本記事は『10分後に自分の世界が広がる手紙』(東洋館出版社)という小中学生向けのエッセイシリーズの一冊、『毎日がつまらない君へ』から、WEB記事用に整え、転載したものです。書籍詳細は記事末をご参照ください。
※書籍では難しい漢字にはルビをふっています。
※本記事に掲載している写真はWEB記事のみのものです。
なにもしない時間
「光陰矢のごとし」、という言葉があります。光陰とは、時間のことです。時間は弓からはなたれた矢のように、とても早くすぎ去り、二度ともどって来ないという意味です。
友達と楽しく遊んでいるときに、「ああ、もう家に帰る時間だ。もうちょっと遊んでたかったな」と思っても、時間は待ってくれません。たいくつな話を聞いているときに、「早く時間がすぎてくれないかな」と願っても、針は進んでくれません。時計の針は、君の思いとは関係なく、勝手にチクタク進んでいきます。世界中の時計をこわしたところで、時間はけっして止まりません。
楽しいとき以外にも、時間がとても早く流れてしまうときがある、とぼくは思います。それは、「いそがしいとき」です。「ああ、いそがしい、いそがしい」とつぶやいていると、なんだか時計の針が、せっかちに背中をつっついてくるような気がしませんか?
塾に通ったり、習い事をしたり、ただでさえ時間がないのに、「早く宿題終わらせなさい!」とお母さんにどなられたら、「ああ、いそがしい!」と、君の心も、せかせかしてしまわないでしょうか。
もしそれが「楽しい時間」なら、すぎ去ったあとも、楽しい思い出が残ります。でもいそがしいときは、ぽっかりと時間が消え去ってしまうような気がするので不思議です。
いそがしい、は「忙しい」と漢字で書きます。「心を亡くす」と書いて、いそがしいと読むのです。あれをやらなきゃ、これを終わらせないと、という不安でいっぱいで、心が「今」にいないのかもしれません。
ぼくもかつて、心を亡くしたことがありました。1ヵ月に数回しか、家に戻れないくらい、仕事をつめこんでいたときです。そのときは、おいしい料理を食べたり、ゆったりと好きな音楽に耳をかたむけることも、なんだかおっくうになってしまっていたのです。
亡くしてしまった心を取りもどすきっかけとなったのは、ある南の島の漁師、アントニオさんとの出会いでした。
日本から飛行機で8時間、南に飛んでいくと、東ティモールという、岩手県くらいの大きさの島国があります。空港は、とてもこじんまりとしていて、滑走路には、ぼくの乗ってきた飛行機しかとまっていません。空港の建物も、ちょっとした体育館ほどしかなく、観光客もみあたりません。
街を歩いていると、マイクロレットとよばれる小型バスから身を乗り出した若者が、「どこから来たんだ? 乗ってくか?」と、声をかけてきました。車の中の席は全部うまっていましたが、からだのおおきなおばちゃんが、そのおしりで「ぐいっ!」と、となりの人を奥におしこみ、ぼくの座れるスペースをつくってくれました。
日本人がめずらしいのか、みんなチラチラと、ぼくのことを見ています。ちょっと緊張していたぼくに、せまい車内で器用におかしを食べていた学校帰りの女の子たちが、「これ、食べる?」と、ポップコーンを差し出してくれました。
バスをおり、海岸ぞいを歩いていると、漁師たちが小船で魚を釣っています。エンジンのついていない、手こぎの木製ボートで、ちゃぷちゃぷと波のはねる音が、ぼくのところまで聞こえてきました。はまべでは、すっぽんぽんの男の子たちが、大きな岩の上から次々と海に飛びこんでいます。
そんな砂浜で出会ったアントニオさんは、小さな船と、魚をとるときに使うあみ以外、何ももっていませんでした。半そで、短パンにぼうしをかぶり、水平線を見つめています。
やさしそうな雰囲気にひかれ、もし漁に出るなら、ぼくもいっしょに行きたいなと思い、声をかけてみました。
「今日は漁に出るんですか?」とアントニオさんに聞くと、とつぜんの外国人からの質問に、少しおどろいたようすでしたが、「波がよければ、ね」と、静かにほほえみました。
しばらくぼくも、波の様子を見ながらいっしょに座っていましたが、結局その日、アントニオさんは、こかげで海をながめてすごしました。
次の日もまたはまべに行ってみると、アントニオさんが、同じ場所にこしを下ろしています。ぬれたあみをかわかしているので、きっと早朝に漁に出たのでしょう。「魚、とれましたか?」と聞くと、「少しね」と、静かに笑います。
次の日も、またその次の日も、アントニオさんは、なにもしないでそこに座っていました。同じはまべでも、せっせと漁に出ては、たくさんの魚をとってくる漁師もいます。とった魚を路上で売ったり、小さな屋台で焼き魚を売ったりする人もいます。周りからすると、アントニオさんはなまけ者に見えるかもしれません。でもぼくは、なぜだかアントニオさんの雰囲気がここちよく、何度もはまべに足を運びました。
ある朝早く、ぼくがはまべに行くと、「今日は波がいい」と言って、アントニオさんが立ち上がりました。ぼくから見ると、昨日も今日も同じ海にしか見えませんが、きっと何か、ちがいがあるのでしょう。アントニオさんは、Tシャツを胸までまくりあげると、波打ちぎわにうかべていた小さなボートに向かって、じゃぶじゃぶと海に入っていきます。
ぼくが「いっしょに行きたい」と言う間もなく、アントニオさんは海へとこぎ出してしまいました。
ひとり残されたぼくは、アントニオさんが座っていた場所にこしを下ろし、アントニオさんと同じように、海をながめて待ちました。ただ海をながめて、潮のにおいをかぎ、はだをなでる風を感じます。
こうしてなにもしないでいると、色々なことに気づきます。
波にきらめく太陽の光は、二度と同じ模様をえがくことのない絵画のようです。鳥たちの鳴き声が、こんなに感情ゆたかなものだとは知りませんでした。遠くから、トウモロコシを焼く香ばしいにおいがただよってきます。
ただ座っているだけなのに、全然あきることなく、次から次へと、色々なものがぼくの中に飛びこんできます。
そしてぼくは気づいたのです。アントニオさんは、なにもしていないのではなく、全部を感じていたのだと。
いそがしいときは、目の前のものだけを見て、感じて、他のものには注意もはらいません。でも、あえてこうした「なにもしない時間」をつくることで、さわがしい心が落ち着き、周りにある、たくさんのすばらしいものごとに気づくことができるのです。
君は今日、どんな一日をすごしましたか?「なにもしない時間」は、ありましたか?
▶佐藤慧著『10分後に自分の世界が広がる手紙』 目次
ほんのすこし大人になった日 / かくれ家は本棚 / ぼくは欠陥品なのかな? / 15才 / 大切な人がいなくなるということ / もっと世界を知りたい! / 旅は終わらない
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