恐ろしさがある」のです。

それぞれの語り部の声に触れながら、私たちは今、何をすべきなのか、何を学んで何を大切にしていくべきなのか。改めて考えていきたいと思います。


■岩手県陸前高田市 佐藤一男さん・あかりさん

佐藤一男さん

1965年岩手県陸前高田市出身。高校卒業後、山形県米沢市で就職。27歳で陸前高田市にUターン。2011年3月、東日本大震災で自宅、漁船、作業場を失う。避難所運営役員となる。同年5月、仮設住宅自治会長、10月、桜ライン311設立。2014年、防災士取得。認定NPO桜ライン311勤務。陸前高田市消防団本部副本部長。高田松原を守る会理事。

佐藤あかりさん

佐藤一男さんの長女、現在17歳。小学一年生のときに被災。東北スタディツアー2019(6期)参加者。得意な教科はプログラミング。「あまり真面目な話は得意ではないですが、自分の経験やスタツアの感想などはしっかり伝えられるように善処します。よろしくお願いいたします」。

まず、お話してくださったのは、岩手県陸前高田市の佐藤一男さんと娘のあかりさんです。海の側にあった佐藤さん一家の自宅は津波に呑まれ、その後4ヵ月間、避難所となった体育館で暮らしました。一人当たり幅80cm、長さ2.5mのスペースで寝ていたといいます。それから仮設住宅に移り住み、2019年12月、やっと仮設を出て災害公営住宅に入居し、現在に至っています。

【関連記事】 佐藤さん一家が災害公営住宅で暮らすまでの9年間についてはこちらの記事を参照ください

同級生と違う住環境のストレスを緩和してくれたのは「地域交流」

仮設住宅の通路で縄跳びをするあかりさん(2014年)。

佐藤あかりさんは、仮設住宅と災害公営住宅の違いについて、「仮設住宅の時は、外気が家の中に入ってきて、冬はすごく寒かった。災害公営住宅は、エアコンがついていなくても部屋の中が温かいです。仮設住宅の時は壁が薄かったので、隣の人の生活音が聞こえることもありました。災害公営住宅の方が、一世帯当たりの部屋の大きさも大きく、生活音も気にならないです」と話しました。震災後、狭い仮設住宅で暮らしている自分と、そうではない同級生との環境の違いがストレスになっていたこともあるといいます。

そのストレスを緩和してくれたのは、地域交流でした。あかりさんは、「普段から積極的に地域防災に関わり、災害時には避難所運営に携わることを想定してほしい」と同世代の参加者たちに語りかけました。

災害時は団体行動よりも「自分で行動できる力」を

あかりさんは、災害時には自分で行動できる力が重要だと話します。「私も含め、日本人は、普段から周りに合わせてしまう人が多いと思います。でも災害時には、団体行動よりも、自分で行動できる力が重要です」。

調和を重んじることはひとつの処世術ですが、「逃げなくていいんじゃない?」「自分はきっと大丈夫」という声に流されてしまうと、命を危険にさらすことにつながる可能性もあります。予期せぬ出来事が起こると、「こんなことはありえない」という先入観が働き、都合の悪い事実を無視したり、「まだ大丈夫だ」と自動的に認識する「正常性バイアス」という働きが人にはあります。こうした働きは、日常生活では様々なストレスなどに過度に反応しないよう心を守ってくれますが、災害時には、この機能が過剰に働きすぎることで、逃げ遅れる可能性があります。「他の人が大丈夫って言っているから、きっと大丈夫だろう」と思わずに、自ら考えて行動する力が重要でしょう。

自分や大切な人の命を守るのは自分

災害公営住宅に移り住んだ佐藤さん一家(2019年)。

災害時には、自助・共助・公助が連携することで、被害を最小限にできるといわれています。自分で何とかする「自助」、地域住民同士で助け合う「共助」、自治体や国からの助けである「公助」の3つです

佐藤一男さんは、「災害をゼロにすることはできないが、被害をゼロにすることはできる」と語ります。そのためには「公助」だけを当てにするのではなく、「自助」「共助」をきちんと行っていくことが重要だと語ります。

