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2020.7.2

「おばあさんからもらったこの命、ありがとう」 白梅学徒隊だった中山きくさんが、次世代に手渡す言葉

安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

安田 菜津紀Natsuki Yasuda

佐藤 慧 Kei Sato

佐藤 慧Kei Sato

安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

安田 菜津紀Natsuki Yasuda

佐藤 慧 Kei Sato

佐藤 慧Kei Sato

2020.7.2

Interview #Yasuda #Okinawa

 
火の海となった那覇、それでも受けると決めた看護教育

夕暮れの雨がさやさやと木々の葉を揺らす、沖縄県那覇市、松山公園。ここには手を取り合う二人の女性と、何かを真っすぐに見据える女性の像が佇んでいる。「白梅の乙女たち」と呼ばれるその像は、かつてここに沖縄県立第二高等女学校の学び舎があったことを静かに伝えてくれている。1944年10月10日、「10・10空襲」で那覇が火の海となり、真新しかった女学校の木造の校舎は土台だけ残して焼け落ちてしまった。
 

松山公園に立つ「白梅の乙女たち」(2020年3月撮影)

「下宿先も焼けてしまい、佐敷村(現南城市)に帰ってきた私を、家族は抱きかかえて泣きました。“もうどこにも行くな”とね」。そう語る中山きくさん(91)は当時、第二高等女学校の4年生だった。苛烈な空襲からわずか4カ月あまり、散り散りになっていた女学校の生徒たちの元に、「軍の看護教育を受けるように」との通達が届く。もちろん、きくさんの元にもだ。「どこにも行くな」という家族の願いよりも当時は、「お国のために」という自身の使命感が勝ってしまった。こうして1945年3月、沖縄県立第二高等女学校の生徒たちで学徒隊が編成される。学校の校章が白梅だったことから、彼女たちは戦後、「白梅学徒隊」と呼ばれるようになった。
 

当時の経験を語る中山きくさん(2019年10月撮影)

 
「相手の国の兵士が犠牲になる」を想像もしなかった

戦争の足音は、きくさんが子どもの頃からすでに身近に迫っていた。きくさんが小学校3年生の時に日中戦争が始まり、新聞は勝ち戦の話一色となっていった。学校で「万歳」をしては、家に帰って「私は日本の子どもでよかった」と話す毎日だったという。「日中戦争では日本に砲弾一つ降りませんでしたよね。だから私たちはまだ、戦争がどんなものなのか目の当たりにしたことがなかったんです」。近所のお兄さんたちが兵士となり、「出征兵士を送る会」で見送られる姿が、「かっこよくて羨ましかった」というきくさん。「私の父は病気ばかりで、兵隊さんにもなれない、それがもどかしいとさえ思っていました」。

きくさんが第二高等女学校に進学した1941年12月4日に、日本軍が真珠湾で米軍に攻撃を仕かけた。その時は、相手の国の兵士が犠牲になる、ということに気が向くことは全くなかった。頭にあるのは「敵をやっつける」ことだけ、ただひたすら「万歳」を繰り返した。命は国に捧げるものだと信じて疑わなかった。
 
 
凄惨な野戦病院、放り出された過酷な戦場

そして1945年3月、「お国のために働ける」と親の反対を押し切って参加した軍の厳しい看護教育は、わずか18日間で打ち切られた。海からの激しい米軍の艦砲射撃が始まり、白梅学徒隊は現在の八重瀬町にある八重瀬岳の野戦病院壕に動員された。看護の知識もほとんど身につかないまま、傷病兵の手当、食事や排せつの世話など、あらゆることをこなさなければならない過酷な日々に放り込まれたのだ。「私が育った村には、車と言えばお医者さんが使っているたった1台を見かけるくらい。交通事故でケガをした人さえ見たことがなかったのに、いきなり戦争の重傷者たちが次々と担ぎ込まれてくるんです。最初はまともに見ることもできませんでした」。
 

きくさんたちが動員された陸軍第24師団第一野戦病院壕跡に建てられた碑(2020年3月撮影)

麻酔もないに等しい状態で、兵士の手足を軍医が切断する。その手足を外に捨てに行くのも命がけだった。ガーゼや包帯なども尽き、使いまわしても傷口からはうじがわき続ける。横になって眠った記憶はほとんどない。手術中、疲労と眠気でろうそくを持ったままふらふらとしそうになる度、軍医に蹴とばされた。

5月末、首里に置かれていた日本軍の司令部が米軍の猛攻を受け陥落する。そして6月4日、きくさんたちは突然の「解散命令」とともに戦場に放り出されてしまう。南へ南へと逃避するも、どのガマや壕もすでに満杯だった。逃げ惑う周囲の人々が米軍の砲撃で次々と犠牲になる中、きくさんは親友のちよさんと共にさまよい続け、7月初旬に米軍の捕虜となった。この逃避中に多くの学徒が犠牲となり、白梅学徒隊56人(※)のうち、22人の命が奪われていった。
 

陸軍第24師団第一野戦病院壕跡(2020年3月撮影)

 
生きる力をくれた子どもたち

「敵国の捕虜になってしまった」という恥ずかしさと、友人たちを失った悲しみから、きくさんはしばらく、眠れない夜を過ごしていた。そんな最中に、収容所にできた小学校で教えてほしい、という声がかかる。当時、教壇に立てる教員はほとんど残っていなかったため、せめて中等女学校を卒業した学生を、ときくさんにも知らせが届いたのだ。「私が女学校2年生の頃には、すでに軍人の出た家の農作業の手伝いや、軍事基地作りなどに駆り出され、殆ど勉強などできない状況だったのに」と、最初は断り続けていた。当時、家々や農地、暮らしのすべてが破壊しつくされ、残された女性とお年寄りで村々を再建していくほかなかった。せめて子どもたちを見守ってくれればいい、そうすれば大人たちも心置きなく仕事ができるから…そんな声に押され、きくさんは小学校にあがるかあがらないかの小さな子どもたちの面倒を見るようになった。

