他人が差別されていることを見過ごすことに、居心地の悪さを感じない社会―『翡翠色の海へうたう』から考えるレイシズム、女性差別の問題(深沢潮さんインタビュー)
今年で終戦から76年。けれどまだまだ見過ごされていること、語られていないことが山積しています。当時も、そして今でも「いなかったこと」にされている人たちの受けた被害や心の痛みは、歴史の暗がりに追いやられたままとなってはいないでしょうか。家父長制や男性優位社会の影で「いなかったこと」にされてきた女性たちは、戦時中、そしてその後の社会の中でどのような搾取や差別を受けてきたのか。女性やマイノリティの生きづらさを描く小説家、深沢潮さんの新作『翡翠色の海へうたう』を軸に、今も続くヘイトクライムや女性蔑視、戦争加害との向き合い方についてお話を伺いました。
ひとりの人間として描く
――『翡翠色の海へうたう』はどのような小説なのでしょうか?
この小説はふたりの視点で語られていきます。ひとりは作家志望の女性、それからもうひとりは、戦時中に朝鮮半島から連れて来られた女性です。
まずは作家志望の女性、葉奈の物語から始まります。彼女は文学賞の最終選考に残るなど、それなりに良いところまで行くのですが、今ひとつそこを抜けられないという悩みを抱えていました。何か、新人賞を突破できるような強い引力を持った物語を書きたいと思っていたんですね。
そんな時に、自分の好きなK-POPアイドルのSNSが炎上している様子を目撃します。そのアイドルが、とあるブランドの服を着ていたんですね。そのブランドの商品はすべて、日本軍従軍慰安婦被害者のおばあさんたちがデザインしたもので、その売り上げの一部は、元慰安婦の女性たちや、虐待被害に苦しむ子どもたちの支援に使われるというものでした。
彼の投稿には、「嫌いになったかも」「日本に喧嘩売ってる?」などというコメントが並び葉奈もとまどいますが、そこから慰安婦という存在に興味を抱くことになります。そして色々と調べていくうちに、「このテーマで小説を書こう!」と、沖縄へ取材に行くんですね。
一方、もうひとりの主人公は、戦時中に朝鮮半島から連れて来られた女性で、沖縄の離島や本島で、“慰安婦”として軍に搾取されていました。
どうしても慰安婦というと、その言葉自体がどこか“触れてはいけないもの”という感覚であったり、ある種の感情を喚起させるものだったりすると思います。けれど実際には、そこにどのような暮らしがあり、人々がいたのか……そうしたことを、時代を越えたふたりの物語を交互に進めていくことで描きました。
――小説ではふたりの視点を通して、等身大の人間としての日常が描かれています。このような描き方は意識されていたことなのでしょうか?
そうですね。この小説を書くために、元慰安婦の方々に関する資料や文献、映像、映画など、様々な資料を観たり読んだりしたのですが、特に物語の中に登場する慰安婦の女性たちは、“ひとりの人間”としてではなく、兵士のロマンスの対象としてであったり、男性目線で描かれているものが多かったんです。
韓国側の資料や作品はまた違った視点なのですが、私の触れた限りでは、日本で流通しているものは、たとえ女性が作者であっても、ロマンス的な文脈で語られるものがほとんどだったんですね。
戦争の中での女性と言うと、「銃後の母」のようなものであったり、典型的なイメージを感動的に描かれることが多いのですが、そうではない、実際にそこにいた慰安婦の女性の、地に足のついたまなざしを描きたいという思いがありました。
この作品を書き始める前に、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ氏の『戦争は女の顔をしていない』という本を読んだのですが、この本では戦時中の女性の証言が内部から描かれているんですね。日本の慰安婦のことを考えたときに、彼女たちは“従軍”というぐらいですから、軍と共に行動をしていたわけです。それは一体どういう日常だったのだろうかということも、意識しながら書きました。
――こうしたテーマの小説を書きたいと思ったきっかけは何だったのでしょうか?
