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取材レポート

2020.8.8

変わりゆく街並みの中で、伝えていきたい教訓 ~第2回 大熊未来塾レポート~

安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

安田 菜津紀Natsuki Yasuda

佐藤 慧 Kei Sato

佐藤 慧Kei Sato

田中 えり Eri Tanaka

田中 えりEri Tanaka

安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

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佐藤 慧 Kei Sato

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田中 えり Eri Tanaka

田中 えりEri Tanaka

2020.8.8

取材レポート #災害・防災 #東北

福島県大熊町、東京電力福島第一原子力発電所から3kmの地点に住んでいた木村紀夫さんがこの春からオンラインで実施されている「大熊未来塾 ~もうひとつの福島再生を考える~」。6月14日に行われた第2回目の配信では、大熊市立熊町小学校、熊川地区公民館、栽培漁業センターの3カ所を巡りながら、「防災」について考えました。

木村さんの自宅から福島第一原発までは約3km、熊町小学校までは歩いて約30分だ。(提供画像)

木村さんとの出会い

2011年3月11日、小学校4年生だった私は、東京で大きな揺れを体感し、東北の映像をニュースで目にして大きな衝撃を受けました。日々のニュースを見ながら、自分にできることはないのだろうかと考えるようになりました。2016年、第3回「安田菜津紀と行く東北スタディツアー」に参加し、はじめて被災地域を訪れる機会をいただきました。東北スタディツアーでは、メディアを通して見えていた「東北」とは違う一面とも出会うことができました。お話を聞かせていただいた方々が抱える想いを受け取り、「聞いたことや目にしたことを他の人に伝えること」と「防災の知識を身につけること」は私にもできるのではないかと思い、現在もその二点を意識しています。

2019年10月、大学のサークル活動で、東京電力福島第一原子力発電所がある福島県大熊町を初めて訪れました。お世話になっている方から、木村さんのことを教えていただき、木村さんの長女と自分の年齢が同じだったこともあり、ぜひお話を伺ってみたいと思いました。2020年2月、木村さんからゆっくりお話を伺う機会を頂きました。印象的だったのは、「東京電力が事故を起こしたことの影響はとても大きいと思います。でも果たして、悪いのは原発だけなのでしょうか?それを許してきた我々にも責任があると思います。電気を使って生きてきて、でっかい声で『原発反対』と叫ぶのはうしろめたい」とお話されていたことです。原発に賛成か、反対かの議論は、福島第一原発事故後、様々な形で議論されてきましたが、「電気を使っていた利用者としての責任」という観点を木村さんから教えていただきました。

新型コロナウイルスの感染拡大により、実際に大熊に通うことは難しい状況です。しかし、オンラインで自分がまだ行ったことのない場所を訪れ、その場所のストーリーを聞くことができる「大熊未来塾」では、物理的な距離は離れていても、心の距離を近づけることはできるのではないかという新たな可能性を感じています。
 
 
記憶と思い出が詰まった熊町小学校

地震発生当時、小学1年生だった木村さんの次女・汐凪さんは、熊町小学校での授業を終え、小学校の向かい側の熊町児童館で遊んでいました。一方、木村さんの父・王太郎(わたろう)さんは、いつも通り同小学校に通う長女を車で迎えにいきましたが、海側の自宅に残してきた木村さんの母のことが心配になり、長女を校庭に残したまま、自宅に引き返すことにしたようです。その車に、次女の汐凪さんも乗り込み、そのまま行方不明となりました。

大熊市立熊町小学校の震災当時の在校生は300~350人ほどだった。建物も校庭も、木村さんが在学していた約40年前とほぼ同じだ。(提供画像)

汐凪さんが約1年間の小学校生活を過ごした熊町小学校は、環境省の中間貯蔵施設の建設予定地内にあります。同じ福島県内の浪江町立請戸小学校は、震災遺構としての保存が検討されていますが、熊町小学校の保存については決まっていません。

配信中、木村さんは熊町小が子どもたちと共に歩んできた日々を象徴するもののひとつとして、校庭の南側にある大きなスズカケの木(プラタナス)に呑み込まれた「ハシゴ」を紹介してくださいました。このハシゴは、木村さん世代より後の子どもたちが、壊れた“うんてい”の一部を「ハシゴ」の様に立てかけておいたものが、時がたつにつれて、スズカケの木に呑み込まれていったものだということです。

5mほどのハシゴを呑み込んだ木の上でほほ笑む木村さん。(撮影:佐藤慧)