黒板も教科書もない「青空教室」で、「名前を書いてごらん」と、木切れで地面に文字を書いた。「当時は生きているのも辛かったのだけれど、子どもたちから生きる力をもらったのはこの時です。あれだけ持てるものが何もない時代に、子どもたちは明るく、それだけで気持ちが和やかになったんです」。教師になろうと思ったのも、この時だった。その後、教員を養成する「文教学校」に通い、夏休み期間中にも「現職教育」として研修を受け、現場に立ちながら教員としての資格を取得した。こうして子どもたちに向き合いながらも、自身が学徒であったことも、戦争体験を語ることもできなかった。「思い出すだけで、悲しくて悲しくて。全ての亡くなった友人たちの顔が思い返されるんです」。
 

解散後、後退した野戦病院に16人の学徒が再び合流。「上の壕」(食糧弾薬倉庫)と「下の壕」(傷病兵の看護場所)で、負傷兵の手当てなどにあたった。6月21日に下の壕が、翌22日に上の壕が米軍の激しい攻撃を受けた。下の壕の側に、白梅之塔(現在の糸満市真栄里)が建てられている。

沖縄慰霊の日が公休となってから、白梅之塔に自身の子どもを連れて行くようになった。するとそこで、亡くなった生徒の母親が、「何歳なの?」「名前は?」と、自分の子どもの顔をのぞきこんで話しかけてくる。たまらなかった。「もしも自分の娘が生きていたら」という彼女たちの想いが、母親となったきくさんには痛いほど伝わってきた。
 
 
長崎、広島の原爆体験に触れて

転機となったのは1972年、沖縄が「本土復帰」し、沖縄の公務員にも本土への転勤が言い渡されるようになった。国家公務員であった夫の転勤で、きくさんは広島と長崎で暮らすこととなる。原爆体験を語り継ぐ人々との交流を通し、伝えることの意味をひしひしと感じるようになった。何十年にも渡り、一人凄惨な記憶を背負い続けてきたきくさんは、沖縄に戻ると亡くなった友人たちの生きた証を残すための活動をはじめる。

「私は沖縄戦の話だけでは、平和学習にならないと思っています。なぜ私が戦争に進んで参加したのか、そこには“お国のために”という教育があったんです」

看護教育を受けると決めた時、きくさんは戦地に送られてもかまわないと思っていた。「友人の百合ちゃんは、お兄さんの戦死の知らせが前の月に届いたばかりだったんです。お母さんは“お前まで戦死したら、私は生きていない”、つまり百合ちゃんまで亡くなったら、自ら命を絶つとまで言っていたんです」。止める家族の声よりも、勝ってしまった“愛国心”。教育の力は時に恐ろしいことを、きくさんは身をもって知っていた。だからこそ大戦に「負けた」ことは自虐的だからと、戦争の記述を教科書から削っていくような動きには危機感を抱く。「人間は過去を知らなければ、必ず過ちを犯す」と、文科省や教科書会社、執筆者たちの元をまわった。たとえ教科書に学徒隊の記述があったとしても、ひめゆり学徒隊のみであることも少なくなかった。「せめて全ての女学校で学徒隊が編成されていたと記してほしい」と訴える。
 

解散後、再び合流した学徒たちが傷病兵の看護にあたった「下の壕」

 
次世代に託す「命どぅ宝」の想い

「語り継ぐ」という意味で、特に私の心に残ったのはお孫さんのお話だった。「孫の結婚式のとき、普通は最後、両親に花束贈呈、となりますよね。ところが突然、“おばあちゃん”と私が呼ばれたんです。そして花束と共に、私への手紙を読んでくれたんですよ。“小さい頃は沖縄戦のことをよく分かっていなかったけれど、あれだけの状況をおばあちゃんが生き抜いていなければ、僕はここにいなかったし、こうして結婚式をあげることもできなかった。おばあちゃんからもらったこの命、ありがとう”って」ときくさんは目を細めます。「“命どぅ宝”(ぬちどぅたから)、命こそ宝だ、という言葉を使うようになったのは、この時からでした」。

そのお孫さんは長女の息子さんだった。思えば長女の家族は、大阪にいながらも毎年帰ってきては、「白梅の塔に行こう」と進んで仲間たちを悼んでくれた。今はこのお孫さんも、2人の子どもの父親になっている。
 
 

 
 
白梅学徒隊だった女性たちも高齢となり、年を追うごとに戦争体験者は少なくなっていく。きくさんたちは、語り継ぐ活動を若い世代に託そうとしている。「若梅会」と名付けられたその会には、根気強く沖縄戦を学んできた、様々な職種の次世代メンバーが集っている。こうして今、お孫さんにも、きくさんが出会ってきた若い世代にも、確かにバトンが受け継がれようとしている。

(インタビュー聞き手:安田菜津紀/2020年6月)

 
 
(※)白梅学徒隊56人
厳しい看護教育の現場で、体調不良などの理由から10人が帰り、残ったのは46名だった。ただ、少しでも看護教育を受けた人たちも白梅学徒の一員だとしてきくさんは「56名」としている。

 
 


 
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