【イベントレポート】東北オンラインスタディツアー2023 ~東日本大震災の教訓を学び、これからの災害に備えよう~(2023.3.4)
全国の高校生らがDialogue for Peopleフォトジャーナリスト安田菜津紀とともに、東日本大震災の被災地の現状や課題について学ぶ「東北スタディツアー」。2014年から毎年東北に足を運んできましたが、新型コロナウイルス禍となった2021年からはオンラインで継続してきました。2023年は高校生や大学生ら38人がオンラインで全国各地から参加しました。
第1部は「東北とオンラインでつながろう」と題し、岩手、宮城、福島3県からの語り部の方々が「東北の今」を伝えました。第2部では、参加者同士が小グループに分かれ、第1部の感想などを自由に話しました。2011年のあの日から丸12年を迎えるのを前に、参加者たちは震災の記憶と教訓を受け取り、「自分ごと」に引き寄せ、日頃からできる備えについて考えました。
冒頭、安田は2023年2月に発生したトルコ・シリアの大地震のニュースに触れ、「こうした災害はどこか遠く離れた、私たちとは違う出来事ということではなく、誰の身にも、いつ起きてもおかしくない出来事」と話しました。続けて「だからこそ、そのいざという時に備えて、私たちは日頃何を学んで何を備えて、具体的にどんな行動を積み重ねていけばいいのか、現地の方々の声とともに皆さんと一緒に考えていければと思います」と呼びかけました。
■岩手県陸前高田市 佐藤一男さん・るなさん
最初にお話ししてくださったのは、岩手県陸前高田市の佐藤一男さんと次女るなさんです。
佐藤一男さん
1965年岩手県陸前高田市出身。高校卒業後、山形県米沢市で就職。27歳で陸前高田市にUターン。2011年3月、東日本大震災で自宅、漁船、作業場を失う。避難所運営役員となる。同年5月、仮設住宅自治会長、10月、桜ライン311設立。2014年、防災士取得。認定NPO桜ライン311勤務。陸前高田市消防団本部副本部長。高田松原を守る会理事。佐藤るなさん
2004年岩手県陸前高田市出身。佐藤一男さんの次女、現在18歳。「当時の体験や今について、自分の目線だから伝えられることを伝えられたらいいなと思っています。よろしくお願いします」。
避難所運営での工夫
一男さんは被災後、避難所に身を寄せ、その運営にも携わりました。避難所でのニーズは、日を追うごとに変化していったと振り返ります。1日目は水や食料、毛布で「何とかなる」、2日目はルールが必要になる、3日目は温かい食事が欲しくなる、4日目はプライバシーが欲しくなる、5日目は健康維持が問題となる――。
避難所運営に関しては、役員の中で約束事を決めました。その中の一つが「持ち物による強弱を作らない」ことでした。例えば、携帯電話の充電器です。充電器を持っていない人が持っている人に頭を下げて借りる場合、避難所の中で「強弱」が生まれてしまいます。それを防ごうと充電器は役員で集め、全員で平等に使用できるように管理したそうです。
また、「避難所にたくさんの支援物資をいただいた」と感謝を述べた上で、「少なくて困った支援物資」についても話しました。食材は届いても、調味料がなかなか十分な量が届かなかったそうです。加えて、毛布はあってもまくらがなく、結果、肩凝りや頭痛を訴える人が出てきたと言います。
一男さんが避難所運営のポイントの一つとして挙げたのは「明日の最善より今日の次善」。
「明日になったらもっと良い考えが浮かぶかもしれないけれど、問題は今のうちに片付けようということを心がけました」。さらに、限りある物資で生活するため、「目の前にあるものを有効活用する」ことも大切と言います。具体例として、紙皿にサランラップを敷いてから使うと、お皿を汚さず限りある水を消費せずに済むと紹介しました。
野菜苗が教えてくれる住民の健康状態
その後、一男さん家族は避難所から仮設住宅に移りました。
ある日、一男さんは母親に「どうしたらみんなが外に出てくるかな」と尋ねました。すると、母親は「畑でもあればねぇ」。そこからヒントを得て、それぞれの家に野菜苗を配りました。すると、苗に水やりをするために住人が朝と晩、家の外に出てくるようになりました。「そして、苗がしおれていれば、(その家の人は)体調が悪いんだと野菜苗が教えてくれる」。住人の健康状態の把握や安否確認に繋がりました。