たとえ、時計が止まり、子どもたちの笑い声が今響くことはないとしても、校庭の木々や、教室には、歴代の熊町小学校の在校生が過ごしてきた時間と思い出が詰まっているのではないでしょうか。汐凪さんが過ごした教室も当時のままです。汐凪さんの机の上には、毎朝付箋をつけながら学習した辞書と、大好きな『こびとづかん』が今も置かれています。

汐凪さんの机は中央奥。青い表紙の「こびとづかん」が置いてある。(撮影:佐藤慧)

「引き渡さない」という選択肢はなかったのか

汐凪さんのケースは、「災害時、大人たちは、子どもたちの安全をどう守るか?」ということにも関わっています。発災時に、学校の監督下にあった子どもたちは、保護者が迎えに来た場合、教員から保護者へと引き渡されることがほとんどです。

当時、熊町小学校では、引き渡しの準備が整っていなかったようだということが、震災後明らかになりました。一方で、汐凪さんがいた児童館では、引き渡しが始まっていたそうです。結果として、引き渡されず、小学校に残った長女は津波を免れましたが、引き渡された汐凪さんは津波に飲み込まれて、行方不明となりました。「引き渡されるかどうか」という紙一重の差で、その結果は大きく異なるものとなってしまったのです。

汐凪さんは、発災時、熊町児童館にいた。(撮影:佐藤慧)

木村さんは「経験したことのない地震の中で、学校や児童館側も臨機応変に対応するのは難しかっただろう。この時、ああしておけばよかったねという後悔がどうしても残ってしまう。ひとりでも災害時に命がなくならないようにできるように、“引き渡さない”という選択はなかったのかという点から、様々な場所でこの話をしてきました」と語ってくださいました。しかし、実情は厳しい面もあるようです。長野県内のある小学校で引き渡し訓練が行われた際、汐凪さんのようなケースは想定されていませんでした。そこで木村さんが「引き渡さない」という選択肢を加えてもらえないかと尋ねると、防災アドバイザーからは「難しいと思います」と回答されたそうです。木村さんはその時、それ以上は聞かなかったそうなので、防災アドバイザーの「難しい」という回答の本当の意味は分かりません。

確かに、生徒一人一人の家の状況までの把握は難しく、帰宅させずに預かっておくことは教員や学校側の負担が大きくなってしまいます。ただ、汐凪さんという一人の女の子のケースを考えた時、「これから向かわれる場所は、ここよりも安全ですか?津波が来ているという情報もありますが、大丈夫ですか?」という声掛けがあったら、海側の自宅に戻るという判断や汐凪さんが同乗するという結果が変わったのではないかと思わずにはいられませんでした。

木村さん自身も、津波に対する危機意識が薄かったことを、東日本大震災を受けて痛感したとおっしゃっていました。震災当時の木村さんには、津波の知識も経験も全くありませんでしたが、危機意識をもって汐凪さんに津波のことを伝えていればという後悔は消えないそうです。

学校防災は多くの場合、マニュアルに基づいて行われます。マニュアル内に、「引き渡しをしない」という選択肢を加えることは難しくても、防災について考える際に、汐凪さんのケースを、ひとつの学ぶべきエピソードとして共有することで、人々の記憶に残していくことはできるのではないかと感じました。

ハザードマップは万能ではない~熊川区公民館の事例から

発災時のリスクを回避するには、日ごろからの防災意識だけではなく、「想定」にとらわれずに、より安全な場所はどこかを考えて避難することも重要だと、配信中のお話を通して感じました。役場の人が、避難所に指定されていた熊川区公民館に避難するよう、人々に声掛けをしたそうです。ハザードマップ上では、海抜6mの高さにある熊川区公民館は安全だと考えられていましたが、実際は海岸沿いの松原を越えて津波が入ってきて、公民館まで到達したそうです。

熊川区公民館の様子。近所の人の「逃げろ!」という声掛けで、軽トラの荷台に避難していた一部の人々は乗ったが、発車の勢いで振り落とされた人や、木につかまったことで助かった人もいる。(撮影:佐藤慧)

熊川区公民館のある地区では、津波による犠牲者は出なかったそうです。自分が避難する際に近所の人にも避難を呼びかける「声掛け避難」の意義を感じました。

一方、木村さんの母は、発災当時にいた海のそばにある自宅より海抜が低い熊川区公民館(海抜6m)への避難ではなく、近所の人の車に乗って、山の中にある道を避難しました。役場の人が言っているから、安全なのだろうという思い込みをせず、どこが安全かをご自身で判断されたのでしょう。

