加害の歴史を否定する態度はどこから生み出されるのか? イギル・ボラ監督インタビュー
「攻め込もう!捕まえて殺さないと」。迷彩服に身を包んだ年配男性の集団からそんな声があがったとき、背筋が凍るような思いだった。現在、日本でも公開されている映画『記憶の戦争』で描かれている、韓国でのワンシーンだ。この時、ベトナム戦争で韓国兵に家族を殺害され、自らも心身に深い傷を負ったという、当時8歳だったグエン・ティ・タンさんが韓国を訪れていた。「参戦勇士」と自らを称する、当時ベトナムに派兵された男性たちの一部が、そんな彼女の声を否定し、拡声器で「出て行け」と怒鳴り続け、「自分たちは虐殺をしていない」と言いながらも、彼女の殺害をほのめかすような言葉を平然と口にしたのだ。この「加害の歴史の否定」はどこか、既視感のある光景にも思えた。
グエン・ティ・タン氏の故郷は、ベトナムのリゾート都市ダナンから車で20分ほどの場所にあるフォンニィ村だ。1968年にこの村で起きた凄惨な事件を、当時を記憶する人々の声と共に、イギル・ボラ監督が描いたのがこの映画だ。戦争の歴史は往々にして、男性視点で語られがちだったが、この映画は監督含め、スタッフ全員が女性であることも特筆すべき点だろう。
なぜこの取材をはじめ、映画を通してどのような「記憶」に触れてきたのか。イギル・ボラ監督に聞いた。
―この映画を撮り始めたきっかけは、監督のお祖父さまがベトナムに派兵されていたと知ったことだったと伺っています。お祖父さまから戦争の話を聞いたことはありましたか?
実はほとんど聞いたことがありません。私の祖父は私が二十代前半の頃、ベトナム戦争のときに浴びた枯葉剤の後遺症とみられる癌を発症し亡くなりました。私からも戦争については尋ねる機会がなく、本人も家族には殆ど話していませんでした。
―ベトナム戦争のことは、公教育ではどのように教えられているのでしょうか?
私が学校で習ったベトナム戦争は、朝鮮戦争を経てどん底と言えるほど極貧の韓国が、様々な理由で「豊かになった」という文脈においてでした。つまり、参戦したことによって経済的な発展をした、という教わり方だったんです。その後、民間人の虐殺があったことを教科書の外で知り、大きな衝撃を受けました。
―民間人の虐殺を知ったのはどういったきっかけだったのでしょうか?
私は作家でもありますが、文章を書くことを教えてくれた先生である金賢娥(キム・ヒョナ)氏が、ベトナム戦争中の韓国兵による民間人虐殺について記した本を出版しました(※日本語版では2009年に『戦争の記憶 記憶の戦争 韓国人のベトナム戦争』として刊行されている)。その本を通して知ることになりました。
―戦時中の民間人虐殺は、社会の中でどの程度認知が広がってきたと感じるでしょうか?
本の刊行後、本当にたくさんの報道がなされ、それに関連して「ミヤネヨ、ベトナム」(ごめんなさい、ベトナム)などの運動も起きるようになりました。虐殺が起きたこと自体、今では多くの人が認識していますし、現地に直接出向くなど、多くの人が虐殺を記憶にとどめようとしています。一方で、まだ教科書などで教えられている状況ではありませんし、韓国政府は沈黙し続けています。
―アメリカでは、ベトナム戦争から帰還した米兵のトラウマなどが社会問題化していますが、韓国社会ではどのような受け止められ方をしているのでしょうか?
アメリカではベトナム戦争への反戦運動が広がり、なぜ戦争をしてはいけないのかたくさんの研究がなされてきたと思います。心身に傷を負った兵士たちへの、トラウマ治療のセンターも設立されています(※退役軍人省傘下の米国立PTSDセンターが1989年に設立されている)。
ところが韓国の場合、全くと言っていいほどそうしたものがありません。ベトナム戦争とは一体何だったのか、軍人たちにとっては結論が出せないですし、派兵された人たちの中には、いまだに体の痛みを感じる人もおり、精神的なケアも受けられないままです。自分たちのことを語る機会がないんですよね。この戦争が何だったのか、忘れられたものとして見過ごされてきたように思います。
だからこそ私は映画タイトルを「記憶の戦争」としました。この映画に対する元軍人の反応も様々だったのですが、なぜ自分たちに語る機会を与えないまま、自分たちだけを加害者にするのかと怒りをあらわにする人もいました。市民社会は前に進もうとしているにもかかわらず、政府が沈黙したままでは、当時派兵された人たちは加害者にならざるをえないですよね。そういった元軍人たちの居場所を作ることも大事だと思います。
―映画中では、韓国軍による加害を否定したり、戦争は現地にも韓国にも発展をもたらしたのだ、と美化する元軍人たちも登場します。
ベトナム戦争に派兵された人たちは、20~40代の大切な時期をベトナム戦争に捧げたわけですよね。豊かになりたかったという人もいれば、貧しい家族を支えたいという人もいたでしょう。けれどもそれは、戦後まで続く枯葉剤の影響を受けたりと、体と時間とを犠牲にお金をもらった形だったと思います。
元軍人の間でよく聞かれるのが、「どこかで虐殺はあったかもしれないけれど、自分はやっていない」という声です。虐殺した当事者は沈黙をしているし、「今になって急に殺人者と言われてしまうのか」「豊かになるために行ったのに、どうして加害者扱いするのだ」と、反発する人がいるのも当然かと思います。
一方で市民社会は、この問題を多方面から語ってきました。民間人虐殺がおおやけで語られるようになってから20年を経た今、「虐殺があったのであれば、どの部隊でどんな虐殺があったのか、その真相を調査してほしい」「それによって自分たちの名誉が回復される」という声も元軍人たちから聞かれるようになりました。こうした変化は市民運動が盛んにおこなわれてきたことの裏返しですし、やっとこれだけの時間を経て、歴史を振り返ることができるようになってきたのだと思います。
―民間人虐殺の歴史は、次世代にはどのようにとらえられているのでしょうか?
