For a better world, beyond any borders.境界線を越えた、平和な世界を目指して

Top>News>「原子力発電の安全性を問う」――50年前の福島・双葉高校生からのメッセージ

News

取材レポート

2023.10.6

「原子力発電の安全性を問う」――50年前の福島・双葉高校生からのメッセージ

安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

安田 菜津紀Natsuki Yasuda

佐藤 慧 Kei Sato

佐藤 慧Kei Sato

田中 えり Eri Tanaka

田中 えりEri Tanaka

安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

安田 菜津紀Natsuki Yasuda

佐藤 慧 Kei Sato

佐藤 慧Kei Sato

田中 えり Eri Tanaka

田中 えりEri Tanaka

2023.10.6

取材レポート #田中えり #東北

今から50年前の1973年、東京電力福島第一原発が立地する福島県双葉町にある県立双葉高校(双高)新聞部が、「原子力発電の安全性」について特集した学校新聞を制作していた。当時は第一原発の建設が進み、すでに1号機の運転が開始されていたが、原発設置への賛否を尋ねた地域住民への意識調査では反対が62%と賛成28%を大きく上回っていた。それから38年後の2011年、第一原発は過酷事故を起こした。当時の高校生は何を考えてこの新聞を制作し、原発事故を経験した今、何を思うのだろうか。

双葉高校創立50周年に合わせて制作された「双高新聞」のコピー

 

生まれ育った地域で進んだ原発誘致

《断言できない安全性》《放射能障害は皆無か》《環境破壊の不安》――。

昭和48(1973)年11月17日の日付が印字された「双高新聞」3面、《原子力発電の安全性を問う》と題した特集紙面には、原発への問題提起の文言が並ぶ。

「当時の高校生として、『どういう状況なんだろう』という感覚で制作した。第二原発の話もあって、それから東北電力の話も出てきて用地の買収交渉が始まっていた」

こう振り返るのは、50年前、双葉高校2年生だった横山裕三さん=浪江町出身。新聞部員でこの特集紙面づくりの中心的なメンバーだった。「東北電力の話」というのは、1968年に計画が公表された「浪江・小高原発」を指す。双葉町の北隣に位置する浪江町にある棚塩と小高町(現・南相馬市)浦尻という地区で原発誘致が進んでいた。その棚塩が、横山さんが生まれ育った地域だった。

「浪江・小高原発」については福島第一原発事故後の2013年3月、計画取り止めが決まった。
https://www.tohoku-epco.co.jp/pastnews/atom/1184225_1065.html

 


 

当時、双葉高校新聞部は年3回ほど学校新聞「双高(ふたこう)新聞」を発行。1枚表裏の2ページで学校行事や部活動の成績などを掲載していた。原発に関する特集は、双葉高校創立50周年記念式典に合わせて制作された4ページの新聞のうちの1ページ。1面は創立50周年に合わせた校長や同窓会長、PTA会長の挨拶を掲載。2面は創立から50年の歴史を振り返る内容。3面は丸々1ページに原発特集が載り、4面ではこの年に甲子園初出場を果たした硬式野球部など、部活動の全国大会や県大会での活躍を紹介している。

横山さんは紙面のコピーに目をやりながら「学校生活に直接関わらない、原発の話を取り上げるというのは当時としては異質だったかもしれない」と振り返った。

特集紙面のコピーを読む横山さん。

原発特集のページ。第一原発の写真が右上に配置された以外はびっしりと文字で埋まっている。

特集の記事中、地域への原発誘致に対する地元の空気感が伝わってくる記述があった。

《(略)地元の表情は、原発がどういうものであるかは知らないが、地域開発に役立つという地方自治体および東電側の説明をうのみにしているという感じが強かった。
 しかし、四十六年頃から、原発問題が次第にクローズアップされ地元でも今までの楽観的態度が、同時に複雑化してきた。そして今年一年間を顧みてみると、反対派が原発建設阻止同盟を相継いで結成し、活発な運動を進めてきた。また、賛成派も「明日の双葉を開く会」を結成し、活発な運動を推し進めている》

 

