福島県大熊町から中継を繋ぎ、様々な世代の参加者が集まって大熊町の未来について考える「大熊未来塾」。8月9日、主催の木村紀夫さんと大熊町の歴史をよく知る鎌田清衛(かまた・きよえ)さんの対談形式で、3回目の配信が行われました。
鎌田清衛さんは、震災前は、和梨と洋梨の専業農家をされていました。平成8年(1996年)、「大熊ふるさと塾」を立ち上げ、史跡や山を歩きながら、大熊町の魅力と歴史を探訪する活動に取り組んできました。私も個人的に鎌田さんにお話を伺ったことがあるのですが、震災前の大熊町で梨が生産されるようになった理由や、「おおくま」という地名に「大熊」という漢字が用いられるようになった時期など、大熊町にまつわる様々な物語をご存じの方です。
今回の配信では、鎌田さんの解説を交えながら、助宗明神やお地蔵さん、海津見(わだつみ)神社など、大熊の歴史とのかかわりが深い地域を巡りました。その後、大熊町に伝わる「物語」をどのように次の世代につないでいくかについて、鎌田さんと木村さんが対談されました。
大熊に伝わる「助宗明神物語」
おそらく元禄(*1)か、その後のお話。新妻助宗という人が、現在の大熊町にあたる地域でため池づくりの総責任者を務めていました。この場所には、元々川は流れておらず、里山に降った水をできるだけ多く貯めるために、2つのため池が作られました。サイフォン式で繋がれた2つのため池の水面は、常に一定であるという特徴があります。このため池のおかげで、現在の小良浜(*2)のあたりでは水田を作ることができるほどの水が確保できるようになったと考えられています。このため池の水は、北側の大地を流れて水田地帯を潤し、残った水が太平洋へと流れる構造になっていました。
ため池を作った後、藩の役人(ギンミャク)が来て、ため池の利用中止を命じます。旧正月の15日、新妻助宗は、その責任を取って切腹しました。夏場に水田用の水を確保できるようになった地元住民らは、彼に感謝し、彼をまつった祠を作りました。それが「助宗明神」です。また、それ以来、彼が切腹した日を「供養の日」と決めて、地元住民らは赤飯を焚き、助宗の霊を慰めるようになったそうです。
*1:西暦では1688~1704年。約300年以上前から大熊町に伝わる物語。
*2:福島県双葉郡大熊町の地名
「震災前、ため池の水は日常的に使われていましたよ。そこにいろんな魚がいて、釣り人もよく来ていました」と、鎌田さんが震災前の助宗のため池の様子を語ってくださいました。震災前の「助宗明神」の周辺は、手入れがなされていましたが、現在は草の生い茂る竹林の中にポツンとある状態です。木村さんは、助宗明神の物語について「学校で習った気がするんです。でも、震災前は全く興味がなかったので、記憶はおぼろげです。家から2kmほどの場所にあるのに、訪れたことはありませんでした。助宗明神は、昔の人の“想い”でできた場所じゃないですか。そうやってこの地区で大事にされてきたものが、震災を機に、簡単に忘れられていくのが非常に切ないですよね。自分事として考えると、うちの娘のことも、最終的に忘れられちゃうのかな…」と残念そうに言葉を紡がれていました。
※木村さんの娘さん、汐凪さんについては下記記事をご参照ください。
地域に伝わる「物語」を、どのように後世へ残し、“想い”を繋いでいくのか。その物語に登場する人物を知る人や、その出来事があった時代に生きる人であれば、そこに込められた想いを共有することはそんなに難しいことではないかもしれません。しかし、遠く離れた場所や、見知らぬ人の物語に込められた想いを共有し、それを繋いでいくことは、簡単なことではありません。だからこそ、「ただ伝える」だけではなく、「なぜ」その物語を後世に伝えていく必要があるのかという点についても、相手の心に訴えていくことが必要なのではないかと感じました。
拾われてきたお地蔵さん
明治時代、大河原地区(*3)から熊川地区へ嫁いできたとある奥さんが、毎晩、見る夢がありました。夢の中のお地蔵さんが「助けてくれ。引き上げてくれ」と訴えてくるのです。夫婦は、何日間かかけてお地蔵さんを探し回りました。すると、自宅から3~4km上流の地点で、川に引っかかっているお地蔵さんを発見しました。夫婦はそのお地蔵さんを川から引き上げ、熊川の四つ辻に祀って、地域の人々と共に大切にしました。毎年、桜の花の頃になると、祭りを開くようになりました。夫婦の子孫は、代々お地蔵さんを守り続けてきました。このお地蔵さんの特徴は、服装が現代風であることです。ジャンパーを着るなど、明るい雰囲気のお地蔵さんです。しかし、震災以降、個人的にお地蔵さんのお世話をする方がいなくなり、現在はぽつんと立っています。