「何かあったら自衛隊や消防団が何とかしてくれると考えている人が少なくないと思います。確かに、避難のための道路整備などは公助に該当します。しかし発災直後に、閉じ込められている人や家具の下敷きになっている人がいないか、隣近所で声を掛け合って確認したり、足腰の悪い人が逃げる手助けをしてあげたりすることは、共助でないとできないことです。市役所の職員や消防職員が全てを賄うことはできません。そして、地震に備えて行うべき家具の固定や、家の周りに燃えやすいものを置かないなどといった災害対策は、自分にしかできません」

要支援者と要配慮者の認識が大切

災害発生時に、「要支援者」と「要配慮者」をきちんと認識しておくことが重要だと、佐藤一男さんは語ります。

「要支援者」とは、逃げるときに支援が必要な人たちです。例えば、小さい子どもがいる家庭、高齢者、障がいのある方、妊婦さん、地震などでけがをした方などが、「要支援者」に含まれます。日本語でコミュニケーションが取れない方も要支援者に含まれます。日常会話ができる方でも、災害発生時に使われる単語は耳慣れないものが多く、理解が難しいという方もいるでしょう。

「要配慮者」とは、ひとつの空間で避難生活を送る上で、配慮が必要な人たちです。先ほど挙げた人々のほかに、食べ物にアレルギーを持つ人、女性、LGBTなどの性的マイノリティ、宗教的に価値観が違う人などが含まれます。東日本大震災で開設された避難所では、女性が様々な被害を受けたことが報告されています。周りがきちんと配慮しないと、災害によってではなく、避難生活の中で、心に傷を負う可能性があると一男さんは指摘します。

「災害発生から数時間は、命を守ることに専念すべきですが、ある程度命の危険が減ってきたら、プライドを守ることに力を注いでほしいです。その時に、要配慮者という認識を持つことが大切です。要配慮者の中に女性が含まれている以上、避難所にいる人の半数以上が要配慮者です。だから避難所では、要配慮者でない人が要配慮者に配慮するのではなく、できる人全員が、全体に配慮するという心がけが必要だと思います」

災害時こそ問われる「日常にしていること」

元日に獅子舞を手に練り歩く一男さん。日頃からの人間関係が災害時に非常に役に立ったという。

「災害が発生するから問題が発生するんじゃないんです。普段の生活の中で、やり過ごしていた問題が噴き出す。それが避難所生活です」と一男さんは訴えます。

「子どもを助ける人は多いんです。高齢者を助ける人も多いんです。でもなぜか、障がいのある方を助けようとする人は少ない。それは普段の生活の中で障がいのある方と接する機会が少ないからだと思います。体験学習や普段の生活で、障がいのある方々と触れ合い、学ぶ時間を作ってほしいと思っています」

避難所運営をするとき、男性や、生活に不便することのない人が役員になりがちです。避難所生活するうえで不自由がある人が役員になっていない場合、問題に気づくことさえできないといいます。問題に気づくことができなければ、解決されることはありません。

家族や友人に、自分とは異なる日常を送る人がいなければ、普段は、問題に気づかないふりをすることもできるかもしれません。しかし災害は、いつどこで起きるかわからないものです。いつもあなたがいる学校や職場、自宅かもしれないし、通勤・通学途中の歩道や駅にいる時に起こるかもしれません。災害時に突然対処しなくてはいけなくなるよりも、普段から時間をかけて、社会で見落とされがちな問題ひとつひとつに向き合っていくことが大切ではないでしょうか。

普段から、自分とは異なる暮らしのあり方にも目を向け、「お手伝いできることはありますか?」と積極的に声をかけていくことも、ひとつの防災でしょう。災害時に見落とされがちな課題に気づくことができるかどうかは、普段のあなたが世界を見つめる視点にかかっています。

支援物資の難しさ

支援物資を届ける側は、災害で失ったものを想定して送ります。なので全国から送られてきた物資は、基本的に不必要なものは無かったといいます。しかし、難しかったのは「数が合わなかった」こと。100人いるところに20個のおにぎりが届いて、どのように分配すればいいのか、頭を悩ませたと一男さんは語ります。