このお話を木村さんから伺った後、配信の補佐を務めるDialogue for Peopleフォトジャーナリストの安田菜津紀が述べた言葉が印象に残っています。「“運がよかったね”で終わらせるのではなく、知識や意識があれば違う行動をとれる可能性がありますよね」という言葉です。

地域によって、「どのような災害のリスクが高いか?」は異なります。ハザードマップは自分の住む地域における災害リスクを把握するのに有効です。でも、ハザードマップで想定されている規模以上の災害は起こらないだろうと過信するのではなく、発災時には「より安全な場所」へ避難するという意識が大切なのではないでしょうか。そのためにも、「犠牲者が出ていないからよかったね」で終わらせるのではなく、未だ検証がされていない熊川区公民館の事例を検証することによって、今後の防災に活かすための一つの材料となるのではないかと感じました。

栽培漁業センター

震災前の大熊町の栽培漁業センターでは、ヒラメ、ウニ、アワビ、アユなどが養殖されていました。海抜6mほどの高さに位置する栽培漁業センターでは、津波による犠牲者が出ました。未だ行方不明の方も1名いらっしゃいます。

栽培漁業センターでは、大きなプールの中にたくさんの魚が養殖されていた。犠牲になったのは、人だけではなく、ここで養殖されていた魚たちもだ。津波は、命を奪うだけではなく、生活を営むための資源も奪っていった。(撮影:佐藤慧)

中間貯蔵施設の建設と変わりゆく街並み

原発事故以降、除染に伴い、放射性物質を含む除去土壌や除染廃棄物等が大量に発生しています。それらは、フレコンバックという袋に詰めて、ダンプカーにのせられ、中間貯蔵施設まで運ばれます。最終処分するまでの間、それらを安全に集中的に管理・保管する施設として、中間貯蔵施設が必要です。

大熊町の中間貯蔵施設(撮影:佐藤慧)

中間貯蔵施設建設予定地には、木村さんのご自宅など、誰かにとって大切な思い出がたくさん詰まった場所や、熊町小学校、寺社仏閣などの、地域の歴史や人々の記憶と結びついた場所も多く含まれます。後日行われた木村さんと参加者の意見交換会では、「震災遺構」について考えました。大熊出身で、熊町小学校に行きたいと思い続けているという若者が、「急に離されちゃった。卒業式とかもなく、急になくなっちゃったような感じがしている。だから、ちゃんと見たい、見直したい」と胸の内を話していました。また、大熊町の隣町、富岡町出身の若者は「街の景色が変わっても帰れる場所が必要、だから小中学校が遺構として残るのはすごくいいことだなと思う。離れて暮らしている同級生が、成人式で戻ってきて、小中学校の前を通っただけで思い出す。帰る気なかったけど、内定を取り消してまで帰ってこようと思った子が実際いた。現場の空気感が伝わる場所としての学校は、特定の誰かではなく誰にとっても“ふるさと”なのかなと思う。町民以外の人にとっても“ふるさと”と重なる場所としての遺構となれば、“じぶんごと”として捉えられるといういい面があるのではないか」と語りました。

大熊町の建物を「震災遺構」として残すには、現実には、除染や維持費など様々な課題が存在します。しかし、大熊町にある、震災と原発の影響が今も残る建物を残すことには価値があると、今回の配信を通して感じました。“熊町小学校”は、大熊町民にとって街の風景が変わっても“帰る”場所であり、大熊町民以外にも大熊で起きたことを知ってもらうことができる貴重な場となるのではないでしょうか。

また、福島県というと、どうしても津波よりも原発のイメージが先行してしまう方もいると思います。だからこそ、大熊町でも津波による被害があったことを伝える熊川区公民館や、栽培漁業センターを残すことにも意味があるのではないでしょうか。

大熊町出身でもなく、発災時にその場にいたわけではない私には、「自分の実体験」として東日本大震災を伝えることはできないでしょう。それでも、大熊町で起こった出来事を教訓として、大熊町に行ったことがない方に伝え、当事者意識を持って「じぶんごと」として考え続けることは私にもできます。足を運ぶことが出来なくても、思いを馳せることはできるという大切なことを、今回の配信を通して学びました。次、いつ大熊に行って、木村さんの畑をお手伝いできるようになるかは分からないけれど、「大熊を知ること」はオンラインでもできるので、続けていきたいと思います。

(文 Dialogue for People インターン 塚原千智、 校正 佐藤慧 / 2020年8月8日)

 

塚原千智(つかはら・ちさと)
Dialogue for peopleインターン。2016年、安田菜津紀と行く東北スタディツアーに参加。以後、東北に数回足を運び、現在は大学のサークル活動の一環で、大熊町での聞き書き活動も行う。


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