ベトナム戦争の記憶は三世代に渡ります。派兵された私の祖父の世代、次世代である父の世代、そして三世代目が私たちの世代です。この映画を作り始めた当時は、今ほどフェミニズムが話題になっておらず、女性が戦争に関するドキュメンタリーを作ることに、「あなたに何が分かるのだ」「軍隊にいたこともないのに」「頭の血も乾ききっていない(※韓国での“青二才”のような表現)若い女に何が分かるのだ」と散々言われました。ただ、この5年間で社会の雰囲気もがらりと変わりました。三世代目は戦争を直接は知らないけれど、だからこそ戦争や平和について語れるのではないかと言ってくれる人もいます。
父くらいの第二世代は、自分の上の世代の虐殺が、身近であるからこそ許せないという声を聞きます。ひどいことをしておきながらなぜ沈黙をしているのだ、と。ただ私たちの世代になると、「韓国は日本の被害者だと教えられてきたのに、私たちもベトナムに同じことをしていたんだ」と衝撃を受けるんですね。日本に対して謝罪を要求しているように、自分たちもベトナムに謝罪するべきではないのかという声を多く聴きます。こういった冷静な距離感を保てる世代だからこそ、二度と過ちを犯さないために謝罪すべきでしょう、と距離感を持ってみることができます。時間が経つということは忘れていくことにもつながることですが、時間が経っているからこそ、別の見方を持つことができるのです。
―韓国兵がベトナムで行った残虐行為と、日本兵がかつて植民地時代に行った加害とは、地続きになっていると感じることはありますか?
日本が植民地支配をしているとき、日本の残虐な行為を見た韓国の人々は、どんな風に虐殺し、どんな風に抑圧すれば、相手が服従するのか、ということを目の当たりにしてしまっていると思います。それを、ベトナムでそっくりそのまま、同じことをしたと解釈している人たちもたくさんいます。さらには1980年5月18日に韓国国内で起きた、光州での民主化運動の弾圧も、それを踏襲してしまっていると見る人もいます。こうして暴力や虐殺は転嫁されていくと思いますし、歴史の中での過ちを見つめることで、断ち切らなければなりません。
―今回の取材は、「加害者」の国から来た人たちということになると思います。コミュニケーションをとる上でどんなことに気を配っていましたか。
民間人の虐殺は、現在進行形の問題ですよね。現地の人たちが「撮ってもいいですよ」という気持ちになるまで、関係を築いていくことからはじめました。スタッフは女性たちだけで、比較的小さなカメラを持っていたので、距離を縮めやすかったのかもしれません。
私としては単に相手を「戦争の被害者」としてだけ描きたくはありませんでした。被害者ではあると同時に、新たな記憶を作ろうとしている当事者でもあるので、その点を映画の中で重点的に描こうと思っていました。
―日本で映画が公開され、どんなメッセージが伝わればと思っていますか?
「韓国人による民間人虐殺を、どうして日本人が見る必要があるのか」と思う人もいるかもしれませんが、これはつながっている問題だと私は思っています。当時ベトナムで虐殺があったということは事実ですし、ベトナム戦争によって外貨を稼いだことも事実ですが、それは一国の問題に留まりません。周辺国でも何かを奪われ被害を受けた人たちもたくさんいましたし、韓国の問題に留まらない問題としてとらえて頂けたらと思います。
その上で、周辺国が共に過ちを振り返ることができればと思っています。日帝時代に韓国人が残虐な行為を受け、同じことを韓国軍がベトナムや韓国の自国民に行ってしまったことを考えると、やはり暴力というものは巡ってしまうものだと思います。
映画の中には、「民間人虐殺の真相究明を求める市民平和法廷」のシーンがありますが、これは日本で行われた市民法廷(※2000年に開催された国際的な民間法廷、日本軍“慰安婦”女性国際戦犯法廷)をロールモデルにしています。そういう点でもつながっているところがあると思います。歴史を知り、反省し、前に進むためにも、互いにいい影響を与え合えたらと思っています。
「韓国は日本に謝れと言いながら、自分たちも謝っていないではないか」という声も大切だと思います。そこから、「自分たちが何をすべきなのか」と自らに問いかけてもらえたら嬉しく思います。
映画「記憶の戦争」上映情報は、公式サイトをご覧下さい。
(2021.11.15/インタビュー 安田菜津紀)
あわせて読みたい
■ 二度と、このような歴史が繰り返されないために アウシュビッツ博物館ガイド、中谷剛さんインタビュー[2020.8.19/佐藤慧]
■ 被爆と出自、70年近く隠し続けた。今なぜ、自身の名で被爆体験を語るのか。[2021.8.5/安田菜津紀]
■ 人との確かなつながりで、私はどんな武器よりも強くあれる -映画『娘は戦場で生まれた』ワアド監督インタビュー[2020.3.5/安田菜津紀]
Dialogue for Peopleの取材や情報発信などの活動は、皆さまからのご寄付によって成り立っています。取材先の方々の「声」を伝えることを通じ、よりよい未来に向けて、共に歩むメディアを目指して。ご支援・ご協力をよろしくお願いします。