また、酒・タバコ・コーヒー類・おしゃれな衣服・化粧品などは、ぜいたく品なのでほしいとは言えなかったといいます。しかし、その気持ちに気づいて、サポートしてくれる団体もあったそうです。命をつなぐことができるようになった後には、尊厳が守られた暮らしができるようにしていくということが重要でしょう。

今日から簡単に始められる防災

一男さんは、災害に備えて、「車の燃料を半分以下にしないこと」「モバイルバッテリーを持ち歩くこと」「事前に避難先を調べておくこと」の3つを心がけてほしいといいます。

車は、地震や津波からの避難には向きませんが、大雨からの避難には有効だといいます。また、避難所に入りきれなかった場合にも、冷暖房完備でテレビやラジオがついている車で過ごすことができます。モバイルバッテリーは、情報を得るための端末を充電できるようにするためです。しかし災害時には、スマートフォンの充電が十分にあったとしても、電波が遮断されてしまえば、情報を検索できません。

「災害が発生してから避難先を調べるというやり方では、対応できなくなる危険性があります。最低でも、職場と自宅からの逃げるべき場所とコースを今のうちに調べて頭に入れておいてください。最後に『避難所』と『避難場所』という言葉があります。これは、それぞれ調べて、意味と理由を頭に入れておいてください」と呼びかけました。

10年を振り返って

2021年3月11日の陸前高田市。

最後に一男さんは、日本で行われている防災について次のように語ってくださいました。

「日本では、これまでの災害で失敗したことを改善する形で、防災マニュアルが作られてきました。平成になってから東日本大震災まで、人的被害を出した地震は、たくさんありました。しかし実は、平日の日中に災害が発生したケースはなかったんです。つまり、平日の日中に災害が発生したらどうするかというマニュアルは、作られてこなかったのです」

今、あなたの学校や勤め先、集合住宅等で経験した避難訓練を思い出してみてください。いつも同じ曜日の同じ時間帯に行われていたり、事前に「今日は○時に警報が鳴るので避難訓練をします」と知らされたりしていた経験はありませんか。

災害は昼夜問わず、やってきます。ぜひ、学校や勤め先で、ふとした瞬間に今災害が起きたらどう行動すべきかを考えてみてください。脳内で、自主的に避難訓練を行うのです。避難先や、備蓄の量など、あなたが知らなかったことがきっと生じてくるはずです。災害への備えに対し分からないことを、平時に解消しておくのが一番の防災です。現実的には、集合住宅等では深夜に避難訓練を行うことは難しいかもしれません。でも例えば、多様なケースを想定したマニュアルを作成し、各戸に配布することで、避難経路や安否確認方法などを共有することはできるのではないでしょうか。

あかりさんは、「私はいろんな人との出会いがあったので、東日本大震災以降の出来事はいい経験になりました。でも私と同じ生活を送っていても、つらい思いをしていた人もいると思います」と話しました。

あかりさんが話してくれたように、震災からの10年をどう感じるかは人それぞれです。今後10年、20年と時がたち、震災を知る世代がどんどん少なくなっていきます。次の世代へ東日本大震災の教訓を語り継ぐとともに、震災を直接見ていない他の地域の人々にも、災害に対する備えの重要性を伝えていくことが、今後ますます重要になっていくのではないでしょうか。

災害は、地震や津波だけではありません。台風や火災、土砂崩れなどは、どんな地域でも起こり得ます。事前にハザードマップなどを用いて、自分がよく行く場所の災害のリスクと避難先を把握しておくことが大切でしょう。


■宮城県石巻市 佐藤敏郎さん

佐藤敏郎さん


1963年宮城県石巻市出身。元中学校教諭。震災で当時石巻市立大川小学校6年生の次女が犠牲に。現在は震災伝承やラジオなど幅広く活動。共著「16歳の語り部」(2016ポプラ社)は児童福祉文化賞推薦作品に選ばれた。小さな命の意味を考える会代表、NPOカタリバアドバイザー、(一社)スマートサプライビジョン理事。

