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取材レポート

2020.11.23

超大型台風ハイエンから7年―瓦礫の中で出会った人々

安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

安田 菜津紀Natsuki Yasuda

佐藤 慧 Kei Sato

佐藤 慧Kei Sato

田中 えり Eri Tanaka

田中 えりEri Tanaka

安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

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佐藤 慧 Kei Sato

佐藤 慧Kei Sato

田中 えり Eri Tanaka

田中 えりEri Tanaka

2020.11.23

取材レポート #災害・防災 #佐藤慧

今月(2020年11月)10日から12日にかけて、フィリピンに大型台風「ヴァムコー」が上陸しました。コロナ禍によるロックダウンや移動規制により疲弊した社会に、追い打ちをかけるような災害が襲い掛かり、首都マニラでは大規模な洪水が発生しているといいます。今月初頭にもスーパー台風「ゴニ」よる大きな被害が報じられたばかりのことでした。現地メディアから伝わってくる光景は、7年前、僕がフィリピンで取材した台風被害の光景を思い出させます。あの時出会った人々は無事だろうか…。久しぶりに連絡すると、彼ら、彼女たちの地域では大きな被害がなかったこと、けれど、コロナ禍によるストレスや、頻発する台風への不安はぬぐえないことなどを伝えてくれました。今回の記事では、7年前のフィリピン取材を振り返り、後半では、当時出会った方からの声をお送りします。

※本記事には自然災害による被害の記述・写真などが含まれます。そうした内容により、精神的なストレスを感じられる方がいらっしゃる可能性もありますので、ご無理のないようお願い致します。


 

瓦礫の中の出会い

2013年11月。超大型台風「ハイエン」がフィリピン中部を直撃した。暴風と高潮などによる死者・行方不明者は6千人を越える。中心気圧895hPa、最大風速65m/s、最大瞬間風速90m/sという規模は、毎年多くの台風に襲われるフィリピンでも過去に例を見ないほどであった。レイテ島北部東岸、タクロバン市の被害は著しく、高潮の遡上高は10メートルに及んだ。幹線道路が遮断され陸の孤島となった同市は、食料や水などの生活物資・医薬品などを空路に頼るほかなく、復旧までにはさらに多くの二次被害が予想される状況だった。

東日本大震災から2年半後のこの出来事は到底他人事とは思えず、かろうじて稼働しているというタクロバン空港(ダニエル Z. ロマオルデス空港)に飛んだのは、ハイエン上陸から10日後のことだった。しかし「空港を根城に取材を行おう」という目論見は、滑走路に降り立った途端に崩れ去る。空港の建物自体半壊(ほとんどの機能が壊滅していたので「全壊」ともいえる)しており、骨組みだけとなった壁や天井からは、今にも落下してきそうな破片がぶら下がっている。周囲では、けたたましい音をたてる米軍のオスプレイが、支援物資や避難民を乗せて慌ただしく離着陸を繰り返していた。
 

かろうじて小型機の離着陸が可能だったタクロバン空港。高潮により壊滅状態だった。

空港を出ると、眼前に広がる光景に言葉を失った。それはまるで、2011年3月に東北沿岸で目にした街々のようだった。人工物は全てなぎ倒され、様々な腐臭の入り混じった空気が辺り一面に漂っている。米軍や国際支援機関が物資を配っているためか、空港周辺には多くの被災者が集まっており、長蛇の列をつくっていた。行方不明の家族を探す人々。お互いの生存を確かめ抱き合う人々。途方に暮れて虚空を見つめる人々…。

どこを目指すべきか。呆然と立ち尽くす僕の前に、ひとりの少女が駆け寄ってきた。「How are you?」と、屈託のない笑顔で話しかけてきたその子の名前はライカちゃん。僕が日本から取材に来たこと、どこか泊まれるところ(テントを張れる場所)を探していることを伝えると、「じゃあうちにおいでよ」と手を引っ張る。どこまでも瓦礫が広がるこの近辺に、無事だった家などあるのだろうか?そんな僕の疑念をよそに、ライカちゃんは器用に瓦礫の間を駆けていく。
 

