「今も続いていること」としての戦争―沖縄から考える「戦後76年」の意味
毎年8月が近づいてくると、「8月ジャーナリズム」と呼ばれる報道が増え始める。今年は新型コロナウイルスの感染拡大、そしてオリンピック・パラリンピック開催などの影響もあり、その注目度は例年よりも低いかもしれない。それでも、数えきれないほどの命を奪い、日常を破壊してきた戦争を経験してきた国として、それを伝え続ける責務は時を経ても薄まりはしない。むしろ、時間という隔たりが拡がり続けるからこそ、その惨禍が二度と繰り返されることのないよう、丁寧に伝承していかなければならないのではないか。
現在沖縄では、「戦没者遺骨土砂問題(※)」と呼ばれる問題が度々報じられている。沖縄県南部には、未だに多くの戦没者の遺骨が眠っているが、その土地の土砂を、辺野古新基地建設の埋立工事に使用するかもしれないということが、物議をかもしているのだ。今回はその「遺骨土砂問題」に対して声をあげるふたりの学生、仲本和(わたる)さんと石川勇人さんに話を伺った。ふたりとも、76年という月日に忘却させられそうになる、個々人の尊厳、それぞれに痛みについて、沖縄から考え、行動し続けている。
(※)戦没者遺骨土砂問題に関する記事
観光地ではない沖縄の姿を伝える
――まずは自己紹介をお願いします。
仲本 沖縄国際大学4年の仲本和といいます。沖縄生まれ、沖縄育ちで、今年22歳です。大学1年生から「沖縄戦跡や基地のガイド」を、県外修学旅行生を対象に行なっていて、3年半で60~70校をご案内しました。現在は「戦没者遺骨土砂問題」に取り組んでいます。
石川 沖縄国際大学院の地域文化研究科で社会学を専攻している石川勇人と申します。社会学の中でも、特に戦争の記憶研究と、沖縄戦における戦争トラウマの研究が専門領域になります。大学2年生の時から沖縄戦体験者、そして原爆被爆者の方々にも聞き取り調査を行っています。その延長線上で現在は、こうした研究を通して、どのように彼ら・彼女たちの証言というものを今後に活かしていけるのか、継承していけるのか、ということについて考えています。
――仲本さんの行っている「沖縄戦跡や基地のガイド」について教えてください。
仲本 個人でガイドを行なっている他に、大学のサークルでも行っているのですが、現在このサークルには社会文化学科の学生が70名ほど所属しています。県外から沖縄に修学旅行生が来るタイミングで、みんなで日程を合わせ、10~15名でガイドを行っています。
沖縄国際大学のすぐ横に「嘉数高台」という場所があるのですが、こちらは戦時中、日本軍が防衛線を張っていた場所で、激戦地だったんですね。現在はここに3つの塔(慰霊碑)が建てられており、ひとつは嘉数の住民のための「嘉数の塔」、もうひとつは、「京都の塔」――嘉数高台には京都出身者の兵士が多く配属されていました。そして「青丘(せいきゅう)の塔」、ここではたくさんの朝鮮人の方々も犠牲になったといわれており、そうした方々の慰霊碑があります。
こうした慰霊碑のガイドの他に、高台の展望台へも行きます。ここからは普天間基地をすぐ目の前に観ることができるので、オスプレイの離着陸や、戦闘機の轟音、そうした「基地の近さ」というものも体験してもらいます。慰霊碑を案内している最中にも、頭上には多くのヘリなどが飛び交います。
それから、沖縄国際大学には2004年に米軍ヘリが墜落(※)しているので、そのモニュメントもガイドする場所のひとつになっています。
(※)2004年沖縄国際大学への米軍ヘリ墜落事故
2004年8月13日、午後2時15分頃、沖縄国際大学に米軍普天間飛行場所属の大型輸送ヘリコプターCH53Dが墜落、炎上した。搭乗員3名が負傷したが、大学職員、学生、他民間人らに負傷者は出なかった。市街地に位置する普天間基地周辺では、落下物や機体トラブルなども相次ぎ、「世界一危険な基地」とも呼ばれている。
――ガイドに参加された県外の学生たちの反応というのは如何でしょうか?