次にお話をしてくださったのは、宮城県石巻市の佐藤敏郎さんです。敏郎さんの次女みずほさんは、当時大川小学校の6年生でした。3月11日は、みずほさんの中学校の制服が出来上がった日で、家に帰ったら、お披露目会の予定でした。しかし残念ながら、みずほさんはその制服に袖を通すことはありませんでした。

「ようこそ、大川小学校へ」

2019年8月の大川小学校。裏山から。

現在、大川小学校で起きたことを伝えるガイドの活動をしている敏郎さんは、訪れる人々から、よくこんな質問をされるといいます。

「随分寂しい場所ですね。なんでこんな寂しい場所に学校を建てたんですか?」

確かに今は、壊れた校舎がぽつんと立っているだけです。でも、震災前は、周りに家が立ち並んでいました。街があって、生活があって、命があって、子どもたちが走り回っていた場所でした。「今日私は、思い出しながらお話をします。皆さんは思い浮かべていただけたらと思います」。画面の向こうからではありますが、「こんにちは。よろしくお願いします」という気持ちを込めて、黙祷を捧げました。

震災前の日常伝えたい

雨の中でも伝承活動を続ける敏郎さん(2020年)

大川小学校では、現在校舎を「震災遺構」として残すための保存工事が行われています。桜の花が咲いていた昇降口、みずほさんも発表をした多目的ホール、そして、子どもたちが走り回っていた校庭。敏郎さんは写真を見せながら、震災前の様子を語ってくださいました。

「もう10年近く経ちました。あの日のことをしっかり伝えたいし、あの日からの10年も伝えたいと思っています。今、大事だなと思うのは、“あの日まで”です。ここにあった日常や風景を、私は忘れたくないし、伝えたいと思います。震災前の日々や、子どもたちが学び、遊ぶ姿が思い浮かべば、校舎の現在の姿を見て、あの日何があったのか、これからどうしていけばいいのかをみんなで考えられるのではないでしょうか」

あの日の大川小学校

※このセクションには、津波に関する表現があります。震災当時を思い出して心が苦しくなる方は、こちらのセクションは読まずに次へとお進みください。

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  • 2016年、大川小学校の教室に手向けられた花(撮影:塚原千智)

    2011年3月11日14時46分、東北地方太平洋沖地震が発生し、大きな揺れが3分ほど続きました。数分後には、近くを流れる川の水がものすごい勢いで海の方へ引いていきました。川底が見えるほどでした。それから津波は、北上川を逆流しました。

    大津波警報がすでに出ていた15時32分、大川小学校の近くを流れる富士川が溢れました。警報が出ていましたが、避難していなかった人も、富士川が溢れる様子を見て、避難行動を開始しました。15時35分に家を出た人がギリギリで助かっています。この頃までは、細い富士川は溢れていましたが、大きな北上川は溢れていませんでした。

    がれき、家、船、車、人を巻き込んだ津波。最も多く流されてきたのは、3km以上先にある浜の松原に生えていた何万本もの松でした。その松の木が全部抜けて、津波として押し寄せてきました。北上川にかかる大きな橋がダムのようになって、津波をせき止めました。

    15時37分、学校と街を大きな津波が、一気に襲いました。限界までせき止められていた分、大きなエネルギーを持っていました。まもなく、陸を遡上してきた津波も到達し、ぶつかって渦を巻いたといわれています。街が消え、橋が流されました。

    校舎内にある時計や地域で見つかった時計は、すべて同じ時間、15時37分で止まっています。海から3.7km離れた場所にある大川小学校の2階の教室の天井(地面から約8.6mの高さ)には、津波の跡(波状痕)が残っています。

    知らせを受けた敏郎さんが、船で大川小学校にたどり着くと、そこには、泥だらけのランドセルが山積みになっていました。その前には、何十人もの子どもたちがブルーシートを掛けられた状態で並べられていました。

    「忘れられない光景です。忘れてはいけないと思います。うちの娘も、そこに眠っているようにして並んでいました。名前を呼んで『みーこ!起きろ!』と言って、揺り動かしても起きませんでした。それが10年前です。たくさんの子どもが、地域からも家からもいなくなってしまったことを、いまだに私はたぶん受け止め切れていないし、なんて話をすればいいのか、まだわかっていません」