*3:福島県双葉郡大熊町の地名。現在は、大熊町役場が置かれている。
この物語を鎌田さんがお話してくださった後、配信の補佐を務めるDialogue for Peopleフォトジャーナリストの佐藤慧が述べた言葉にハッとさせられました。「大熊を訪れてみて、道沿いにお地蔵さんがあったり、鳥居があったり、日常の中で見落としてしまいがちなものがたくさんあるのだなということに気づかされました。きっと僕自身の故郷にもいろいろあったのではないかと思います。地域に伝わる物語がないはずはないのに、なぜ振り返ってこなかったのかということを改めて考えさせられました」。
私も、自分自身の住む町や祖父母が住む町について、ふと考えてみました。神社にある石像について、小学校で少しだけ習ったけれど、その物語を鮮明に思い出せるわけではありません。道端のお地蔵さんに、小さい頃からなんとなく手を合わせていたけれど、そのお地蔵さんにも何かの物語があったのかもしれません。日々の生活を送る中で、昔からそこにあるものの意味や、そこに隠された物語について、思いを馳せたことは少なかったということに気づかされました。時には、街中にあるものに隠された歴史について深く考えてみるという散歩の仕方があってもいいのかもしれません。
鎌田さんが執筆した『残しておきたい大熊のはなし』には、30以上の「物語」が掲載されています。未だ町内の一部への立ち入りが制限、禁止されている大熊町において、土地に伝わる物語をどのように後世へ伝えていくかは、今後向き合わなければならない大きな課題の一つと言えるでしょう。まもなく震災から10年を迎える今、福島第一原発をどうするかなどの物理的な課題だけでなく、地域の物語や祭りをどう伝承していくかという文化面・精神面の課題にも、私たちは向き合わなければいけないのではないでしょうか。
大熊の「未来」はどこに
今回の配信の途中で、復興公園の建設予定地を車窓から眺めることができました。ここは、帰還困難区域には指定されていますが、中間貯蔵施設建設予定地には指定されていないエリアだそうです。復興公園を作るということは決まっていますが、主導する大熊町からの具体的な使途についての説明などはまだないとのことです。木村さんは「他に対応すべき事柄が多く、復興公園の使途や計画の詳細まで手が回らないのではないでしょうか。自分としては、『祈りをささげる場』になればいいなと勝手に思っています」と話しました。
原発と自噴井戸~自然の恵みと便利な暮らし~
明治時代から昭和20年頃、自噴する地下水を生活用水にするために、上総堀りという方法を用いて、人工的に深さ100mほどの掘り抜き井戸が作られました。しかし、原発が作られて以降、地下水も多く取水されるようになり、自噴しなくなっていました。原子力発電所や夫沢地区の工業団地が建設されたことで、それ以前よりも多くの水が必要になったのが、水が自噴しなくなった要因だと考えられます。しかし、原発が停止された今、水脈が復活し、地下水が再び自噴するようになりました。現在は毎分15Lほどの水が湧き出ているそうです。
「企業が入ってきて、働くところが見つかって、生活が豊かになっていく一方で、井戸水は水道の普及によって必要なくなってくるわけじゃないですか。自然の恵みがあるのに、お金を払って水を買わなくてはいけない状況になっているというのは、少し残念に思います」と、木村さんが寂しそうに語ります。この言葉を聞いて私は、自然からもたらされる恵みと、私たちの暮らしの便利さについて考えました。私のこれまでの生活を考えると、蛇口をひねれば必ず水が出てきますし、トイレや洗濯機も、自動的に水が供給されるものを使ってきました。でも、その「便利さ」は当たり前のものではなくて、時代や住む地域が異なれば、きれいな水がなかなか手に入らなかったり、上下水道が整備されていなかったりする暮らしをしている人もいるのだということに、改めて気づかされました。井戸水が水道水に劣るわけではありません。ただ、「蛇口から必ず水道水が出てくる」という便利な環境に慣れすぎてしまうと、「水」という自然の恵みのありがたさを、見落としがちになってしまうのではないかと感じました。
海津見神社の今後と防潮堤
海岸沿いには、海の神様をまつった海津見神社がありました。この場所は、県が作る予定の防潮堤が建設される予定です。現時点で、今後海津見神社が別の場所に移転されるのかどうかといった処置は、決まっていないといいます。