仮設住宅では孤立・引きこもり対策としてお茶会を開いていました。当時、支援金、住宅再建、仮設住宅改修などたくさんの情報が行政から届き、震災後の約1年間は「厚さ1センチ以上のお知らせが毎週届いた」と言います。お茶会の後に雑談時間を作ることで、「再来週までにあの申請しないといけないんだってね」などと、参加者同士で自然とそういった情報が共有されていきました。
助けられるのは生き残った命だけ
次に一男さんが参加者たちに見せてくださったのは、陸前高田市内にある過去の津波襲来を伝える石碑の写真です。「地震があったら高台へ」といった教訓が刻まれています。
「こんな大切なメッセージが残っているのに、私たちは生かしきれませんでした。過去の教訓を生かしてください。災害発生時、消防や自衛隊が助けることができる命は生き残った命だけです。今日の話を聞いていたから生き延びた、誰かを助けることができたという人がいてくれたなら震災犠牲者の最大の供養になると思います」。力を込めて、私たちにそう語ってくださいました。
続いて、一男さんの次女るなさんが震災当時を振り返りました。
るなさんは、この東北オンラインスタディツアーの数日前に高校の卒業式を迎えたばかり。震災当時は保育園の年長でした。2011年3月11日午後2時46分、保育園でお昼寝をしているときに揺れが起きました。震災の翌月に小学校に入学し、その後、自分の通う小学校の校庭に建てられた仮設住宅で生活しました。
日頃の備えについて、るなさんは「これだけは最低限持って逃げようっていう準備、そういう備えが必要なのかなって思います」と、災害時に必要になるものを普段からまとめておくことの大切さを伝えてくれました。
復興は「被災地に笑顔が増えること」
「いろんな形があると思うけれど、被災地に笑顔が増えることなんじゃないかなって思ってます」
安田から「復興って何だろうって聞かれたらどういうふうに答えますか」と質問を受けた るなさんは、こう答えました。隣にいる一男さんも「うん、うん」と頷きます。「建物が直ったり、暮らしが良くなったとしても、結局人がいなきゃそれは復興したのかと言ったらどうだろう?って思う。そこに人が戻ってきて、やっぱりここがいいってなるのが復興なんじゃないかなって思います」。
最後に、同世代へ向けて「知ることも防災の一歩。まずは知ることが大事だと思います」とメッセージを送りました。
■宮城県石巻市 佐藤敏郎さん
佐藤敏郎さん
1963年宮城県石巻市出身。元中学校教諭。震災で当時石巻市立大川小学校6年生の次女が犠牲に。現在は震災伝承やラジオなど幅広く活動。共著「16歳の語り部」(2016ポプラ社)は児童福祉文化賞推薦作品に選ばれた。小さな命の意味を考える会代表、NPOカタリバアドバイザー、(一社)スマートサプライビジョン理事。
「みなさん、ようこそ大川小学校へ」
宮城県石巻市の佐藤敏郎さんが、そう言って画面越しに私たちを迎えてくださいました。
12年前、石巻市立大川小学校は津波にのまれ、児童・教職員計84人もの方々が犠牲になりました。佐藤さんの次女みずほさんは、当時大川小6年生でした。あの日、みずほさんは中学校の制服に袖を通し、家族にその姿を見せるはずでした。「残念ながらうちの娘は、中学校の制服を着ることはできませんでした」。
校庭、中庭、教室、体育館…。佐藤さんは、震災前の子どもたちの様子を写した写真を手にしながら、校内を案内してくださいました。写真の中で、子どもたちは楽しそうに走り回っていました。
海から3.7キロの位置にある大川小学校。津波は2階の天井まで到達しました。校舎から体育館に繋がる連絡通路はなぎ倒され、津波の威力を静かに伝えています。
この場所から「未来を拓く」
震災当時、佐藤さんは石巻市の隣、女川町で中学校の教員をしていました。地震の後、知らせを受け、3月14日の朝に大川小学校に着きました。そこで目にしたのは、橋のたもとで泥だらけのランドセルが山積みになっている光景でした。「ランドセルの前には、子どもたちがずらっと並べられていました。何十人も、ブルーシートを被せられて。もう忘れられません。忘れてはいけないのだと思います」
次に画面に映ったのは、野外ステージの壁面にある「未来を拓く」という言葉です。これは大川小学校の校歌のタイトルだそうです。あの日を経て、佐藤さんにとってこの言葉は「暗闇に差し込んだ小さな光」になったと言います。佐藤さんは、悲しい出来事があったこの場所から「伝える」活動を続けることで、未来を拓こうとしています。
命を救うのは山に登るという「行動」
地震発生の午後2時46分から51分後の午後3時37分、子どもたちは津波に襲われました。