    命を守るのは「判断」と「行動」

       

    津波が大川小を襲うまでの51分間。学校の裏手には。中程度の傾斜の山がありました。毎年3月にしいたけ栽培の体験学習で登っていた子どもたちは、避難時に山に登ろうと先生に言った子もいたそうです。実際に登った子もいました。ところが、大勢の生徒と先生たちが避難を開始したのは、津波が襲ってくる1分前。しかも、人ひとりがやっと通れる幅の通路を通り、津波が来る方向へと向かってしまったのでした。

    「救えたはずの手段もあったし、情報も入ってきていて、時間もありました。でも、命を守れなかった。命を守るのは、山に登るという判断と行動だったのです」

    今の子どもたちに伝えたいことは、「ここで、子どもたちが学び、笑顔で遊んでいたこと。そして、それがあの日失われた場所であるということ」だと敏郎さんは語ります。

    「津波が迫ってくる中、狭い通路を青ざめた子どもたちがでてきます。その中には、自分も入っていると思ってください。自分も、自分の大切な人もそこから出てくるんです。こう想像したときに助かる方法を考える。それが防災です。防災は自分事(じぶんごと)です。私は、失って悲しんではじめて気づきましたが、その前に、平時のうちに考えてほしいです。津波は自分のところにも来る。家族にも来る。でも助かる。だから、ハッピーエンドです。恐怖ではなく、希望のために防災をするということです」

    あの日の大川小学校を「他人事」ではなく「自分事」にする。命を失うかもしれないという恐怖ではなく、全員が助かるという希望のために、前向きに防災に取り組んでみてはいかがでしょうか。

    平時の備えが命を守る

    2021年2月の大川小学校。

    「大川小学校はパニックになったんです。あの津波を目の前にして、ほぼ100%の人がパニックになります。動けないし、声も出せません。意思決定は遅くなれば遅くなるほど、パニックになります。逃げた学校は、パニックになる前に逃げています。それはしっかり準備していたからです」

    震災前の大川小学校にも、防災マニュアルはありました。しかしそれは、教育委員会に提出するための形式的なもので、先生たちにも共有すらされていなかったそうです。「マニュアルの扱いが形式的になっている学校は、大川小だけではないはずです。“提出するため”の書類や計画が増えているのではないでしょうか。その延長に、あの日の校庭があったと思います。それを変えたい」と、敏郎さんは力強く語ります。

    「よく言われます。マニュアルに頼らない力を身につける。でも、あの津波を目の前にしたら、冷静ではいられません。だから、平時で、パニックになる前に、備えておくことが重要です。あの50分間で言えば、はじめの10~20分。もっというと3.11の前です。そこで備えるしかありません。『マニュアルに頼るな』ではなく、『本気でマニュアルをつくれ』。命を守るためのマニュアルかどうかを、もう一度みんな点検する必要があると思っています」

    敏郎さんは、大川小学校で起きたことを検証する中で、最終的に問題となったのは「判断の遅れ」だったと考えているそうです。パニックに陥りそうな非常時において、できるだけ冷静な判断を迅速に下すには、平時のうちに「本気でマニュアルをつくること」が欠かせないのではないでしょうか。それが、大川小学校で犠牲になった命を無駄にしないことだと思います。

    「真ん中」で考え続けるということ

    配信中の敏郎さんの言葉で印象に残った言葉があります。

    「もちろん親として、『何をやってたんだ。なんとかできたんじゃないか?』という思いはあります。その一方で、子どもを救いたくない先生なんていないというのも確かです。きっと先生たちは、あの時、必死になって子どもたちを守ろうとしていたはずです。だから、物事は“真ん中”で考えるようにしています。先生たちが一生懸命だったことは忘れてはいけない。一方で、先生が一生懸命だったから仕方がないと思ってはいけないのです。そうしないと、みんな無駄になってしまいます」

    全校児童108人中74人と教職員10人が犠牲になった大川小学校。津波到達までの約50分間で、先生方も、どのような行動が最善なのか、頭を巡らせていたに違いありません。なぜそれが望ましい結果に繋がらなかったのか、二度と同じような悲しい出来事が起こらないように「真ん中」で考えていくことが大切なのだと感じました。

