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2019.11.9

対話による未来の創造― Dialogue for People設立にあたって(2)

安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

安田 菜津紀Natsuki Yasuda

佐藤 慧 Kei Sato

佐藤 慧Kei Sato

2019.11.9

Report #Sato

2019年10月からNPO法人として新たにスタートを切ったDialogue for People。2回に分けて、代表理事の佐藤より、設立の背景やかける想いを綴らせていただきます。前編では、目指していきたい報道の形についてお話させていただきました。世界各地で取材を続ける中で、この考えに至った背景とは- それでは後編をご覧ください。
(前編はこちらから)


「対話」による問題解決

そんなことを考えるようになったのは、僕が高校生の時にニュースで目撃した、「アメリカ同時多発テロ」がきっかけでした。2001年9月11日、夜のニュースを見ていたら、高層ビルに飛行機が激突したという映像が流れていました。大変な事故が起こったものだなと思っていたところに、二機目の飛行機が突入、その後ビルは無残にも崩れ落ちました。この映像は、今でも強く脳裏に焼き付けられています。20世紀は「戦争の世紀」と呼ばれました。世界中で覇権を争う闘争が繰り広げられ、数えきれないほどの命が犠牲となりました。21世紀が幕を開け、その「新世紀」という言葉には、たくさんの希望が詰まっているように感じたものです。ところが、その始まりの年に起きた恐ろしい事件は、「戦争」というものが、世紀を跨いだところで雲散霧消するものでは決してないのだということを突きつけました。

当時の写真がワールドトレードセンター跡地の博物館に飾られている。(アメリカ)

当時の僕が恐怖を感じたのは、そのテロ事件の凶暴性だけではありませんでした。テロを行った人間が、自らも命を失う「自爆攻撃」をしかけたということ、そして、そういった人々が「テロリスト」と呼ばれ、まるで僕たちとはまったく違った「悪魔」のような存在であると報道されていたことです。画面いっぱいに映し出された実行犯の写真を見ると、彼らも僕らと変わらない人間の顔をしているように思えます。彼らだって、生まれたときは無垢な赤ん坊だったはずです。だとしたら、いったい何が彼らを「テロリスト」に変えてしまったのか。もしそれが、生まれた環境や、生後に経験する様々な出来事だったとするのならば、その責任は、果たして彼らだけのものなのでしょうか。

少し歴史をひも解くと、彼らが生まれ育った中東地域では、僕が知らなかっただけで、ずっと争いが続いていたということに気づきます。世界の覇権をかけた大国の代理戦争で、たくさんの市民が苦しい生活を強いられ、命を落としていたのです。もし僕がその土地に生まれていたらどうだったでしょうか。もし僕の目の前で、愛する人がそんな争いの犠牲となったとしたら、どうだったでしょうか。僕はその武器を、争いを持ち込んだ誰かを憎んでしまったかもしれません。復讐したいと思ってしまったかもしれません。もちろん、どれだけそんなことを考えたところで、テロ行為を肯定することはできません。しかし彼らは決して「悪魔」などではなく、人や故郷を愛することのできる同じ「人間」だからこそ、その大切なものが破壊されたときに、憎悪という業火に身を捧げてしまうのかもしれない…。そんなことを考えるうちに、争いに代わる他の手段を確立しない限り、人類は戦争を克服することなどできないのではないかと思うようになりました。

彼女は「家族を守るため」に銃を手に取ったという。(シリア)

「正義」という言葉は、どちらか一方から見たモノゴトの側面に過ぎません。その反対側から自分たちを眺めてみたとき、そこにはどんな顔が浮かんでいるでしょうか。もし互いの正義を振りかざす人々が衝突したとき、命を奪い合う前に、「対話」を行うことができたらどうでしょうか。相手がなぜ憎むのか。何を失い、何を恐れ、何を欲しているのか。殺し合う以外の方法は本当に存在しないのか。本当に自分は正しいのか。殺し、殺された暁に得られるのは、本当に自分の求めているものなのか。その相手と友となり、共に生きていくということは、不可能なことなのか。

「対話」の前提となるものは、相手の声に耳を澄ますということだと思います。それは物理的に言葉を聴くということ以前に、「相手のことを理解したい」と、自らの心を開くことです。その人が何を大切にし、何を恐れ、何に幸福を感じるのか。その人にとって、生きるということはどんなことなのか。死とは、どんなことなのか。家族や友人、何気ない日常というものが、どれだけ大切なものなのか。そういった、その人を形作る世界観に、そっと手を触れてみることです。自分のモノサシで相手を測らず、理解しようと努めることです。他者を完全に理解することはできないかもしれません。それでも、「相手のことを理解したい」と手を伸ばすことは、傷つけあう以外の可能性にも光を当てることにならないでしょうか。

知らないものに触れるということは、怖いことかもしれません。自分の信じてきた世界観が、揺さぶられてしまうかもしれない。心を開いた無防備な自分が、傷つけられてしまうかもしれない。でも、未知と出会うということは、それ以上に希望の源泉ともなるものです。自分だけでは解決できない問題に、ヒントを与えてくれるかもしれません。今まで知らなかった世界の美しさを、見せてくれるかもしれません。

モンゴルとロシアの国境を隔てる川。国という境界線は人間が引いたものに過ぎない。(モンゴル)

僕たち人間はみな、同じ本質を持ちながらも、ひとりとして同じ経験をするものは存在しません。他者の声に耳を澄まし、共に語らい考えることは、自分ひとりでは決して成し得ない、豊かな未来を描いてくれます。「戦争は世界の必要悪だ」。本当にそうでしょうか?「世界は全人類が共存できるほど豊かではない」。どんな豊かさを目指せば共に生きられるのでしょうか?自分の見ている世界だけで未来を規定せず、あらゆる人々の経験、学びを尊重することで、まだ見ぬ希望を見つけることができるはずです。『Dialogue for People』は、そんなひとりひとりの、命の温もりのある言葉や経験を伝え、共に考え行動することで、ひとつでも多くの世界の可能性を、未来へと繋げるために活動していきます。

ひとりひとりの中に無限の可能性の種子がある。(ヨルダン)

(2019.11.6/写真・文 佐藤慧)


 

本記事をはじめ、世界各地での取材活動は皆様のご寄付によって成り立っております。世界の「無関心」を「関心」に変える、伝える活動へのご支援・ご協力をよろしくお願いいたします。

2019.11.9

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