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取材レポート

2021.12.14

Worstを選ぶ代わりにBadを選ぶ――ガザへの帰還 (ガザ地区・現地レポート後編)

安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

安田 菜津紀Natsuki Yasuda

佐藤 慧 Kei Sato

佐藤 慧Kei Sato

安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

安田 菜津紀Natsuki Yasuda

佐藤 慧 Kei Sato

佐藤 慧Kei Sato

安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

安田 菜津紀Natsuki Yasuda

佐藤 慧 Kei Sato

佐藤 慧Kei Sato

2021.12.14

取材レポート #戦争・紛争 #人権 #パレスチナ

本記事はパレスチナ、ガザ地区在住の取材パートナー、Amal(アマル)さんによる現場からのレポートです。



Amalさん
パレスチナガザ地区・D4P現地取材パートナー


深夜3時にエジプト、カイロの宿に到着した私たちは、そのまま倒れるようにして眠りにつきました。しかしここはまだ、旅の途上でしかないのです。

屈辱の道を通って――ガザ地区からトルコの兄の結婚式へ(ガザ地区現地レポート/前編)

翌朝目が覚めると、私たちはシャワーを浴び、すぐにトルコ行きの飛行機を探し始めました。しかし高額なチケットしか見つかりません。事前に航空券を予約することができたら、もう少し安いものもみつかったかもしれません。けれど私たちガザに暮らす人間からしたら、数日後の予定ですら不確かなものなのです。ガザでも、そして検問所でも、あれだけ多くのお金を払ってきましたが、それでも何が起こるかわからないのです。

ゲートに残してきた弟が出てくるのを待ち2日が経ちました。弟はどうやら、ゲートから直接空港へ移送されたとのことです。彼はその場で航空券を買わなければならなかったため、とても高いチケットを購入するしかありませんでした。それでもとにかく、弟が無事にトルコに着いたことを確認でき安心した私たちは、翌日の航空券でトルコへと向かいました。

先に出発していた母や、後からガザ地区を出た親族たちが、無事全員トルコに着いたのは7月25日のことでした。トルコに住む兄に合うのは7年ぶりのことです。7年前の兄は、イスラエルの空爆により大怪我を負い、悲痛な面持ちで車椅子に乗りながらトルコへと出国しましたが、再会した兄は、別人のように元気いっぱいでした。彼は母親となった私を見てとても喜んでくれました。私も健康そうな兄の姿に泣いてしまいそうでした。兄は「この日をとても待ち望んでいたよ! まさか本当にこうして実際に会えるなんて、夢のようだ!」と大喜びでした。

トルコ最大の都市、イスタンブール。

エジプトでは色々大変な目に会いましたが、トルコは快適でした。私にとって、夫との初めての旅でもあり、子どもを連れた初めての家族旅行でもありました。ガザから来た私の親族は、みなそれぞれ野宿を強いられたり、役人に理不尽な扱いを受けたりと、大変な目に遭っていました。こうしたことが日常茶飯事となっているため、ガザの人々は、「ラファ検問所」を通ることに対して良い印象を持っていません。病人であれ、子どもであれ、みな屈辱的な扱いを受けるのです。そこには、私たちガザに生きる人々も「同じ人間だ」という慈悲はありません。多くの人々が、より良い環境を求めエジプトへ抜け、そこから他の国々へと向かっていきますが、そうした人々のほとんどは、二度と故郷に帰ってくることはありません。一時帰省のつもりでガザに帰ってきたところで、再びガザから出られるという保障はないのですから! 私の兄は現在、トルコでジャーナリストとして働いています。彼もまた、そうした不安から、ガザに帰ってくることはできないのです。
 

世界各地から集まる親族たち

ドイツに住んでいる私の姉が、彼女の家族と一緒にトルコへやってきたのは、兄の結婚式前日のことでした。こうしてついに、私たち親族は8年ぶりにみな一堂に会することができ、長年の夢が叶ったのです! 結婚式は素晴らしいものでした。子どもたちも大喜びで、両親は孫に囲まれ、兄の姿に涙しました。多くの人が亡くなった5月の空爆は、私たちの心身を酷く傷つけましたが、その痛みが癒えていくような時間でもありました。たくさんの笑顔、思い出、写真……それらは、今後ガザ地区で生きていく私たちの大きな支えとなることでしょう。

結婚式

8年ぶりに親族が一堂に会した結婚式。〔Amalさん提供〕

サウジアラビアで生まれた私のいとこたちは、以前「ラファ検問所」が今よりも通過しやすかった頃に、ガザ地区まで遊びに来てくれたことがあります。彼らは今、トルコに留学をしています。他のいとこは、より良い生活や職を求めてベルギーへと移り住んでいました。もうひとりの才能あふれるいとこは、元々ガザ地区で国連関係機関に勤めていましたが、アメリカのトランプ政権がUNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)への資金提供を凍結した(※)ことで、やむなくトルコへと移住し、今はトルコで働いています。

(※)トランプ政権によるUNRWAへの資金提供の凍結
イスラエルとの関係を重視した米国トランプ前政権は、UNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)への資金提供を2018年に凍結した。その影響により関連する多くのプロジェクトが困難に直面したが、バイデン政権となった2021年、アメリカ政府は日本円にして約260億円の資金を拠出することを表明した。

こうして素晴らしい結婚式も無事終わり、親族もドイツやベルギーへと帰っていきました。ドイツやベルギーの国籍を持っている彼らは、数時間もすればそれぞれの国に到着していることでしょう。なにしろ、ガザ地区のように封鎖されているわけではないのですから! 私は彼らをうらやましいと思っているわけではありません。けれど、ガザ地区の生活は、なんて厳しいものなのだろうと思うことはあります。