この小説には「慰安婦」、そして「沖縄」という大きなテーマがあります。沖縄に関していうと、9年前、作家になってすぐの夏休みのことだったのですが、子どもたちと一緒に沖縄観光に行ったんですね。私は石垣島には行ったことがあったのですが、本島に行くのは初めてでした。子どもたちと一緒に綺麗な海やおいしい食べものを楽しむ滞在ではあったのですが、私はどこに行っても戦跡など、子どもたちに歴史に関する学びに触れて欲しいという思いがあり、「ひめゆりの塔」を訪れました。
そこで私自身が、「あまりにも沖縄戦のことを知らなかった」ということに衝撃を受けたんです。たしかに、教科書の上では習ったことではありますが、こんなにも大変なことだったんだなと……。そこから意識して沖縄戦に関する資料や作品を手に取るようになりました。
慰安婦に関しては、『緑と赤』という小説の取材で韓国に行ったときなのですが、「ナヌムの家」という、元慰安婦のおばあさんたちが暮らしていらっしゃる施設を訪ねる機会があったんですね。小説の取材ということを抜きにしても、この機会に是非元慰安婦の女性のお話を伺いたいという気持ちがありました。一緒に同行して下さった方はその方と知り合いだったため、お部屋にもあがらせて頂いたのですが、当時の話などはなにもしてくれなかったんですね。
でも、今考えたらそれは当然のことなんですよ。“私が知りたい”からと、パッと行って話を聴きたいなんて、土足でその人の心に踏み込むようなものです。その方はご自身でも慰安婦のことに関する運動を行ったり、表現を行ったりしている人ではあったのですが、突然訪問して話を聴けたらと思っていた自分に驕りを感じました……。その時の反省もあり、私はこうした元慰安婦の方々のことを、ちゃんと知らなくてはいけないなと思うようになりました。
その後、沖縄の渡嘉敷島にいらっしゃった元慰安婦の裴奉奇(ペポンギ) さんの映画などを観る機会があり、色々な思いが交錯し、「書きたいな」「でも、書けるかな」という思いでいたときに、編集者の方に「作品にしてみましょう」と背中を押して頂いたんです。
心に残るアリランの歌
――そこから実際に取材・執筆をされる過程では、どのような苦労がありましたか?
漠然と「書きたい」と思ったところから、ひとりで沖縄に取材に行ったんですね。沖縄戦の証言をされている方と会ったり、聞き取り活動をされている方にお話を伺いました。そんな中で、実際に阿嘉島で慰安婦の女性を見たことがあるというおばあさんや、慰安所のお食事を作るお手伝いをされていたおばあさんにも出会うことができました。
すると、自分の頭の中にあった女性像とは違う、様々な話がいっぱい出てきたんですね。そうしたお話を伺っていくうちに、「これは本当に書きたいな」と。
私は慰安婦、元慰安婦の方々のことを、すごく特別な存在として捉えていたのかもしれません。けれど実際には、当たり前のことなのですが、なんら自分と変わらない普通の女性が連れて来られて、性搾取に遭っていたんですよね。
その取材を基に、ある中編小説を書いたのですが、結局掲載には至らずボツになってしまいました。担当さんとも一生懸命話し合いながら執筆したのですが、当時はまだやはり私の書くスタンスだとか、色々なものが足りておらず、作品として未熟なものにしかならなかったんですね。ですので、今回の小説となるまでには、まだ自分の中で温めておく時間が必要でした。
そのボツになった中編小説では、主人公は在日コリアンの小説家で、自分の“当事者性”を描いている、という設定だったんです。私自身により近い立場ですね。その中で、当事者(在日コリアン)であるが故の驕りがないかなど、そうした葛藤を抱えているという設定だったのですが、新たに連載の機会を頂いたときに、あらためて構成を組み立て直して現在の形になりました。
――深沢さんが取材されたという、当時慰安婦の方々のお世話をしていた女性の動画を以前見せて頂いたことがあります。今は高齢のおばあちゃんの語り口がとても印象的だったのですが、深沢さんはどのようなお話が印象に残ってますか?