当時11歳だったライカちゃん。

とにかく、誰か地元の人の話を聞かせてもらいたい。そんな思いもあり、少女の姿を必死に追う。すると瓦礫の奥に、かろうじて輪郭を保っている小屋が見えてきた。しかしそれが、台風を耐えて残った家ではないことは一目瞭然だった。その小屋は、瓦礫の中から拾い集めたであろうトタンや木材を、器用に継ぎはぎして作られた掘っ建て小屋だったのだ。「やっとドアも見つけたんだよ!」と、ライカちゃんがスキップしながら笑う。
 

ライカちゃん一家の住んでいた掘っ建て小屋。

無数の「あいまいな喪失」

「みんなー!日本からお客さんだよー!」とライカちゃんが叫ぶと、大勢の子どもたち、大人たちが集まってきた。「泊まるところないんだってー!」とライカちゃんが笑いながら言うと、彼女の父親のジョージさんが、「それならうちに泊まっていけばいい」と言う。ただでさえ大変な状況の中、彼らの負担になってしまわないだろうかと逡巡したが、「ちょうど瓦礫を片付ける人手が欲しかったんだ」という彼らの言葉に甘えることにした。ライカちゃんのお姉さん、長女のノエリンさんも「みすぼらしいところだけど、ゆっくりしていってね」と笑顔で出迎えてくれた。

なんでもこの辺りは、台風被害を被る前には、貧困層の人々が暮らす、いわゆる「スラム街」のような密集地帯だったという。元々行政サービスなどなく、むしろ政府からは空港拡張工事のために立ち退きを要求されていたという。「避難所?街の学校に身を寄せている人々もいるけれど、すでにそこは満杯なんだ。生活は厳しいけれど、ここでなんとかするしかないんだよ」と、元々ジプニー(乗り合いバス)運転手だったジョージさんは、忙しなく手を動かしている。「しばらく仕事はできないだろうが、とにかくできることをするまでさ」。
 

掘っ建て小屋には親族数家族が身を寄せていた。

「よし!探検にいくぞ!」と元気よく叫んだのはライカちゃんの弟のノエルくん。「今日は何を見つけられるかなー」と、近所の子どもたちと一緒に出掛ける準備を始める。どうやら子どもたちは、毎日近所を散策して、まだ使えそうなもの、壁の補強などに使えそうな資材を集めてくる役割を担っているらしい。「もちろん一緒に行くよね?」と誘われ、僕も瓦礫の街を子どもたちと歩くことにした。

瓦礫をかきわけ進んでいく中、時折子どもたちが鼻をつまんで顔をしかめる。どうしたのだろうと周囲のにおいを嗅ぐと、明らかに何かが腐った臭いがする。「昨日までね、ここに沢山の遺体が重ねられてたんだよ」とノエリンさん。実は彼女の叔父と祖母は、台風の日以来行方不明なのだという。後ほど聞いた話では、この周辺の地域では、遺体を見つけても安置所に保管することができかったらしい。湿度も高く、温暖な気候のフィリピンでは、数日で遺体が腐食を始める。フィリピン軍が遺体を回収して回っているようだが、とても追いつかず、止むを得ず地域の人々により、身元もわからないまま埋葬されてしまうこともあるという。多くの人が、「遺体を放置しておくと伝染病の元凶となる」と信じているためらしいが、ICRC(赤十字国際委員会)は、「遺体を大量かつ性急に埋葬しなくても、公衆衛生面上では懸念されるほどの危険性はない」「健康被害を及ぼすリスクもごくわずか」というメッセージを出している。しかしそうしたメッセージは、瓦礫に埋もれた地域までは届くすべもない。被災後の混乱の中で、遺族に発見されることなく埋葬されてしまった遺体はどれだけの数に上ったのだろうか。その後遺族が直面する「あいまいな喪失(※)」のことを思うと、突然の災害というものが、どれだけ長期に渡り人々に影響を及ぼし続けるかということを考えてしまう。

(※)あいまいな喪失
「はっきりしないまま、解決することも、終結することもない喪失」とされ、大切な人々の行方不明や、認知症等による意思疎通の不調のほか、移住や離婚等によっても引き起こされる。

 