    大川小学校を「未来を拓く」場所に

    壁画には「未来を拓く」という言葉が書かれている。

    校舎を震災遺構として残すかどうかについては、それぞれの思いを抱える人同士で話し合われました。最終的に、高校生たちが自分たちの言葉で大川小学校を残す意味を語ったことで、震災遺構としての保存工事が始まりました。現在は校舎内に立ち入りできませんが、そこで子どもたちが集い、学んでいたことを示す様々なものが残っています。「津波が2階の天井まで達し、10年間雨風にさらされているにもかかわらず、(棚の)名前のシールが残っています。だから、今も通っているんだと思います」。

    「ここは遺族だけのものじゃないです。若い人や遠くの人のためにこそあるものです。30年後、40年後、50年後、ここに立った人が、なぜ昔の人はここを残したんだろう?と考えたときに届くような活動を私もやっていきたいと考えています。皆も、3.11がどういうものだったか、一緒に考えてほしい」と、敏郎さんは全国各地の参加者に呼びかけました。

    大川小学校の野外ステージには、子どもたちが描いた壁画が残っています。その中に「未来を拓く」という言葉があります。校歌のタイトルです。

    「この場所から未来を拓くには、あの日の校庭に顔を背けてはいけないと私は思っています。きっとその先に、小さな光のようなものが見えてくる。それが、ここから拓く未来です」


    ■福島県大熊町 木村紀夫さん

    木村紀夫さん

    東日本大震災で事故を起こした東京電力福島第一原子力発電所が立地する福島県大熊町で生まれ育つ。津波で家族3人を亡くし、父親と妻の遺体は震災後2か月以内に発見されるが、次女の汐凪(ゆうな)の遺骨の一部が発見されたのは震災から5年9か月後。自身の体験から防災と現代社会の豊かな生活への疑問について発信している。

    原発事故の影響 色濃く残る

    大熊町区域図。2020年6月の情報を基に作成。①避難指示解除済②立入規制緩和・避難指示解除区域③帰還困難区域④中間貯蔵施設エリア⑤福島第一原発敷地

    福島県の海沿いにある、大熊町。大熊町には、原発事故を起こした、東京電力福島第一原子力発電所の1号機から4号機までが立地しています。現在は、福島第一原発を囲むように、中間貯蔵施設(福島県内の除染の際に出た放射性廃棄物などを保管するための場所)が建設されています。木村さんのご自宅も、次女の汐凪さんが通っていた熊町小学校も、中間貯蔵施設建設予定地内にあります。

    この日の熊町小学校にあるモニタリングポストの空間線量率は、2.896μSv/hでした。しかし、そこから約1mのところにある植え込みの中では、7.26μSv/hです。屋上に溜まった水が雨どいを伝って落ちてくる場所では、16μSv/hを観測しました。
    ※参考:都内の安田宅で、0.09μSv/h。通常は、0.1μSv/h前後だという。

    最近木村さんは、帰還困難区域(放射線量が高く、暮らすことを禁止されている地域)内にある熊町小学校の花壇に花を植えたり、草刈りをしたりしています。「できるだけ、熊町小学校をきれいな状態で残していきたい」という思いを胸に、限られた時間の中で、大熊町での活動を続けています。

    教訓で未来の命を守りたい

    王太朗さん、汐凪さんが自宅に向かったルート

    昔から津波被害が多く記録されてきた三陸沿岸では、「津波てんでんこ」(意味:津波が起きたら家族が一緒にいなくても気にせず、てんでばらばらに高所に逃げ、まずは自分の命を守れ)という言葉が、津波からの避難の標語として伝えられてきました。一方、震災前の大熊町の住民は、大きな地震の後に、様子を見に行くために海に近づく人もいたほど、津波に対する危機感は薄かったそうです。

    地震発生当時、小学1年生だった木村さんの次女・汐凪さんは、熊町小学校での授業を終え、小学校の向かい側の熊町児童館で遊んでいました。一方、木村さんの父・王太朗(わたろう)さんは、いつも通り同小学校に通う長女を車で迎えにいきましたが、海側の自宅に残してきた木村さんの母のことが心配になり、長女を校庭に残したまま、海側の自宅に引き返すことにしたようです。その車に、次女の汐凪さんも乗り込み、そのまま行方不明となりました。