住民の6割が原発設置に「反対」

特集の内容は大きくわけて二つ。地域住民への意識調査と、「安全性」に関する専門家へのインタビューで構成されている。

意識調査では、双葉町、大熊町など周辺地域の約200世帯にアンケートし、87%の回収率を得たと記されている。1つ目の設問「原発設置について賛成・反対?」では「賛成」28%、「反対」62%、「わからない」10%だった。浪江・小高原発の計画が進んでいた浪江町棚塩と小高町浦尻では《百パーセントの反対率を占めていた》。


 

「62%…」

50年前、双葉高校新聞部1年生だった官林祐治さん=双葉町出身=が、紙面の小さな文字に顔を近づけながら、数字を読み上げた。「今改めて見て、反対意見が多いことに驚いた」と話す。

地域住民への意識調査の結果を報じる記事。


 

官林さんは、横山さんと一緒にこの特集を担当。2年生だった横山さんが主に取材・執筆を、官林さんと他2名の1年生は紙面に載せる広告集めを行ったという。

「私は漠然と、原発建設には消極的だった。しかし『原発ができれば出稼ぎしなくても済む』というロジックに有効な反論を立てられず、押し切られていたように思う」

原発ができる前――官林さんが幼い頃、農閑期に男性たちが東京へ出稼ぎに行くのが「あまりに日常的だった」。田植えや稲刈りなど農繁期にだけ帰ってくるというケースも耳にしたという。

その後、原発誘致・建設が進むにつれ、学校には東電関係者の子どもなど転校生が増えた。原発の交付金がおりて新しく町の体育館ができたこと、その開所式に東電の「偉い人」が出席していたことも官林さんは覚えている。この双高新聞1面でも、《東京電力会社の多額な寄付》などにより学校にテニスコートが新設されたということが載っていた。

「原発のおかげで、というか、原発があって(町が)変わっていった」と官林さんは地元の変化について語る。

「なぜあの時もっと原発に反対しなかったのか、という思いはあるけれど、出稼ぎをしなくて済む、と。結果的に私は実家を失って、住んでいた人もばらばらになった。原発を誘致した当時(の人々)を責めることはできない。誰にぶつけるわけにもいかない」

高校生時代を思い起こす官林さん。


 

特集の中で言及されなかったこと

特集では、原子力発電の「安全性」に関する議論として、事故とその対策、平常運転時の環境への影響、放射性廃棄物とその処理、原子炉の寿命と処分など幅広い論点でまとめられている。

横山さんは「崇高な理念を持ってこの新聞をやったわけじゃない。種明かしをすると、当時の資料やパンフレットを繋ぎ合わせて書いたんだと思う」と述べる。その上で「だからこそ、この特集で触れられていないことは、当時論点になっていなかった、想定されていなかったということ」と指摘した。

特集で触れられていなかったこと――それがまさに2011年3月11日に起きた。

午後2時46分、福島第一原発がまたがる双葉町、大熊町を震度6強の大地震が襲った。1〜6号機のうち、運転中だった1〜3号機は揺れによって原子炉が緊急停止。その後、高さ約15メートルもの津波が到達し、最終的に、原子炉の重大事故であるメルトダウン(炉心融解)が起きた。1986年のチェルノブイリ原発事故以来、世界最悪レベルの事故となった。

「地震によって起こされる二次的被害が想定されていなかった」。横山さんがそう振り返る通り、特集には、原子炉に何重にも施された安全装置に関する記述はあっても、「地震」や「津波」という言葉は一切登場しない。

原発特集の記事。


 

「騒ぎを起こすな」――式典で配布されなかった新聞

《本日盛大に記念式典》。この特集が載った「双高新聞」の1面にはこう書かれている。横山さんも、官林さんも、この新聞は創立記念式典で配られたと思う、と記憶していたが、実際はそうではなかった。

「双高新聞」1面。《本日盛大に記念式典》と見出しに書かれている。


 

「これは生徒たちにも言っていなかったことだが、実を言うと……」

当時、新聞部顧問を務めていた元高校教員の斉藤六郎さん=双葉町出身=が50年前の記憶をたどり、ある事実を明かしてくれた。

式典の当日、新聞の配布をやめろ、と双高同窓会の有力者が学校側に申し入れをしたという。「『50周年のめでたい式に騒ぎを起こすな』と。(新聞の)中身を見もしないで。私一人の力ではどうにもならず、引き下がった」。