この日見つけたのは「足の折れた机」。腐臭が漂う中散策を続ける。

全てを破壊するツナミ

掘っ建て小屋に帰ると、お母さんが火を焚き晩御飯の準備をしている。僕が日本から持ってきた缶詰も、一緒に夕食に並ぶことになった。ノエル君が「サバの味噌煮」に手を伸ばし、「うん、変な味だけどうまい!」と声を立てて笑った。灯油を瓶に詰めただけの照明がそれぞれの表情を照らす。風の音しか聞こえない暗闇の中の小さな家だが、ひとつ灯りがあるだけでこうも安心感が違うものか。しかしはしゃぐ子どもたちを横目に、親戚のアーノルドさんは厳しい表情を浮かべていた。「出稼ぎにいくんだ」と、じっと顔を見つめていた僕に気づいたアーノルドさんが話し始めた。「ここで仕事を見つけるのは難しいからね。他の島で仕事をして、家族の生活費を稼ぐんだ。場合によっては、海外に行くかもしれない。前にも出稼ぎしてたことはあるからね。来年の春には戻ってくるよ」。

「ある村では、9割の人が波に呑まれてしまったらしい」と、ジョージさんが静かに口にした。「あれはきっとツナミってやつだよ。日本と同じさ。数年前のあのニュースは、オレたちもテレビで観てたんだ。ある日突然、全てを破壊する」。でもまさか、自分たちの身にそんなことが起きるなんて思ってもみなかったと、ジョージさんは天井の隙間から夜空を見上げた。実際には津波ではなく、強風に巻き上げられた高潮だったわけだが、その高さは5、6メートル、遡上高は10メートルに達したと伝えられている。しかし、実際にへし折られている木々や倒壊した建物を見ると、局所的にはそれを上回る波が押し寄せたのではないだろうか。
 

空港近くはその地形により、四方から高潮が迫って来たという。

結局その後の数日間、僕はライカちゃん一家の家にお邪魔になることにした。他に行く当てがなかったということもあるが、何よりここにいる人々の話をもっと聞いてみたかったのだ。私事になるが、僕は東日本大震災で家族を失っている。周囲にも、災害による突然の死別から悲嘆に沈む知人、友人が多い。被災地の現状を伝えるという、フォトジャーナリストとしての責任はもちろん大切だが、人間はどのようにして突然の喪失と向き合うことができるのか、どのようにして再び明日への希望を信じることができるのか、そうしたことを、ここに生きる人々の生き方を通じて学びたかったのだ。大局を伝える大きなニュースでは届きにくい、そうした人々の内面を伝えることもまた、報道の大切な役割なのではないかと思う。
 

ひとつの炎で食卓を囲む。ノエリンさん(左)は現地語(ワライワライ語)の通訳もしてくれた。

世界で一番幸せな場所

「そうそう、明日、教会の清掃をして被災後初めてのお祈りをするの。良かったらお掃除手伝ってくれないかしら?」と、お母さんのアーリンさんが食器を洗いながら僕に訊ねた。僕は即答すると同時に、こんな大災害の後で、果たして彼女は「神」に何を祈るのだろうかと気になった。恥ずかしい話だが、僕は東日本大震災後、あまりにも突然に、理不尽に多くの命が奪われたことに対して腹を立てていた。「神」というものがいるのなら、なぜこんな仕打ちをするのだろうかと、怒りに似た感情さえ抱いていたと思う。同じように数えきれないほどの命が突然奪われ、日常が破壊されたこの場所で、果たしてアーリンさんは何を祈るのだろう。

翌朝訪れた教会の傍らには、瓦礫の中、真っ白なキリスト像が立っていた。多くの人々の憩いの場であり、安らぎの場所でもあったのだろう。早朝だというのに、大勢の人が力を合わせて瓦礫を片付けている。僕もカメラを傍らに置き、一緒に瓦礫を運び出す。すると突然、「ありがとう!」という日本語が聴こえてきた。声の方を見ると、歯の欠けたおじいさんがにっこりと笑っている。「日本人ですよね。私、日本語習ったことあるんです」。聞くと、第二次世界大戦時、日本軍がレイテ島を占領していた時に日本語を身に着けたのだという。日本のレイテ占領は2年6ヵ月に及んだ。彼のように、日本語を覚えている人々が今もいるのかもしれない。日本語を覚えた日々は、決して楽しいものではなかっただろう。思い出したくないことも多々あるかもしれない。ゆっくりと話を伺えなかったが、ここがあの「レイテ島」であることを、今更ながらに思い出し奇妙な思いにとらわれた。いずれまた、きちんと歴史と向き合うためにもこの島を再訪したい。
 

