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エッセイ

2022.7.5

【エッセイ】子どもを産まないことは“不完全”なのか

安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

安田 菜津紀Natsuki Yasuda

佐藤 慧 Kei Sato

佐藤 慧Kei Sato

田中 えり Eri Tanaka

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安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

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佐藤 慧 Kei Sato

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田中 えり Eri Tanaka

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安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

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佐藤 慧 Kei Sato

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田中 えり Eri Tanaka

田中 えりEri Tanaka

2022.7.5

エッセイ #政治・社会 #女性・ジェンダー #安田菜津紀

「こういう時、お子さんのことは旦那さんが見てるの?」

最近になって度々、仕事先でそんな言葉をかけられることがある。たいていは私を気遣う文脈で出てくる言葉で、相手に全く悪気はない。ないからこそ、返答の言葉選びに一瞬、迷ってしまう。

この言葉に触れる度に抱く、ふたつの違和感がある。ひとつは「これくらいの年の女性には子どもがいて当たり前」という前提があること。もうひとつは「基本は女性が子どもを見る」という価値観と表裏一体だということだ。

男性に対して、「今日はお子さんを、奥さんが見ているの?」と声をかける場面は、この日本社会の中で非常に限られているはずだ。

夫と結婚して、もうすぐ11年という月日が経つ。《 「お子さんいらっしゃるんですよね?」への戸惑い 》にも書いたように、私には子どもがいない。ところがなぜか、「お子さんいらっしゃるんですよね?」と尋ねられることが続いていた。最初はその理由が、よく分からなかった。

あるとき知人が教えてくれた、私について書かれた「まとめサイト」を見て、はたと気づいた。そこには、友人の息子さんを真ん中に、私たち夫婦と並んで撮った写真が転載されており、「どうやら5歳くらいの子どもがいるらしい」とコメントが添えられていたのだ。

私たち夫婦は国内外を取材で飛び回っている。そのうえ、私の体は排卵がうまくできず、薬に頼ることもあった。生理が来る度に、「ああ、また“ダメ”だった」と、何とも言えない無力感がこみ上げた。「お子さんいるのよね」と聞かれる度に、心の奥に押し込めたはずの「なんとも言えない無力感」が心の表面まで浮かび上がり、お腹の奥がきりきりと痛む感覚に襲われた。でも、あの時の私は、曖昧に笑い、やり過ごしてしまうこともあった。

ある時、一組の夫婦を追ったドキュメンタリー番組を見る機会があった。初老のそのご夫婦には、子どもがいなかった。それを特別視するでもなく、ごく自然に、ひとつの家族の形として、声を伝える番組だった。見終えたとき、不思議と自分が肯定された気持ちになっていた。

私は夫に、些細であっても不安なこと、心配なことを話している。でも、もしかすると、「大きすぎる身近な不安」は、無意識に語ることを避けていたかもしれない。自分が傷つきたくなかったからだ。

その番組を見た後、夫に思い切って尋ねてみた。

「今、子ども、欲しいと思ってる?」

夫は穏やかにこう答えた。

「2人でいる時間が、心地いいと思ってる」

「本当に?」と何度も聞き返してしまった。不安だったからだ。変わらない答えを聞いて、心を覆っていた錆のようなものが、ほろほろとほぐれていくような、不思議な気持ちになり、そして、全身の力が抜けるほどほっとした感覚を抱いた。

私は以前、エッセイに、「いつかは子どもがほしいと思っている」と綴った。この一文を綴った後、心に小さなひっかかりが残った。けれども「本当に?」と自分自身にもう一度、問いかけることをしなかった。やはり、恐かったのだと思う。

けれども夫と話し、やっと、自分の感情の輪郭がはっきりと見えた。

私は子どもが欲しいと思っていない。私も、夫婦ふたりの家族が心地よいと思っている。けれども「子どもがいて当たり前」の暗示は、自分が思っていたより心の奥深くまでしみ込んでいた。

時折顔を合わせる取材先の人には、会うたび「仕事ばっかりしてないで、作るもの作れ」と言われてきた。「子どもができた後、どんな写真を撮るのか見たいな。きっと変わるよ」「子どもを産んでこそ大人よ」と言われ、自分の未熟さを恥ずかしいとさえ思っていた。「孫の顔を見せて、苦労したお母さんを喜ばせてあげなよ」と言われ、母の喜ぶ顔は見たいと素直に思っていた。