    木村さんは、長女と次女の人生が「引き渡されるかどうか」という紙一重の差によって変わってしまったという経験を伝えることで、災害時に児童を迎えに来た保護者に対し、「引き渡さないという選択肢はなかったのか」と問い続けています。当初は、マニュアルの中に汐凪さんのケースを入れてもらいたいと考えていたそうですが、現在は、学校の先生や児童館の方など、子どもの安全を守る立場の大人の頭の中に、この話を残していくことで、様々な対応の可能性を探っていけないかと考えています。

    「おそらく、家族を亡くされた方それぞれに教訓があると思います。マニュアルの中にそういう話はないのかもしれないけれど、それぞれが話を聞いて、それらを頭の中に知識として入れていけば、将来一人の子どもの命を救えるかもしれないと私は思うんです」

    終わりの見えない捜索活動

    木村さんが捜索のために作成したチラシ

    震災直後、原発事故の影響で、大熊町内には自由に立ち入りができなくなってしまいました。妻の深雪さんの岡山の実家に、生き残った家族を避難させた後、木村さんは、3月18日、福島に戻りました。発災から一週間が経過していたため、生きているとすれば、県内・県外の避難所か病院だろうと思い、チラシを作って、父親・妻・汐凪さんの行方を捜しました。

    妻の深雪さんと父の王太朗さんは、2011年4月中に見つかりましたが、次女の汐凪さんは、全然見つかりませんでした。2011年6月に、住民の一時帰宅が許されるようになると、その時間を使って一人で捜索を始めました。

    「最初は3か月に1回、2時間の立ち入りでしたが、その中でできることをやっていました。海岸に打ち上げられたがれきをかき分け、2畳分ほどの広さを掘り起こしていました。ただ、次に来る時には、既に波に洗われており、何をやっているのかと思ってしまう程でした」と、木村さんは当初の捜索活動について語ります。

    あの日のままになっている汐凪さんのいた教室を見つめる木村さん。

    2013年、木村さんは、南相馬市の上野敬幸さんと知り合いました。上野さんは、ご自身の家族も含め、津波で犠牲になった方々を捜索するボランティア活動をされている方です。木村さんは、線量の高さを懸念し、ボランティアの方に捜索をお願いしていいものかどうか半年悩んだといいます。最終的には、2013年の9月から、ボランティアの方にも協力してもらうことにしました。

    「ここをやってくださいとお願いできるような量ではありませんでした。そんな中、ボランティアのひとりが率先して、自衛隊が集めたがれきの山の捜索をやり始めて、それに続いて、みんな一緒に捜索するようになりました」

    安全上の理由で、個人的に重機を入れる許可を得られなかったため、捜索は全て手作業。スコップなどを使って、ひたすらがれきを掘り起こす作業を3年間続けました。しかし、ボランティアの方の力を借りても終わりが見えないほど、がれきは大量でした。

    汐凪さんの遺骨の一部が見つかった場所につくられたコンクリート片の慰霊碑。

    約5年9か月かかった汐凪さんの捜索

    2014年、中間貯蔵施設建設用地確保のため、大熊町の自宅付近の土地を譲ってもらえないかという要請が国からあったそうです。町はその要請を受け、続いて6月に住民説明会が開かれました。木村さんにとってその土地は、家族が暮らし、そして津波に流されてしまった場所でもあります。まだ汐凪さんが見つかっていないという心残りもありました。

    「こういう状況だから、『土地を売る気も貸す気もないです』という話を住民説明会でしたんです。そしたら、国の担当者が『そこに行方不明者がいるということを知りませんでした』と言ったんです。それを聞いて、あきれてしまって。もう国とは関わりたくないという気持ちになりました」

    しかし、懸命に汐凪さんを探すボランティアの方々の気持ちに応えたいという気持ちが芽生え、2016年9月に環境省にお願いして、重機による捜索をしてもらうことにしました。そして2016年11月から重機による捜索が始まり、12月9日、マフラーの中に含まれた汐凪さんの首の骨、ひとかけらが見つかりました。