学校のすぐ近くには、子どもたちがシイタケ栽培などで日頃から慣れ親しんだ山がありました。「校庭から1分でここに来れます。とても緩やかな山です」。佐藤さんは山の中を進み、津波到達点の白い目印がある場所まであっという間に登りました。「ここまで登れば助かります」、「ここまで来れば助かっています」。そう繰り返します。
震災当時、「山に逃げよう」と言ったり、実際に山に向かって走ろうとした子もいたそうです。ですが、まずは校庭に並ぶことになったそうです。
「救ってほしかった命、それは救えた命です。でも、私は教員だから言うわけじゃないですが、子どもを救いたくない先生はいません。あの日だって、必死に救おうとしたはずです」
佐藤さんは続けて「命を救うのは山ではなく、山に登るという行動です」と強調しました。私たちが防災のために備えていること、訓練していることも、いざという時に実際の行動に結びつかなければ、命を守ることにはつながらないと実感を込めて話します。
大川小学校は2021年7月、震災遺構として公開されました。ですが佐藤さんは、説明板など展示内容について「まだまだ不十分だと言われている」と明かします。学校を管理する石巻市と連携を取り「何を伝え、どう残していくか」について対話を重ねていきたいと考えています。
「あれだけ泣いてあんなに失って、それでようやく分かりました。これは、泣かなくたって気づくことでなければだめです。私は体験してしまいました。後悔してしまいました。だから伝えていけたら、何かの材料に、きっかけにしてくれたらいいなと思っています」
大川小学校に関する説明やガイドはこちらからご覧いただけます。
http://311chiisanainochi.org/?page_id=6186
■福島県富岡町 秋元菜々美さん
秋元菜々美さん
1998年、福島県双葉郡富岡町生まれ。富岡町役場職員。いわき総合高校で演劇を学び、専門学校在学中に、双葉郡の内陸に位置する葛尾村の一般社団法人で村内ツアーの企画・運営を経験。現在は、自身の経験をもとに富岡町や双葉郡各地を語りめぐるオリジナルツアーを行っている。活動を通して出逢った俳優2人との繋がりから、富岡町に文化拠点を運営中。
最後にお話ししてくださったのは、福島県富岡町の秋元菜々美さんです。
富岡町は、事故が起きた東京電力福島第一原発が立地する双葉、大熊両町の南側に位置し、福島第二原発の立地地域でもあります。
原発と共にあった日常
「田園の奥に原子力発電所の排気筒が見える風景が、町のどこからでも見える」
秋元さんはそう言って、1枚の写真を見せてくれました。緑豊かな田んぼや山の向こうに立つのは、原発の排気筒です。
富岡町には新福島変電所もあります。そこへ第一、第二原発で作られた電気が集められ、首都圏へと送られていました。「エネルギーというものとすごく縁深い地域でもあります」と秋元さんは説明しました。
東日本大震災と原発事故が発生した2011年3月、秋元さんは中学生でした。
事故前の故郷での記憶や事故後の経験を綴った文章をゆっくりと私たちに朗読してくれました。
秋元さんが幼稚園の頃、近所に「りっちゃん」が引っ越してきました。りっちゃんの家の端にはコンポストが置いてありました。私たちの体内には無数の菌があり、それは空気や土にも含まれること、りっちゃんのお父さんが目に見えない微生物のことを教えくれました。地面の土を掘ると、そこには草や虫、プラスチック片やガラス片がありました。地中を覗いたことで、以前よりもその場所に対する愛着が湧いたと言います。
「またね」―次に会えたのは半年後
りっちゃんと公園で遊んでいた時、地震が発生しました。通っていた中学校へ向かい、日が暮れた頃、家族が迎えに来ました。「またね」と別れた次の日、3月12日の早朝、町は人が住めない場所となりました。りっちゃんと再会できたのは、半年が経ってからでした。
「放射性物質は風で流れ、雨によって地面落下し、水と共に流れ滞留し、土に吸着する。残された家畜やペットには餓死するものも野生化するものもいた。避難指示の前には見られなかったキツネやタヌキ、イノシシなども山からおりて住宅地に出没するようになった。やがて動物たちは食料を探して民家に入り、手入れのされない草木は民家を覆い尽くす。それら草木を動物が食べ、この動物の死骸を食べにまた動物がやってくる。この場所に住まう者たちの時間は、人間が不在の間も流れ続けていた」