あまりに重なると、いつしかその言葉は呪いになってしまう。「私はきっと、一人前ではない、親不孝な、“不完全な”女性なんだ」とさえ思ったこともあった。

でも私は、意思あるひとりの人間だ。大好きな仕事を続けることも、子どもを産まないという選択をすることも、私自身が決めていいことのはずだ。子どもに対して、大人の未熟さを克服させてくれる存在として、あるいは祖母になる人を喜ばせる存在として、最初から期待をかけることも違う、と思う。

「お子さんのことは旦那さんが見てるの?」と問われたとき、何年か前の私であれば、とっさに言葉が出ず、あやふやな返しをしてしまっていたかもしれない。今は強張りもせず、“後ろめたそう”にすることもなく、自然と、一言だけ返答している。

「私に子どもはいません」
 

                 

夫と話し、自分でも驚くほど肩の荷が下りたような感覚になり、しばらくが経ってからのこと。大阪地裁で「結婚の自由をすべての人に」訴訟の判決が言い渡された。同性同士などの婚姻を認めていない民法や戸籍法の規定が、憲法に反するかについて、大阪地裁は「憲法違反ではない」と判断した。

国側のいう婚姻制度の目的は「一人の男性と一人の女性が子どもを産み、育てながら共同生活を送る関係に法的保護を与えること」であり、だから同性婚は該当しない、としていた。そして判決も、それを踏襲するような内容になっていた。

大前提として、特定の誰かのみ、婚姻の選択肢が法律上奪われている状態は、あまりに理不尽であり、一刻も早い法改正が必要であるはずだ。

そして、この国側の主張は、ほかにも問題をはらんでいる。「婚姻の目的=生殖」であるかのような主張を、国側が堂々と行っている暴力性だ。本来、とても繊細であるはずの人の「生殖」について、支配的な国家が、どんな非人道的なことをしてきたのかは歴史が再三示しているはずだ。私たちは「生産性」のために生きているのではない。人権は「生産性」の対価として与えられるものではない。

このロジックからすると、私たちのように婚姻関係にあっても子どものいない夫婦はどうなるのだろうか。「本来の婚姻の目的には合致していないけれど、制度の利用は“認めてあげる”」という扱いなのだろうか。

私は子どもを産むこと自体を否定したいのではない。経済的な理由で、あるいはそれ以外の事情で、なかなか子どもが産めない、でも産みたいと願う人たちに対し、もっと手厚い公的支援があってしかるべきだと思う。社会の側の支えが不十分であるにも関わらず、少子化がまるで女性たちや若い世代の責任であるかのように語るのは、筋違いだ。

そして、国家が市民に対し、子どもを産まないことで“不完全”であるかのような扱いをすることに、抗いたいと思っている。

この選挙期間中も、ぞっとするような発言が立候補者や政党関係者から相次いだ。

自由民主党から立候補している井上義行氏は出陣式で、「今まで2,000年培った家族の形が、だんだんと他の外国からの勢力によって変えられようとしているんです」「同性愛とか色んなことでどんどん可哀想だと言って、じゃあ家族ができないで、家庭ができないで、子どもたちは本当に日本に本当に引き継いでいけるんですか」と発言している。

性的マイノリティに対する差別という意味でも、すでに子育てをしている同性カップルもいるということに対する無知という意味でも、何重にも問題ではあるが、国側の「婚姻の目的=生殖」であるかのような主張は、こういった発言を平然とする候補者、議員に下支えされたものなのだと改めて思う。

NHK党の立花孝志党首は、出演したテレビ番組内で「質の悪い子どもを増やしては駄目。将来納税してくれる優秀な子どもをたくさん増やしていくことが国力の低下を防ぐ」「(第一子を出産すれば一千万円支給するので)女性に、いったん仕事を休んで出産、育児に専念してもらう」と語った。

なぜ、育児のために休むのが女性でなければならないのだろうか。増やしてはならないのはこうした発言を平然とする「質の悪い政治家」ではないのだろうか。この言葉は結局、人間のことを経済を回すための「駒」としか見ていないし、女性のことを子どもを産み育てる「機械」としか見ていないものだと思う。

この短期間だけでも、尊厳をざくざくと削るような言葉が溢れていることに危機感を抱く。

子どもを産まない=“不完全”であるかのように人を扱う政治家たちの共通点は、婚姻や出産、子育てを、個々の人間の人権として見るのではなく、最初から「国益」という大きな文脈でしかとらえていない点にある。

自民党・二階氏は「子どもを産まない」ことを「勝手な考え」と言い放ったが、私は自分の体を「国益」のために差し出した覚えはない。今後も差し出すつもりなどない。その意思を込め、ひとりの人間として、私はこの週末、投票に臨む。

(2022.7.6/写真・文 安田菜津紀)


 

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