東日本大震災以降、東北地方の太平洋沿岸では、街を守るための防潮堤が作られたり、再建されたりしています。コンクリートの寿命は、海岸部等の悪条件下では50年程度と言われています。
(参照:国土交通省コラム)
防潮堤は人工物である以上、いつかは壊れたりもろくなったりするものです。防潮堤があるから「安心」と思わずに、東日本大震災の教訓を「物語化」して人々の記憶に残し、1人1人が防災意識を高め続けることが大切なのではないでしょうか。また、高さのある防潮堤の場合、海が街中から見えなくなってしまうケースもあります。海を身近に観察できてこそ、天候の変化や異変に気付くことができたり、津波に限らず、自然災害による甚大な被害を防ぐことができたりする場合もあります。「防潮堤」が、人々の暮らしと海との間の大きな「障壁」となってしまうのであれば、より一層、海の恵みと恐ろしさの双方を、後世へと伝えていく必要があるのではないでしょうか。
製炭試験場と捨石塚
生活の必需品であった「木炭」を生産するため、昭和15年、当時の大野村(現在の大熊町は、大野村と熊町村が合併)に、国内唯一の製炭試験場がつくられました。戦争直前に建てられたこの製炭試験場で生産された木炭は、全国の人々の暮らしのためだけでなく、ガソリン不足より利用されるようになった木炭自動車などの燃料としても使われました。この製炭試験場建設の目的は、「炭を生産できる技術を持つ人を増やし、窯を改良する」ことでした。何か月かの研修を終えて、炭焼きの技術を身につけた人たちは、自分の故郷へと帰っていき、兵隊としてではなく、炭を焼くことによって、「お国のために」貢献するという意識を抱いていたそうです。研修を終えて帰るときに、人々は「捨石塚」に石を積んで帰りました。その中には、(現在の原発がある場所に存在した)磐城飛行場から配属された兵士が、仲間を想って積んだ石もあるのではと言われています。
※このお話の続きは、安田菜津紀によるこちらの記事をご覧ください
かつての特攻訓練場は、福島第一原発の敷地となった 「捨石塚」が伝えるものとは
木村さんは、「捨石塚は、ここでの当時の生活の中から生まれてきたもののような気がします。その当時の人の想いがこもっているんでしょうね」と話します。捨石塚の写真を見ると、小道のすぐそばにひっそりと存在しているのが分かります。でも、その石の一つ一つに、誰かが誰かを想う気持ちがこもっているとしたら、捨石塚は、時を超えて人々の想いを象徴し続ける存在なのだと感じました。
8月9日、磐城飛行場への空襲
磐城飛行場には、「赤とんぼ」と呼ばれる九三式中間練習機60機と、指揮官用の零戦(零式艦上戦闘機)1機がありましたが、爆撃のあった1945年8月9日までに全て移動されていました。当時の爆撃は、海上の空母から飛び立った飛行機によるもので、事前に危険だと把握されていたのでしょう。「赤とんぼ」の多くは、砂利道でロープを用いながら、富岡町の夜ノ森公園へと運ばれたそうです。
2020年8月9日、福島第一原発事故の影響で、当時の磐城飛行場があった場所一帯への立ち入りが制限されている状況になっていることを、75年前の人々は誰も予測しなかったでしょう。どんな形であれ、何十年たっても、営みが続いていると思っていたのではないでしょうか。
震災からまもなく10年を迎えようとしている中、現在、東日本大震災や福島第一原発事故など、大きな自然災害や事故の教訓が、様々な仕方で語り継がれています。その一方で、生活に根付いた文化や人々の想いがこもったものについての物語が途絶えてしまう可能性が大きくなってきています。
今を生きる私たちが大きな自然災害や事故の教訓に込めた想いを、数百年後を生きる人々に伝えるためには、ただそれを語り継ぐだけで十分なのでしょうか。置き去りにされている大熊の様々な物語と同様に、そうした伝承も途絶えてしまうのではないでしょうか。
私は、「物語」を自分に引き寄せて感じるためには、自分自身をその物語の主人公に置き換えてみることが大切だと思います。彼らの気持ちや、その当時を生きた周囲の人々の心の痛みを想像すること。そうして心に響いた物語は、その人の心の中にあり続けると思うからです。誰かの気持ちに共感したり、誰かの気持ちを深く理解したいと思ったりしたとき、その人にまつわる場所に足を運んでみたくなりませんか?その場に立つことで、さらに心動かされることもあるでしょう。民話集の1ページ、災害の記録の1ページではなく、誰かの心のノートの1ページに刻まれた物語の方が、より後世へと受け継がれていく物語となるのではないでしょうか。