秋元さんの自宅は、2016年ごろまでは「掃除すれば一応住める」くらいでしたが、その後雨漏りで木は腐り、いつしかハクビシンが住むようになりました。
2017年12月12日、秋元さんは自宅の解体作業を見つめていました。リビングの柱に印した身長の記録、畳にこぼしたコーヒーのシミ、柱に残っているシール――。「砕かれた家の柱や壁のほか、家に残されたぬいぐるみやアルバムや服など、家主が置いていた物たちは特定廃棄物になり、次々に運搬されていく」。
土壌の除染作業では、表面の土が剥ぎ取られていきます。「汚染土壌である表土5センチメートルには避難者約16万4千人の過ごした時間だけでなく、この場所に生きたものたちの長い時間が圧縮されている」。秋元さんは、事故前にりっちゃんの家の近くで見つけた草や虫、目に見えない微生物の存在にも思いを巡らせます。
「復興」と街の景色の移ろい
朗読を終えた秋元さんに、安田が「街の移ろいをどう捉えていらっしゃいますか」と尋ねました。事故後、人が長く住めなかった家屋が解体され、更地になり、新しい建物が出来上がり、街の景色は変化していく――。それは「復興」という言葉で一括りにしていいものなのでしょうか。
「復興という言葉は結構難しい言葉」と、秋元さんは率直な思いを口にしました。沖縄や広島に足を運び、「戦後復興」という言葉の下、新しく作られた都心を見た経験から「復興という言葉自体、もともとプラスなものではないのかもしれない」と最近思い始めたと言います。
富岡町に戻る人、避難先での生活を続ける人、人によって状況はさまざまです。「その人が幸せに暮らしてくれていたら、それでいいんじゃないか、『帰らないからあなたはだめだ』ということではなくて、避難先にいても幸せに暮らしていれば、その人にとってのケアは十分にされているってことなのかもしれないし」。秋元さんはそう話し、「でも」と言葉を続けます。「富岡とも関わりを持ち続けたいと思っているのであれば、そこの部分を補充してあげないと、つながりがどんどん切れていって、この地域が先細りしていってしまう」。地域との関わりをどう維持するか、難しい課題に触れました。
「復興」という言葉を考える
講演を聞き終えた参加者たちは、5人ほどのグループに分かれ、講演内容で印象に残ったことや、各自が実践している、またはこれから実践したい防災について話しました。
講演に対する感想では、復興という言葉の捉え方について、意見が多く寄せられました。
「復興ってすごく幅のある言葉だなと実感した。人によって全然異なる意味を持っていて、被災してない人が考える復興と、実際に被災した方々が考える復興は、また全然違った意味を持ってるんだろうなと思った」
「復興について別の視点があることに気付かされて、学びになった。復興していく上で、何か全部を新しくするんじゃなくて、被災した方が帰りたいと思えるような場所にする、そういう復興を学んだ」
他には「想像力を持って初めて話を聞くことができた」という声もありました。「被災地」と呼ばれる地域で、そこに住む方々はどのように毎日を過ごし、生きてきたのか。この日のお話から思いを馳せることができたようです。
日頃からの備えについても、参加者たちは積極的に話していました。例えば、防災グッズを置く場所。地震など災害が起きた際でも取りやすい場所に置く、家の中で1カ所だけでなく複数箇所に置く―などのアイデアが出ました。
最後に、この日、佐藤敏郎さんの撮影を担当した清水葉月さん(福島県浪江町出身)は「参加者の皆さんのお話を聞いて、今日の話をすごく『自分ごと』にしていると感じた。それってすごく難しいこと。でもそれがこれからの社会を作っていくのにすごく大事なことだと思う」と温かい言葉をくださいました。
東日本大震災の発生から1年、また1年と年を重ねるごとに、その記憶は遠い過去のものとなるかもしれません。ですが、参加者たちは、講演してくださった方々の体験や思いを確実に受け取り、そこから「自分ごと」として何をすべきか、考え始めました。そうした一人ひとりの気づきや行動が、悲しみを繰り返さない未来に繋がると信じています。
▼ 東北オンラインスタディツアー2023 参加者レポート
▼【LIVEアーカイブ】東北オンラインスタディツアー2023
主催:認定NPO法人Dialogue for People
協賛:オリンパス株式会社
協力:OMデジタルソリューションズ株式会社
(2023.4.7/文 田中えり)
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