阿嘉島で慰安所のお手伝いをされていたおばあさんですね。今もご健在でいらして、私が取材に伺ったときには、畑仕事の手を止めてお話をして下さり、「アリラン」という朝鮮民謡も歌ってくださいました。当時慰安婦の方々が歌っていた歌を憶えていらっしゃったんです。
その歌が本当に心を打ちまして、小説のどこかに絶対出したいと思ったんですね。というのも、ちょっと話がずれてしまいますが、実は「アリラン」は私にとっても特別な歌だったんです。
私の母方の祖父は大正時代に日本に来て、それこそ関東大震災のときも自警団に殺されかけた経験があります。たまたま警察に収容されて、その警察署も朝鮮人に暴力をふるったりするようなことのないところ(※)だったので、ぎりぎり命を救われたという話を聴きました。その祖父は慶尚南道の鎮海(チネ)という、もともと日本の海軍基地のあった地の出身なのですが、81歳で亡くなるまで、一度も故郷に帰ることはできませんでした。
(※)市民の自警団による暴力行為・虐殺の他、軍や警察による朝鮮人殺傷も発生した。詳細は後記の「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 1923 関東大震災【第2編】」の「第2節 殺傷事件の発生」を参照。
そんな祖父が、刺身をつまみにヤカンに入った日本酒を飲みながら、酔っぱらうと「アリラン」を歌いだすんです。当時小中学生だった私は、自分のアイデンティティについて悩んでいた時期だったので、祖父の歌を聴くと、「なんか嫌だな」って思っていたんですね。自己否定の時期だったんです。でもね、いつもこう、楽しそうに箸で机を叩いて節をとりながら歌う祖父の「アリラン」を、今でもふと思い出すときがあるんです。そして、とても切なくなります。一緒に歌っていたらと思います。
阿嘉島でおばあさんが歌ってくれた「アリラン」も、そして祖父が毎晩歌っていた「アリラン」も、それぞれの人の中でいろんな意味を持って残っているんだなと感じて、小説の中にも入れました。
他人が差別されていることを見過ごすことに、居心地の悪さを感じない
――9月1日は関東大震災、そしてその混乱下で多くの朝鮮人、中国人の方々が虐殺された日として記憶されています。深沢さんのおじいさんもぎりぎりで一命をとりとめたということですが、こうした暴力行為や虐殺が差別感情に根ざしたものであったということは、内閣府中央防災会議の資料(※)でも明言されています。残念ながら今も差別はなくなっていませんが、こうした差別意識の背景にはどのようなものがあるとお考えですか?
(※)災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 1923 関東大震災【第2編】
関東大震災のときの虐殺もそうですし、今も連綿と同じような言説が繰り返されていることや、追悼式典に対する東京都知事の態度も含めてのことですが、やっぱりどこか「宗主国的思考」とでもいうような、「植民地を占領している側の思考」のようなものが、あの戦争が終わった後にも払拭されていないと感じます。
現在、『李の花は散っても』という小説を連載しているのですが、その小説では李方子(イ・バンジャ)さんという、梨本宮家に生まれ、朝鮮王朝最後の皇太子の李垠(イ・ウン)さんという方と結婚された方と、その時代に生きた市井の女性の物語を書いています。この結婚は当時「日鮮融和」と呼ばれたのですが、朝鮮の王朝に日本の「血」を入れるという策略でもありました。
この小説を書くにあたり色々な文献を読んだり、調べたりしていくとですね、明治の変遷や侵略戦争を始めてからの意識というものが、現代まで連綿と続いているのだと感じます。
そうした思考を引きずった社会でありながら、「人権教育」というものがそもそもない、十分にされてない。名古屋入管で亡くなられたウィシュマさんの事件でも同じことを感じますが、「この人は大事だけどこの人は軽んじていい」という社会であっても、わりとそれが平気な人がいるんだな、と。
他人が差別されていることを見過ごすことに、居心地の悪さを感じない人が多い。むしろ、居心地が良いと思う人も多いかもしれません。“同質なこと”に居心地の良さを感じる社会の雰囲気の中では、“違う人”を粗末にしてしまいがちなのではないでしょうか。
私が小説を書くときに、どんな登場人物でも「私たちと同じ人間ですよ」という視点からスタートして、「でも違うところもありますよ」という書き方をしているのは、やはり根っこにそうした社会に対する強い意識があると感じます。
歴史の恥部と向き合う痛みから目を背けない
――小説ではレイシズム的な差別とともに、女性差別の問題も大きなテーマとなっています。現代にも続く“女性であること”による困難を、深沢さんはどのように捉えていらっしゃいますか?
