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困難の中を生きるすべての人々に、温かな太陽を(ガザ地区現地レポート)

本記事はパレスチナ、ガザ地区在住の取材パートナー、Amal(アマル)さんによる現場からのレポートです。



Amalさん
パレスチナガザ地区・D4P現地取材パートナー

雨は、空から滴るアッラー(神)の恵みだと人々は言います。自然を育み、作物に滋養を与え、空気の汚れも洗い流してくれます。雨は、大地に暮らす人間への、天からの贈り物なのです。冬になり雨が少なくなると、ムスリムの人々は集い、神に祈ります。もっと多くの雨を降らせてくださるようにと。

ところが、雨がいつも人々への“恵み”であるとは限りません。ガザ地区に暮らす人々は、雨が近付くと、アスベストの天井の亀裂から染み込む雨漏りに備え、鍋やお皿を用意します。酷いときには、屋根に開いた穴から直接雨が降り注ぐこともありますし、もっと大変なケースになると、玄関や窓からも容赦なく水が侵入してきます。壊れた家やインフラが放置されているため、人々は屋内にいるのに、冷たい水の中で泳がなければなりません。

ある家族が、こんなことを言っていました。「世界のほかの地域に暮らす人々は、『海へ行こう』と出かけていくけれど、ガザでは海の方から家にやってくる」と。笑ってしまいそうな言葉ですが、それは本当に大変なことなのです。

これは貧困家庭に限ったことではありません。これまでに何度も大変な爆撃を受けてきたガザ地区では、亀裂の入っていない家などほとんどないのです。人々は、雨が降り、天井から水が滴る様子を見て、そのひび割れに気付きます。また、あまりにも壁が冷たくなっていることを怪訝に思い、壁面に亀裂が走っていることを知るのです。私の家も例外ではありません。昨年5月の空爆以来、我が家の天井も雨漏りするようになりました。

ガザ市内、昨年5月の空爆で破壊された建物。

「イスラエル地震」に怯えながら

酷い雨の時には、街の通りも、まるで川のようになってしまうことがあります。雨の量が多いときには、80センチ以上も水が溜まり、みるみるうちに泥水の濁流となり、通行不能になってしまうのです。そんなときは、もちろん学校もしばらく休校になります。

冬季には、厳しい寒さにも直面します。ガザ地区では、冬には気温が氷点下近くまで下がります。けれど、電気やガスの不足により、暖房器具を使用できないのです。できることといえば、なるべく多くの衣服を重ね着することぐらいです。冷たい水シャワーを浴びたあとには、体が温まるまでぶるぶると震えているほかありません。仕方なく、家の中で火をおこすこともありますが、一酸化炭素中毒を引き起こす可能性もあり、とても危険です(亀裂だらけなので、危険は少ないかもしれませんが)。

私には子どもがいるので、停電している時は彼を抱きながら毛布を被ります。彼はじっとしていることが苦手で、すぐに毛布から出たがるので、仕方なくスマートフォンでアニメを見せて、じっとしているようにとあやします。本当は、こうやって液晶画面をあまり見せ続けないほうがいいのでしょうが、寒さに凍えるよりはましでしょう。

こうした亀裂を修理するのは簡単なことではありません。なぜなら、それは天井や壁だけの問題ではなく、ビルの土台そのものの問題だからです。

先日の戦争で、イスラエル軍は特殊なミサイルを使用したようでした。そのミサイルは、地中深く侵入し、そこで爆発するのです。通常の爆発音は聞こえないのに、大きな振動を引き起こします。それはまるで大地震のようでした。ガザでは地震による災害は滅多に起こらないため、建築物は地震に対応するように設計されていません。私たちは空爆の下で、「イスラエル地震」に怯えながら過ごしました。

雨が続くと水没してしまう道路。

20世紀に取り残されてしまった街

戦争が起こるまでは、私の住んでいるガザ市は、地区内の他の街やキャンプより、快適で過ごしやすいところでした。ところが、昨年5月の空爆は、ガザ市のメインストリートに狙いを定め、病院や学校、各省庁などへと続く道が、ことごとく破壊されてしまったのです。

