2月15日に刊行された『あなたのルーツを教えて下さい』に収録の《なぜ、その命は奪われたのか? ウィシュマさんの生きた軌跡をたどって》から一部を抜粋、加筆・編集して掲載します。
3月7日、眞野明美さんにとって、それはいつものように迎えた日曜日だった。朝8時半頃、起きがけでまだ頭がぼうっとしたまま、知人からのメールを開いた。《スリランカ出身の女性が6日に亡くなったと報じられていますが、眞野さん知っていますか?》――思わぬ文面にはっとし、そしてすぐに思い当たった。
「それ、ウィシュマよ!」
でも、信じたくない……。しばらく部屋の中をうろうろとしながら、自分を落ち着かせようと試みる。ヤカンからコップに白湯を移して飲もうとしたものの、口元まで持っていく気になれない。名古屋出入国在留管理局(以下、名古屋入管)に行きたいけれど、日曜日に窓口は開いていない。次第に涙が溢れてきた。もっと入管職員に抗議すればよかった、もっと強く言えばよかった。そんな思いが、ぐるぐると頭を巡った。
スリランカ出身のウィシュマ・サンダマリさんの死を知った日の朝のことを、眞野さんはこう振り返った。
こんなところにいてはだめだ
2017年6月、ウィシュマさんは、英語教師を目指して来日したものの、その後、学校に通えなくなり在留資格を失ってしまった。2020年8月に名古屋入管の施設に収容されたが、同居していたパートナーからのDVと、その男性から収容施設に届いた手紙に、《帰国したら罰を与える》など身の危険を感じるような脅しがあったことで、帰国ができないと訴えていた。収容中に体調を崩し、最後は自力で起き上がれないほど衰弱していたものの、入院や点滴などの措置は受けられなかった。亡くなる前日朝には、既にバイタルチェックができない状態であったにも関わらず、すぐに救急車が呼ばれることはなかった。
初めて眞野さんが名古屋入管に収容されていたウィシュマさんと面会したのは、2020年12月18日のことだった。冷え込んだ手狭な面会室に入ってきた彼女は、小さな女の子のように見えたという。聞けばその時点で、すでに収容時から12キロ以上痩せてしまっていたというのだ。眞野さんはそれまでも、難民申請者を自宅に受け入れたり、その身元保証人となったりしていた。
「彼女を見てすぐに、『うちに来て下さい』と言いました。こんなところにいてはだめだ、と思ったんです」。
面会室を二つに隔てるアクリル板は、「コロナ対策」と銘打って、わずかな隙間ですら養生テープでふさがれ、集中しなければ相手の声が聞き取れない状態だった。それでも、体を気遣う言葉をかける眞野さんに、ウィシュマさんは声を絞り出しながら、「ここに来て初めて、私の体を心配してくれる言葉を聞きました」と言い、両手で顔を覆った。
衰弱していたものの、この面会時のウィシュマさんにはまだ、ちょっとした冗談を言う気力が残っていた。外を通る救急車の「ご注意下さい」を、ずっと「50円下さい」だと思っていて不思議だったと彼女は語り、一緒に笑った。「限られた面会時間いっぱいを使ってウィシュマがあんなに喋れたのは、あの日が最後でした」と、眞野さんは言う。
虐待に等しい収容の実態
以後眞野さんは、面会や手紙のやりとりを通して、ウィシュマさんとの交流を重ねていった。ウィシュマさんの手紙の文面からは、シンガーソングライターとしても活動してきた眞野さんからギターを教わりたいと、外に出た後の生活に希望を膨らませていた様子が伝わってくる。眞野さんに食べさせたいスリランカ料理のリストまで作っていたそうだ。
《私はとても幸せです。だって今、私にはあなたがいます》
《人間に生まれてきて、よかったです》
ところが1月後半から、元々弱っていたウィシュマさんの容体に、より一層陰りが見え始める。2月3日の面会に現れたウィシュマさんは車椅子に乗り、吐き気が止まらないからと、青いバケツを抱えていた。2月5日は会うことさえ叶わず、散々待たされた後、「今日は面会できません」という職員の一言で、ぴしゃりと返された。後から知ったことだが、この日は入管外部の中京病院を受診した日だったという。けれどもこれだけの体調不良状態でありながら、なぜか消化器に限定した診察で、幅広く検査を受けられたわけではなかった。
後に遺族がこの時の担当医を訪れたところ、医師は「多くの職員が同行していたため、本人と会話した記憶が曖昧」と話し、ウィシュマさん自身に意思確認を行ったかどうかは曖昧だったという。それでも医師は、点滴などの措置について、入管職員たちと話題にあがった記憶はあるという。面会を続けていた支援団体STARTによる面会記録には、処遇部門の職員から聞き取った内容として、こうした記載がある。《点滴を打つことについても話があったが、「長い時間がかかる」ということで、入管側は「入院と同じ状態になるので」点滴を打たずに女性を入管に連れ帰った》。
眞野さんは介護の資格を持ち、デイサービスの現場に出ていた経験もある。自ら症状を訴えることのできない人たちと接する時には、誤嚥や転倒、脱水に気を配り、冬でも20~30分おきに顔色や意識などの状態を見た。調子が悪ければ、看護師に点滴をしてもらうこともよくあることだった。なぜ、ウィシュマさんには適切な措置がなされないのか、名古屋入管の処遇や審判などの窓口で抗議しても、まともにとりあってはもらえなかった。
「そんなに心配なら月曜に来て。元気になってるから」
担当者はあざけるように、眞野さんにそう言い放ったという。職員たちは、支援者を最初から“収容者をそそのかす人”という目線で見ているように、眞野さんには感じられた。その後のウィシュマさんからの手紙には、《担当者を信じられない》などと書かれており、職員に不信を募らせていたことがうかがえる。