瓦礫の中に佇むキリスト像。

掃除とお祈りが終わり、帰路に就きながら僕はアーリンさんに尋ねてみた。これだけの災害の後に、一体「神」に何を祈ったのでしょうかと。するとアーリンさんは、何でそんなことを聞くのだろうかと不思議そうな顔をしながら、こう答えた。「今日も生かして下さり感謝します、と祈ったのよ」。それは僕にとっては衝撃的な答えだった。家族を失い、日常を破壊され、今後の先行きも見えない中、ただ、今日を生かされていることに感謝する。僕自身はといえば、「命を奪われた」ことにばかり気が向いて、「自分が生かされている」ということに目が向いていなかったのではないか。「周囲を見てごらんなさい」、とアーリンさんが続ける。「とても酷い状況だと思うでしょ?まだまだ多くの遺体が見つかっていないし、街を再建するにも長い時間がかかると思うわ。でもね…」。アーリンさんが視線をやった先では、末っ子たちが壊れた三輪車で遊んでいる。「こうして子どもたちが笑っていられるのなら、そこが世界で一番幸せな場所なのよ」。
 

ジョージさんが修理した三輪車で遊ぶ子どもたち。

数日後、ついに一家とお別れするときが来た。飛行機の出入りも不安定で、今日の便を逃すとしばらく足止めを喰らってしまいそうとのことで、急遽荷物をまとめたのだ。11月末、本来ならクリスマスのお祝いに向け、街中が活気づく時期だ。「えー!もう帰っちゃうの!」「もっといればいいのに!」と、子どもたちが悲しそうな顔をする。ジョージさんも残念そうな顔をしながら、「今度来たら自慢の自家製トゥバ(ヤシ酒)を飲ませてやるから、必ず帰って来いよ」と見送りに出て来てくれた。

住所もない。電話もない。果たしてまた再会することができるかどうかもわからない。けれど、ひと月にも満たない滞在の中で、彼ら、彼女たちは忘れることのできない大切な人々となった。僕にできたことはと言えば、わずかな支援物資を渡し、多少の労働力となれたことぐらいかもしれない。帰国後、いくつかの媒体で記事を書くことはできたが、日々多くのニュースが流れていく中で、果たしてどれだけの人に届いただろうか。今も頻発する自然災害は、どこか一国、地域だけの問題ではなく、あらゆる場所で起こり得る問題であり、それはある日突然人生を一変させてしまう。世界各国から支援の集まる地域もあれば、ほとんど見向きもされず、自助のみで生活再建を余儀なくされる、ジョージさんたち一家のような人々もいる。多くの国際NGOなどが、そうした声の届きにくい地域・人々の支援を行ってはいるが、構造的な貧困や格差を是正していくためには、まずはそこに暮らす人々の姿を「かけがえのない日常を生きている同じ人間」だと思える想像力が不可欠だろう。
 


 
 

後日談―当時を振り返って(ノエリンさん)

台風ハイエンの被害から数年後。SNSを通じて嬉しいメッセージが届きました。それは当時お世話になったノエリンさんからのものです。僕の名前をずっと憶えていてくれたのでしょうか。急になつかしさが込み上げて来て、近いうちに彼らの元を再訪しようと誓いました。それからしばらく機会がないままコロナ禍となり、しばらくはフィリピンに行くこと自体難しい状況となってしまいました。そんな中、またもフィリピンを襲った超大型台風のニュースを耳にし、一家の無事を確認すると共に、大学生となったノエリンさんに、改めて当時の様子を伺いました。
 

大学生となったノエリンさん(ノエリンさん提供)。

台風ハイエンが上陸する前日のことです。ニュースでは大変な被害が出るだろうと言っていましたが、私たち家族は、避難せずに家に留まっていました。天候は良好で、台風が近づいている気配なんてまるでなかったんです。「きっと大したことないよ」と、近所の人々も笑っていたことを覚えています。幸運なことに、近所を巡回していたバスが、人々を避難所へと誘導してくれました。私たちもその機会に、念のため避難することにしたのです。けれどお父さんだけは、家財道具を守るために家に残ることになりました。「ニュースで言うほど酷いことにはならない」と、みんな思っていたのです。その晩はとても静かな夜でした。小雨が降ってきましたが、とても台風がやってくるようには思えません。