本当なら、このような悲しい出来事ばかりではなく、この地で採れる旬の野菜や果物、たわわに実ったシトラスや、自慢のイチゴのお話などをしたいのですが……残念ながら、私はここで困難を抱えて生きる人々の声を、代わりに届ける必要があります。私は自然の厳しさを嘆きたいのではありません。占領や貧困、政府、国際組織、そして、こうした現実を知りながらも何も行わない(できない、ではなく)人々に対して憤りを感じるのです。

イスラエルによる軍事攻撃のたびに、ガザ地区は何十年も歴史を巻き戻されるようだと感じます。戦争後、やっとのことで復興を遂げ、インフラや経済が整ってきた頃に、またも空爆により、街々が破壊され、何度も、何度もリセットされるのです。これまでにも、国連や様々な国際NGOが、ガザの状況を改善しようと働いてきました。ところが、戦争のたびにガザは破壊され、人々は命を落とし、そうした支援活動も振り出しに戻されてしまうのです。緊急援助を終え、人々のエンパワメント事業などを行おうと思った矢先に、また破壊されてしまうのです。まるで私たちは、永遠に20世紀に取り残されてしまっているかのようです。

災難ではなく、恵みとして受け取りたい

この文章を執筆している最中に、悲しい知らせが届きました。悪天候の中、地中海へと漁に出た45歳の漁師が、命を落としてしまったというのです。そんな天候の中、漁へ行くのは危険だと誰もが知っています。ところが、ここではいつでも自由に漁に出られるわけではないのです。イスラエルが、ガザの海ですらも掌握しているのですから。漁に出ることを許される日は限られていますし、岸から離れ過ぎると撃たれてしまいます。その日は酷い天候でした。それでも彼は、漁に出るしかなかったのです。家族がお腹を空かせて待っていますから。

繰り返しになりますが、私は“天候”を責めているわけではありません。そのようなリスクを取らざるを得ないほどに人々を追いつめる、イスラエルによる封鎖・占領行為を非難しているのです。

パレスチナ、そしてガザ地区には過ごしやすく温暖な季節もあります。ただ、ガザの環境が、そうした自然の喜びを感じさせなくしているのです。もし何も心配なく、シーズンごとの魅力を感じながら過ごすことができたら――天から降り注ぐ雨を、災難ではなく、恵みとして受け取ることができれば、なんと幸せなことでしょう。

私は2019年10月に、短期間だけ日本を訪れたことがあります。ちょうど強烈な台風が吹き荒れている季節でした。私はそのような暴風を経験したことがないので、とても恐ろしかったことを覚えています。当時私を受け入れてくれたご家族のお母さん(私は彼女を“日本の母”と呼んでいます)が、「明日にはすべて過ぎ去って良い天気になるから心配しないで」と言いましたが、私には信じられませんでした。これだけの暴風と豪雨ですから、きっと何時間かすれば、木造の住宅なんて跡形もなく吹き飛んでしまうと私は思いました。きっと私もおぼれ死んでしまうんだと、夜も怖くて寝られませんでした。

ところが、翌朝の天気といったら、信じられないような快晴だったのです! お母さんの言っていたことは本当でした。通りは完全に乾いていて、壊れた家もありません。人々は昨夜の台風のことなど覚えていないかのように、陽射しを浴びながら外を歩いています。まるで私ひとりが、昨晩悪夢を見ていたのかと思うほどでした。その光景を見ながら私は、ガザでの日々が、日本のように安心して朝を迎えられるものであればと、強く、強く思いました。

温かな太陽が、困難の中を生きる人々すべてに降り注ぐことを、心より願っています。

地中海に沈む太陽。沖に出る自由はない。

(2022.3.25 / 文・写真 Amal 翻訳・構成 佐藤慧)


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