    見つかった家族の遺品は帰還困難区域内のお寺に保管されている。

    早く見つけられなかった後悔

    「見つけられるチャンスはいっぱいあったのかもしれません。原発事故によって、捜索の機会が限られていた上に、見つけられるチャンスを私自身もつぶしていたかもしれない。見つかってほっとしたという思いはあったんですが、見つかったことによって新たな思いも湧きあがったんです。汐凪は津波で犠牲になったんじゃなくて、ここに取り残されたことで犠牲になったのではないかという可能性に気づきました」

    3月12日、地元の消防団が全町避難のぎりぎりまで、捜索活動を行っていました。その内の4人が、大人の声を聞いたといいます。彼らが声を聞いたという場所の近くで、4月29日、父・王太朗さんが見つかりました。その声は、父だった可能性が高いのではないかと木村さんは思っているそうです。

    「12日の段階で、きちんと捜索ができていれば、もしかすると父が生きていたかもしれません。その周辺で集められたがれきの中から見つかった汐凪についても、おじいちゃん(王太朗さん)の近くにいた可能性が高いんです」と、木村さんは悔しさをにじませました。

    廃炉作業の続く福島第一原発。

    娘2人に支えられた10年

    「この10年を振り返ると、すべてが汐凪に引っ張られてきたような気がするんですよ。人との出会いであったり、これからやっていくことであったり、すべて汐凪が段取りしてくれていた。5年9ヵ月見つからなかったことによって、いろんな出会いや機会を汐凪に与えられています。自分で考えてやるよりも、不思議とやらなければならないことが生まれていくことに、とても救われていました。一緒に生きていく長女の存在も、非常にありがたかったです。たぶん、娘2人の存在が無かったら、ふさぎこんでいたと思います。そういう意味で、東日本大震災や原発事故の影響について語るようになったのは、娘らのおかげだなと思いますね」

    木村さんは現在、大熊町内の自宅跡地付近で、循環型の小さなコミュニティの実現を目指して、農作物の生産やエネルギーの自給に取り組んでいます。また、2020年には『大熊未来塾』という、大熊町と全国各地を繋ぐオンライン交流会を主催し、様々な世代や地域の人と共に、大熊町の未来について考える活動を行ってきました。

    最後に木村さんは、「被災地には、それぞれの想いを持った人がたくさんいると思うんです。これからもそういう人たちの話を聞いて、知識をつけて、想いを次につなげていってほしいなと思います。特に私が今いるところは、30年間人が住めないところなので、糸がぷっつり切れてしまう可能性が高いです。そのために、みなさんの世代に頑張ってほしいですし、私は語り続けていきたいと思います」と、故郷への思いを次の世代に託しました。

    大切なものを守るために

    東日本大震災から10年経ち、当時のことを知らない世代や、災害を身近なこととして感じにくい人も増えていると思います。それでも今回のオンラインスタディーツアーには、全国から50人以上の若い世代が、東北の今を知りたいと参加してくれました。一人ひとりにできることは小さなことだとしても、その人の大切な人に思いが伝わり、また別の人へと輪が広がっていけば、いつか広く、教訓と防災意識が伝わっていくでしょう。

    これからは、東日本大震災の教訓をどう未来につなげ、どうやって大切な人や日常を災害から守っていくか、そしてそのために必要な防災を、どのように考え続けていくかということが問われています。世代が変わり、東日本大震災を経験した人がいなくなった時代にも、教訓と防災意識を残せるように、これからも学びを続けていきたいと思います。

    全国各地の参加者がオンラインで東北と繋がった。

    (2021.3.15/文 Dialogue for People インターン 塚原千智 ・ 校正 佐藤慧 ・ 写真 佐藤慧,安田菜津紀)

    塚原千智(つかはら・ちさと)
    Dialogue for peopleインターン。2016年、安田菜津紀と行く東北スタディツアーに参加。以後、東北に数回足を運び、現在は大学のサークル活動の一環で、大熊町での聞き書き活動も行う。

    ▼ 東北オンラインスタディツアー2021ウェブサイト


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