仲本 やはり沖縄=観光地だと思っている学生がほとんどなので、来る前にイメージしていた沖縄のイメージと、ガイドに参加して、実際に基地や戦跡を目にした後に見える沖縄は違って見えるという意見もあります。76年前に大きな被害を受けて、また、現在でも全国の約70.3%の在日米軍専用施設・区域が集中しているという状況に触れたときに、「沖縄の問題をもっと気にかけなきゃ」と感じる学生は多いですね。けれど僕としては、「沖縄“の”問題」だと捉えられてしまうことには、やはりどこか違和感があります。
――石川さんもまた違った形で伝承活動を行っていますが、そちらについても伺わせてください。
石川 現在はとくに「次世代」というところに焦点を置いて活動を行っています。沖縄県の宜野湾市が、毎年地域育成事業として行っている育成事業があります。その中で、先ほど仲本くんのお話にも出てきた嘉数という地域の沖縄戦の歴史を子どもたちに伝えたり、あるいは地域に残る戦跡に赴き学習会を開いたりということを行っています。
それから、自分たちが橋渡しとなり、地域の子どもたちに戦争体験者の声を聞いてもらうという、次世代への戦争体験の継承も主な活動のひとつです。
「今も続いていること」としての戦争
――おふたりがこうした伝承活動に興味・関心を持ったきっかけとは何だったのでしょうか?
仲本 沖縄では、小学1年生から高校3年生まで、毎年「平和学習」が行われています。そうした「平和学習」の中で戦争体験者のお話を聴く機会もあり、僕はわりとそれが好きだったんですね。けれど年月が経つにつれ、体験者世代の人々が減っていき、僕が高校生になってからは、直接体験者のお話を聴く機会がなくなってしまったんです。その代わりに、沖縄戦を研究されている、戦後世代の非体験者の方からお話を聴く機会があったのですが、これまで体験者の方々から聴いてきたお話と比べて、「こんなにも伝わり方が違うのか」と驚くぐらい、響くものが半減してしまったんです。このままでは伝承が途切れてしまうんじゃないだろうかと、高校生ながらに危機感を覚えました。
じゃあどうやって継承していけばいいだろうかと考えた時に、若い世代から若い世代へ、つまり自分と近い世代から語り掛けられることによって、それぞれが「自分ごと」として響きやすくなるんじゃないかと思い、こうした活動に携わることとなりました。
石川 私は大学2年生のときに、大学の講義で「オーラルヒストリー」の講義があったのですが、その中で自分自身の身近な人でもいいし、誰か戦争体験者の人にお話を聴いてくるという課題があったんですね。元々沖縄戦には関心があったのですが、体験者に直接お話を伺うのはその時が初めてでした。
当時私は、「みなさん普通に戦争体験のことを語れるんだろうな」と、ある種の先入観があったのですが、その時お話を伺った方は、途中で号泣して語れなくなってしまいました……。その晩からPTSD――戦争トラウマの症状が再発してしまい、「あなたが聴きにこなければ、こんなに苦しい想いをすることはなかったのに、どうしてくれるんだ」と電話がかかってきて、その時に初めて、今も当事者の中で続いている戦争体験というものに触れ、「過去のこと」ではなく、「今も続いていること」としての戦争に耳を傾け、伝えていく大切さを実感しました。
戦後世代の役割
――戦没者遺骨土砂問題について、初めて耳にされた時はどのような思いでしたか?
仲本 実は初めて知ったときには、そこまで衝撃はなかったんです。ただ、現在僕は辺野古の基地建設現場のガイドもすることがあるのですが、このまま遺骨土砂問題が進んでいけば、将来的にはそれもガイドしなければならなくなる……。それは嫌だなって思ったんですね。現在進行形で起きていることを、ただ見ているだけなのかと。自分たちはまだ「若者」と呼ばれる世代ですが、「戦後世代」という大きなくくりで考えたら、実は遺骨土砂問題に声をあげている具志堅隆松さんも「戦後世代」なんですよね。なら、自分たちにもできることはあるんじゃないかと思いました。
石川 私も当初はそこまで衝撃を受けませんでした。聞き取り活動の中でも、実際に沖縄県南部でご家族が亡くなって、未だに遺骨が見つかっていないという話も数人から伺うことがありました。きっとそうした方々がまだまだ大勢いるんだろうな、という感覚は持っていたんですね。もちろん、そうしたご遺族の声に、社会はどこまで耳を傾けてきただろうかという部分に違和感を感じつつも、遺骨土砂問題が騒がれ始めた3月頃には、まだ静観しているという状況でした。
けれど、こうした問題が起こってくる背景のひとつには、「そもそもそこに遺骨があるということを知らない世代が多い」ということがあると思ったんですね。そこに非常に大きな問題があると感じました。じゃあ誰が「そこにまだ遺骨が残っている人たちがいる」ということを伝えていけるんだろうかと。体験者、関係者がいなくなったら終わり、という形で伝承が途切れてしまうのではないかという危機感を抱きました。そのためこれまでお話を伺ってきた方々にも、再度この問題と引き付けながらお話を伺うなど、「戦後遺骨が帰ってこなかった」ということの意味を改めて考えるようになりました。
――この問題に対して、どのようなアクションを行っているのでしょうか?