STARTの面会記録に残っているウィシュマさんの言葉をたどっていくと、《歩けないのに「リハビリだから歩け」と職員に言われている》《トイレに行こうとして倒れてしまっても、助けてくれなかった》《ベッドから落ちてしまい、そのまま床で寝て寒かった》といった、虐待に等しい収容の実態を訴えていたことも見えてくる。
3月3日、眞野さんとの面会に現れたウィシュマさんは、すでにほとんど言葉を発せられない状態だったという。目は落ちくぼみ、思うように開けられない様子だった。「まるで生きながらミイラにされているような、直視するのもはばかられる状態でした」。それでも、弱々しく手を差し出して、眞野さんにこう訴えた。
「私をここから連れて出して……」
そこに、冗談を言って笑うウィシュマさんの姿はなかった。
「あんなに体調を崩していたら、人と会うのもつらいと思うんです。でも、ウィシュマは来てくれた。私たちに外へ連れ出して欲しかったんだと思います。それが本当に、申し訳なくて……。あんな状態の人を、入管側は“演技している”と思っていたのでしょうか」と、眞野さんは悔しさをにじませる。後に入管庁が公表した「最終報告書」によると、入管職員の中にはウィシュマさんの容体を、「仮放免に向けたアピール」だと認識していた者がいたという。この面会が眞野さんにとって、生前のウィシュマさんとの最期の対面となってしまった。
もしも仮放免申請が通っていれば
ウィシュマさんが亡くなったとの知らせを受けた翌日の3月8日、眞野さんは名古屋入管の窓口で猛烈に抗議をした。ウィシュマさんが着るはずだった、眞野さん手作りの服を担当者の前で掲げた。「なぜ入院させなかったの? なぜ点滴をしなかったの? どんなに訴えても、あなたたちは動いてくれなかったですよね? あなたたちも責任を感じてますか?」。担当は黙って目をそらした。思わず語気が強くなる。「私の目を見て話して下さい!」。
ウィシュマさんが亡くなる前、窓口で「救急車を呼ぶ」と訴えても、「やめて下さい、救急車が来ても帰ってもらう」と担当者に制されたことが頭を過った。あの時、躊躇せずに呼ぶべきだった……。「私は受け入れ先の人間として、ウィシュマを助けられなかったことを、本当に後悔しています!」。その叫びを聞いても、職員たちは沈黙したままだった。
眞野さんの自宅は愛知県津島市の閑静な住宅地の一角にある。「下宿館」と名付けられた2階建ての建物は開放感があり、木造の柱や床が温もりを感じさせてくれる。風が吹き抜けるリビングでいただいた、ここに暮らす難民申請中の女性がふるまってくれた故郷の料理は格別の味だった。話が弾んでいると、気さくな近所の住人たちが「ねえねえ、〇〇さん(女性の名前)、これ使うかな?」と、自転車を運んできてくれた。こうした温かなコミュニティに、ウィシュマさんが迎えられることはついになかった。
道路に面した1階の部屋には、ゆったりと眠れるベッドと小さな机が置かれ、目の前の窓からは桜の樹の葉が顔をのぞかせている。眞野さんがウィシュマさんを迎えるために整えていた部屋だ。もしも仮放免申請が通っていれば、あの春、ウィシュマさんはこの部屋で、目を輝かせながら満開の桜を眺めていたかもしれない。
非人間的であることを求める構造
私はウィシュマさんが亡くなった後、遺族の代理人弁護士が預かっていた彼女の遺品を見せてもらったことがある。ノートには、《生きていて よかったね 何度でも 乾杯》という日本語と、スリランカのシンハラ語を記したページがあった。読んだ当時は何を書いたものなのだろうと思っていたが、今は分かる。あのページには、眞野さんの歌の歌詞を書き、理解しようとしていた、ウィシュマさんの意志が刻まれていたのだ。
名古屋入管へ抗議に訪れた日、眞野さんは階段の踊り場の隅で、ブルーのシャツを着た女性職員たちが、肩を抱き合いながら泣いているのを見かけたという。ウィシュマさんのことを思ってなのかは分からない。けれども、収容者を人間扱いしない入管の体制は、現場の職員にも時に、非人間的であることを求めるものではないだろうか。それが、彼女たちをも苦しめてはいないだろうか。
2022年3月4日、ウィシュマさんの母のスリヤラタさん、次女のワヨミさん、三女のポールニマさんは、国に損害賠償を求め提訴した。ウィシュマさんの居室の監視カメラ映像は、裁判を通して全面開示される見通しではあるものの、訴訟の過程は時間を要する。検証なくして再発防止策は立てられない。国と入管が真摯に命と向き合い、本気で繰り返さないための仕組みを作るというのであれば、自発的な証拠の開示と、収容のあり方の根本的な見直しが欠かせないのではないだろうか。
(写真・文 安田菜津紀)
あなたのルーツを教えて下さい
左右社
1,980円 (税込)【2022年2月15日刊行】
安田菜津紀による、多様なバックグラウンドの人々へのインタビューの他、入管収容問題、ヘイトスピーチの問題、さらには自身のルーツについて綴った一冊。書籍詳細はこちら
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スリランカ出身のウィシュマさんが名古屋入管で亡くなってから、1年——Dialogue for Peopleではこの問題に関する取材を続けながら、ひとりの人間の命を奪った構造と問題点についてこれからも考え、発信していきます。
▶関連動画:【取材報告】スリランカ『生きた軌跡をたどって』-なぜウィシュマさんの命は奪われたのか _Voice of People_Vol.11 [2021/10/29]
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