先日キャロライン・クリアド=ペレス氏の『存在しない女たち』という本の書評を書いたのですが、その本を読むと、アダムとイブの旧約聖書の時代から、世界中で男性を基本として社会が設計されていたんだなと感じました。特に日本では、「性的客体としての女」という側面を強く感じますね。現代でもそれが強く残っている。男から観た客体としての女性ですから、性的なまなざしから逃れられない。そして性犯罪にも甘く、“大ポルノ国家”でもあります。マンスプレイニングもそうですよね。こちらは性的なものに限りませんが、男性ありきの女性という構図です。
私自身や、先輩の作家でもそうなのですが、“作家”ではなく“女性作家”という肩書きで呼ばれた瞬間に、容姿のことなどを色々言われるようになる。常に男性から「評価される存在」であることを求められて、女性もまたそれを内面化し、強化してしまうというところもあるのではないでしょうか。
「女性活用」という言葉もありますが、慰安婦だった女性はそもそも戦時中は“軍事物資”として扱われていたんです。だから、人ではなくモノ。活用するモノ、なんですよね。こうした意識や構造がまったく変わっていないなということを、小説を書きながらも思っていました。
――最後に『翡翠色の海へうたう』の読者に向けて、メッセージをお願いします。
この小説は「私はここにいる!」という叫びの小説なんですね。それぞれ生きていること、そのものが尊いんだということを言いたくて書きました。テーマが「慰安婦」とか「沖縄戦」というと、「重い話なのかな……」と思われることもありますが、文体もすごく気を付けて、読みやすくしているつもりです。
もちろん、ページをめくることが辛くなるような描写もあるのですが、その痛みというものも感じて欲しいと思っています。歴史的な恥部に触れること——間違っていたことに向き合うことは、痛みを伴います。けれど、その“痛み”から目を背けていくと、歴史修正主義者になってしまったり、「日本は素晴らしかったんだ」「戦争は正しかったんだ」「植民地じゃなかった、いいこともした」という、そうした言説に繋がっていくと思うんです。
痛みから何かを知っていくということは、とても大事なことだと思います。そうした痛み故に、「避けたいな」と思うようなテーマであっても、小説や様々な作品から、追体験をしながら触れていくということは、ひとつの入り口になるのではないかと思っています。興味を持った方は是非読んで頂きたいです。
【プロフィール】
深沢潮(ふかざわ・うしお)
小説家。父は一世、母は二世の在日コリアンの両親より東京で生まれる。上智大学文学部社会学科卒業。会社勤務、日本語講師を経て、2012年新潮社「女による女のためのR18文学賞」にて大賞を受賞。翌年、受賞作「金江のおばさん」を含む、在日コリアンの家族の喜怒哀楽が詰まった連作短編集「ハンサラン愛するひとびと」を刊行した。(文庫で「縁を結うひと」に改題。2019年に韓国にて翻訳本刊行)。以降、女性やマイノリティの生きづらさを描いた小説を描き続けている。
※本記事は9月1日に放送されたRadio Dialogue、『戦時下の女性たち―その後に続く差別』を元に編集したものです。
(2021.9.28 / 写真・文 佐藤慧)
(書き起こし協力:永瀬恵民子)
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