11月8日の早朝、避難所となっていた学校の外では、コーヒー売りやパン売りがいて、まだ自由に買い物をすることもできました。ところがその後、急激に空が暗くなってきたかと思うと、激しい雨が降り始めたのです。あまりの強風に、私たちは縮みあがってしまいました。木々が激しく揺れ、屋根は恐ろしい音を立てていました。叩きつけるような風が、学校のコンクリートの壁を揺らしていたほどです。窓が割れ、私たちは机の下へと潜り込みました。それでもまだ私たちは、「いつもよりちょっと強いぐらいの台風だろう」と思っていました。ところが、その後台風は猛烈な勢いで強さを増していきました。教室にいた人々はパニックになり、子どもたちは泣き叫んでいました。誰かが、部屋に閉じ込められる危険を考え、ドアを蹴破りました。お母さんは私たちを強く抱きしめていました。窓の外の水嵩が、どんどん増している様子が目に入りました。どす黒い水に、様々な家の破片が浮かんでいます。ついに水は私たちの部屋にも浸水してきて、屋根の上に避難するしかありませんでした。そこにいた8家族全員が学校の屋根によじ登り、助けを求めて叫びました。結局、水が引くまで私たちはそこに取り残されていました。

学校の正門あたりでは、多くの人々が助けを求めて右往左往していました。誰もが、「まさかこんなに恐ろしい台風だったとは…」と頭を抱えていたのです。怪我をしている人、ショックで何もしゃべれなくなってしまった人もいました。学校の壁はコンクリートだったため、なんとか持ちこたえていましたが、私たちの住んでいる地域の家は、ほとんど木材で作られています。ひとり家に残ったお父さんはどうなっただろうかと、気が気ではありませんでした。近隣の多くの人々が亡くなったという話が伝わってきましたが、幸いなことに、父は別な場所に避難しているということがわかりました。けれど、近所に住んでいた叔父と祖母の行方はわからないままです。遺体が見つからなかったことは、今でも心に重くのしかかっています。彼らはとても優しく、素晴らしい人々だったのに…。

被災後の数日間は、食べるものや、最低限の生活物資さえ手に入らず苦労しました。支援物資などは届かず、みな飢えた家族を支えるため、必死に食べものを探しました。あらゆる家が破壊され、多くの人々が詰め掛けた避難所に、私たちの居場所はありませんでした。私たちの住んでいた地域では、みな瓦礫で作った家に住むほかなかったのです。電気や水道ももちろんありません。仕事も失いました。ジプニー(乗り合いバス)運転手だった父が再び同じ仕事に復帰できたのは、それから2年後のことです。そして、こうした物理的な問題だけではなく、精神的な困難にも直面していました。災害によるトラウマは、見た目にはわかりません。けれど、例えば大雨の日や、雷鳴を耳にしたときなど、心の奥底から、あの日の恐怖が蘇ってくるのです。

あれから7年が経ち、タクロバンの街は再び活気を取り戻しました。世界中から頂いた温かな支援を忘れません。まだ大きな台風が近づいてくると恐ろしさを感じますが、人々は備えることを覚えました。しかし現在のコロナ禍は、再び多くの人々を苦しめています。幸いなことに、私の家族はみな健康に過ごしていますが、厳しいロックダウンや移動規制により、父のジプニーは、街中を駆け回ってもほとんど乗客を見つけることができません。経済的に厳しい状況はより深刻さを増しており、ストレスの多い「新しい生活様式」に、みな疲弊しています。そして残念なことに、妹のライカはこのコロナ禍のため、大学に進学することができませんでした。彼女は状況を冷静に受け止め、今は家族を支えています。来年には無事進学できることを願っています。私はといえば、現在は大学の3年生で、建築を学んでいます。卒業後は、早く家族を支えられるように働いて、台風に怯えることのない丈夫な家を建てたいです。もう二度と、あんな悲しいことが起きないように…。そして当時を支えてくれた世界中の多くの人に、いつか恩返しをしたいと思っています。

そうそう、父があなたとトゥバ(ヤシ酒)を飲みたがってますよ!また是非遊びに来てくださいね!

(Noelle Lynn Silvano)

 

 

現在も続く台風被害、深刻なコロナ禍…。ノエリンさん一家を訪問するのはもう少し先のことになりそうですが、その時にはぜひジョージさんとトゥバを飲み交わしたいと思っています。取り返しのつかない、厳しく、悲しい災害でしたが、こうして素晴らしい人々と出会えたことを、心から嬉しく思います。

 
 

(写真・文 佐藤慧/2020年11月16日)

 


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