結局、新聞は式典で配らず、後日生徒にだけ配布したという。

「せっかく生徒が真剣に取り組んだ新聞だったのに…」。新聞制作において斉藤さんは、賛成または反対という一方的な記事の書き方をしてはいけないと生徒たちに指導していた。「新聞は今読んでも問題ないでしょう?」と問いかける。

 

今に続く「問題を先送りにする構図」

原発事故による福島県からの避難者はピーク時の2012年5月に16万人を超えた。県によると、2023年5月時点では避難者は約2万7千人だが、新たに家を再建した人や復興公営住宅に入居した人などはこの数字に含まれず、実際の避難者数を把握することは難しい。

平成23年東北地方太平洋沖地震による被害状況即報 (第1792報)

 

約7千人が暮らしていた双葉町は原発事故後、全町避難となり、住民が再び住めるようになったのは2022年8月のことだ。だが今も町の多くの地域は原則立ち入り禁止の「帰還困難区域」のままとなっている。

双葉高校はいわき市内の学校を間借りして授業を続けるなどした後、2017年3月いっぱいで休校に。そして今年、休校のまま創立100周年を迎えた。

「問題を先送りにする構図は今も変わっていない」。改めて特集を読み返した横山さんはそう感じている。

核のごみの最終処分の問題は現在まで結論が出ていない。さらに原発事故に伴って発生した「指定廃棄物」の最終処分場も見通しは立っていない。福島第一原発の廃炉についても、政府や東電は事故から40年後の2051年までの「完了」を目標に掲げるが、施設を解体するのかなど「完了」の姿を明確には示していない。

《(略)近い将来原子力による新たな問題に直面するのは、私たちの年代なのである。これは現代の日本における種々の公害問題のその原因をみれば明らかであろう。
 東京電力、東北電力両社による双葉地方への原子力発電所建設が私たちに何をもたらすのか、私たちは正しく判断していかなければならない》

特集は最後、こう締めくくられていた。

問題を先送りにし、次の世代に負担を強いる構図は、現在も続いている。

福島に建てられた原発は結果として事故を起こし、周辺地域の《私たち》のみならず、日本全体、そして世界へ、深刻な被害を与えた。そして、これからもその影響が続いてくことは明白だ。

《私たちは正しく判断していかなければならない》という言葉は、今を生きる私たちにも向けられているのではないだろうか。

 

 

 

(2023.10.6 / 写真・文 田中えり)

 

あわせて読みたい

娘が眠るこの地を慰霊の場に――福島県大熊町、遺骨の語るメッセージ[2023.5.18/佐藤慧]

80歳を過ぎて語り始めた被爆体験――福島へ手渡したい思いとは[2022.11.24/安田菜津紀

解体の痛みと、遺していくという選択肢――「ケア」のある復興を(福島県富岡町)[2022.2.24/佐藤慧]

『はだしのゲン』削除から考える平和教育――軍拡・安全保障教育にしないために(高橋博子さんインタビュー)[2023.3.23]

D4Pの活動は皆様からのご寄付に支えられています

認定NPO法人Dialogue for Peopleの取材・発信活動は、みなさまからのご寄付に支えられています。ご支援・ご協力、どうぞよろしくお願いいたします。

Dialogue for Peopleは「認定NPO法人」です。ご寄付は税控除の対象となります。例えば個人の方なら確定申告で、最大で寄付額の約50%が戻ってきます。


認定NPO法人Dialogue for Peopleのメールマガジンに登録しませんか?
新着コンテンツやイベント情報、メルマガ限定の取材ルポなどをお届けしています。

こちらのお名前宛でメールをお送りします。

@d4p.world ドメインからのメールを受け取れるようフィルタの設定をご確認ください。



 

\公式LINEにもご登録ください!/

LINEでも、新着コンテンツやイベント情報をまとめて発信しています。

公式LINEのお友達登録はこちら
友だち追加

 

2023.10.6

取材レポート #田中えり #東北