こうして木村さん、鎌田さんのお話を聞き、それぞれの内面に刻まれた物語を、また誰かに語り継いでいくことによって、数百年後の未来を生きる誰かにも、震災の教訓を伝えていくことができるかもしれません。だからこそ、オンラインではあれ、こうしてお話を伺い、まずは、全国各地に住む大熊町に関心がある人たちの記憶に、その物語を残していくことが大切なのではないかと感じました。
福島第一原発の誘致
鎌田さんは、現在の原発の土地に作られてきたものに共通性が見出せると語ります。その共通性とは、「国の事業で地域を盛り上げようとしていたこと」です。鎌田さんは「製炭試験場も磐城飛行場も『国の事業』で行われたものです。戦前は、地域調査が命令ひとつで行われ、その施設の建設に関する情報や概要は治安維持法で厳しく取り締まられていたと考えられるでしょう」と話します。戦後、一時期塩田が作られましたが、塩田も廃れてしまった後に、原発の誘致計画が持ち上がったと考えられるそうです。
この話について、参加者からは、「原発のことも戦争のことも、結果の悲惨さは目に見えるけれど、そうした状況へ至るまでに巻き込まれてしまった社会のなかで、異議を言いづらくさせる『空気づくり』がされていったのだと思います。お二人の話を聴きながら、今の社会の状況も含めて考えてみると、目に見えない「空気」が作られたプロセスも伝えていくことの大切さを強く感じました」という感想がありました。
私は、鎌田さんが指摘する共通性とは異なる共通性を、製炭試験場・磐城飛行場・福島第一原発の三つに見出しました。それは、その当時の人々の「暮らし」のための施設であったことです。「暮らしのための施設に従事する人がどのように暮らしてきたのか」を、私たちは大熊の歴史から学ぶことができるのではないでしょうか。
人々が生きた「証」を未来へ
鎌田さんは、大熊に伝わる物語を伝える活動や、過去の人々が残した石碑などの保存活動をする中で、「人々が生きた証を後世に残したい」と語ります。
木村さんは「残していきたいと人々が思うものには、その分だけ人々の想いがどんどん積み重なっていくんですよね。汐凪地蔵だけを守っていくのではなくて、他の物語も語り継いでいかないと、途絶えてしまう気がするんです。大熊に伝わる物語を鎌田さんから聞くまでは、汐凪のことは“個人的なこと”だと思い、自分の殻に閉じこもっていました。でも今は、個人が気になったことから始まって、その輪が広がっていくような世の中もいいと思い、大熊未来塾の活動をしています」と話します。
人々が生きた証や大切にしてきた物語を後世に残すには、「物語を語り継ぐ人」が必要です。新型コロナウイルスの影響で、その土地に足を運んで、場の空気を感じることは難しくても、言葉や映像などを介して、その物語に耳を傾けることはできます。全ての物語を完璧に記憶するのは難しいかもしれません。でも、地域に伝わる物語に耳を傾け、自分が気になったいくつかの物語を次の世代へ伝えていくということを、自分にできる範囲で大勢の人が続けていけば、様々な物語を残していくことができるのではないでしょうか。
過去に生きた人々が大切にしてきたものや残してくれた物語には、いろいろな人生や出来事の記憶がたくさん詰まっています。それらは、「今の自分」や「今の町のあり方」をきちんと見つめるための材料になるでしょう。また、困難に直面した時、私たちは物語から生き抜くためのヒントを得ることもできます。そこに物語を知り、未来へと語り継ぐ意味があると思います。
物語が心のノートに刻まれている人は、たとえ直接会話ができなくとも、想いを共有する感性を持った人だと思います。そのような感性は、周りにいる人の想いや、社会の中で弱い立場に置かれている人々の「声」に耳を傾けるために欠かせないものでしょう。そのような感性と共に物語を語り継いでいくことで、誰かの想いや小さな声に寄り添うことの大切さに気づく人が、少しずつでも増えていけば、「誰も取り残さない社会」に近づいていけるのではないかと私は思います。
(文 Dialogue for Peopleインターン 塚原千智 、 校正 佐藤慧 / 2020年10月24日)
塚原千智(つかはら・ちさと)
Dialogue for peopleインターン。2016年、安田菜津紀と行く東北スタディツアーに参加。以後、東北に数回足を運び、現在は大学のサークル活動の一環で、大熊町での聞き書き活動も行う。
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