石川 私の場合は、それを誰かに伝えるということよりも、専門領域を活かして、当事者の話をとにかく聴こうと、そうした活動に力点を置いています。その中で、仲本くんとも一緒に声をあげたり、学生たちと議論をしたりという活動に参加するようになったのですが、実はこの問題が、意外と沖縄の学生にも知られていないという状況があることに気づきました。
仲本 4月末に沖縄国際大学の講義に立たせて頂き、この問題を議論する場を設けることができたのですが、県内新聞では割と報道されているにもかかわらず、ほとんどの学生が知らなかったり、関心を持っていなかったりしたんですね。これまでの「平和学習」はなんだったのかと思わざるを得ませんでした。でもそれはやっぱり、戦争というものを「76年前に終わったこと」と捉えていて、今も続く問題だと伝えられていない、社会、学校教育の問題でもあると思ったんです。なので、4月末の講義だけの予定だったのですが、その後県内でも十数回、県外でも4大学で講義をさせて頂いています。
現在遺骨土砂問題がこうして一部とはいえ騒がれているのは、戦争体験者とその2世にあたるご遺族が、まだご存命だからという部分が大きいと思います。これが数世代後、たとえば戦後の3世、4世が社会の中心を担うようになってきたときに、同じように声をあげられるのか、問題だと認識できるのかという部分は、やはり社会や教育のあり方にかかっているのではないかと思います。
戦争は76年前に終わった問題ではない
――戦争は今の様々な問題とも地続きであるということですね?
石川 戦争体験者の証言を、戦時中だけではなく、戦後史まで幅を広げて注目していくことが大切だと思います。特に沖縄では、戦後、基地問題から起こって来た多くの問題というものがあります。50年代の宮森小学校ジェット機墜落事故(※)、70年代のコザ暴動などで、戦争当時の体験を思い出してしまったという人もいます。そうした人々は、基地というものが「戦争に繋がるもの」だという、直接的な肌感覚をお持ちです。
(※)宮森小学校ジェット機墜落事故に関する記事
仲本 自分たちが今どういう社会に生きているのか、日本がどういう方向に向かっているのかということをきちんと考えなければならないと思います。なぜこの国は、76年前の戦争ですらも解決できていないのか。もちろんそれは国が解決しなければならない問題だとは思いますが、やはり戦後世代が果たす戦争責任、戦後責任というものもあるのではないでしょうか。
同時に、遺骨土砂問題、基地問題をはじめ、沖縄で起きている問題は、決して沖縄“だけ”の問題ではありません。日本全体で76年前の戦争、そしてそこから続く様々な問題と向き合うことで、「沖縄の問題」ではなく、「沖縄で起きている日本の問題」として捉え直してほしい。安全保障の観点からしても、それは日本全体の問題です。基地も沖縄だけにあるわけではありません。沖縄で起きている事件・事故は、もしかしたらあなた自身の身に起こることかもしれない。自分の身に起きてからでは遅い、だからこそ、自分の身に起きてしまった人が今も伝え続けている……そこを汲み取れなければいけないと思います。
さらに遺骨土砂問題に関していうと、この遺骨には沖縄の住民だけではなく、県外出身兵、朝鮮人、台湾人、米兵の遺骨も含まれている可能性があります。それを「沖縄の問題」と言ってしまうことに危惧を覚えます。
石川 広島・長崎も同じような課題を抱えていると感じます。被爆体験者の当時の話だけを伝えていくのではなく、その後被爆者はどのような思いを抱えて生きてきたか、戦後どんな問題や運動が起こり、76年という年月を刻んできたのか。「戦後」と切り離すのではなく、戦争をこれまでどのように次世代に伝えてきたのか、そしてこれからどう伝えていけるのか、考えていく必要があると思います。
(2021.8.3 / 写真・インタビュー 佐藤慧)
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