トルコ国内に暮らす他の親族もそれぞれの家へと帰っていき、残るは私たち、ガザから来た家族だけとなりました。ビザは1カ月しかありません。そして8月15日、ついに私たちは帰路へと着きました。しかしその旅路もまた、簡単なものではなかったのです……。
 

まるで捨てられた犬のように

ガザから来た私の姉とその家族は、一足先にエジプトへと飛んでいましたが、私が合流するまで待っていてくれました。私の夫は仕事の関係で、数日前に先にガザへと帰っていたため、私が赤ん坊とふたりで検問所を通ることを心配した姉家族が、一緒に検問を通ってくれることになったのです。

最初の検問は、スエズ運河を渡るものでした。通常であれば、5分もかからずに通れる検問です。ところがその時は、場合によっては3日もかかるという難所となっていたのです。検問は車で通過するのですが、1日に通過できる車の台数が、40台に制限されていることがその原因でした。ゴミだらけで異臭のする道路には、長い車の列ができていました。私たちは夜10時にその検問に着いたのですが、通過できたのは夜中12時のことでした。ただし、翌日のですが……。

そこから先の道も、私の赤ん坊にとっては本当に酷い環境でした。肌を焼くような暑さに、異臭漂うゴミの山、そこから湧き出てくる多くの虫……。検問のたびに職員は私たちのバッグや荷物を開封して調べました。それもとても乱暴なやり方で、何度も、何度もです。彼らは私たちの携帯に保存してある写真までチェックしました。検問所職員の人々に対する態度はとても酷いものでした。彼らは、そうして散らかしたバッグの中身を、「1分以内にしまえ!」と怒鳴り、あたふたしている私たちを見ながら笑っているのです。中には難癖をつけられて、電気製品や香水、スマートフォンや薬、おもちゃなどを取り上げられてしまう人々もいました。そうした人々は、訴えることもできず泣き寝入りするしかありません。なぜ私たちはこうも尊厳を傷つけられなければならないのでしょうか。15個ものゲートを通過する道中、私たちはどんなに怒鳴られても、荷物を乱暴に扱われ、ときに奪われても、じっと耐え忍ぶしかありませんでした。

車の列

いくつもの検問所へと続く道路はゴミで溢れていた。〔Amalさん提供〕

やっとのことで「ラファ検問所」にたどり着いたのですが、検問所の職員は「外で待て!」と言います。「コンピューターの調子が悪い」というのですが、彼らはいつもそのようなことばかり言っています。結局私たちは、日陰もない炎天下で3時間以上も立ち続けていなければなりませんでした。赤ん坊の顔がどんどん青白くなっていく様子を見て、私は心配でなりませんでした。「この子をこんな大変な目に遭わせてしまうなんて、ガザを出てきたことは間違いだったのかもしれない……」と、私はこの旅を後悔し始めました。かさかさに乾ききった大地に、私たちはまるで捨てられた犬のように立ち続けました。

数時間後、やっとのことで私たちはホールへ入ることを許されました(Hall〔ホール〕というよりは、Hell〔地獄〕と呼ぶほうがしっくりきますが)。薄汚れた待合室で、私たちはまたバッグや荷物の検査を受けました。人々は整列して順番を待っているのですが、荷物チェックをする役人はひとりしかおらず、しかも3人調べるごとに一休みしてタバコを吸うのです。もう何時間も待たされている人々の中には、ついに堪忍袋の緒が切れて職員に怒りをぶつける人もいましたが、そういった人々はすぐに取り押さえられ、パスポートを奪われてしまいました。彼らがその後どんな処置を受けることになるのか、私にはわかりません。

そのホールを出るためには、私たちはまた多くの賄賂を支払わなければなりませんでした。何時間もかけてガザ地区側の検問所に到着すると、職員たちはとても親切で、「エジプト側では大変だったろう」と、ねぎらいの言葉をかけてくれました。彼らは、私たちガザの人々が検問でいかに理不尽な扱いを受けるか、十分理解していたのです。パスポートにスタンプが押され、やっと私は人間として扱ってもらえたという安堵のため息を吐きました。
 

Worstを選ぶ代わりにBadを選ぶ

自宅に戻れたのは17日深夜のことでした。2日に渡る「屈辱の道」による心身の疲労により、私はその後10日間近く寝込んでしまいました。けれどそれで全てが終わったわけではありません。私より後にトルコを出発した両親が、エジプトで足止めをくらっているというのです。エジプト政府が、事前の通告もなく「ラファ検問所」を突然閉じてしまい、多くの人々がガザ地区に帰れず野宿を強いられていました。両親は幸運なことに、まだ検問所に向かう前にその情報を得ることができたため、ホテルで待機することができましたが、行く当てもない人々の多くは、その後数日間に渡り路上で夜を明かしたといいます。両親が検問を通過し、ガザに戻ってこれたのは、それから5日後のことでした。

私たちの経験したことは、他の人々と比べて「極めて幸運なこと」だったようです。同じように「ラファ検問所」を通過したことのある人々の話を聞くと、より過酷なものばかりでした。こうした状況のため、ガザに戻ってきた人々は、その旅先の思い出よりも、往復の過程の方が強い思い出として刻まれてしまいます。私も同じです。友人たちにこの旅について話すとき、トルコでどんな素晴らしい結婚式があったか、街の様子はどうだったかということではなく、いかに理不尽な、屈辱的な扱いを受けたかということを話してしまいます。まるで幸せな思い出が、すっかり上書きされてしまうかのように……。

なぜ私たちは、ガザ地区に生まれたというだけで、こんなにも酷い扱いを受けなければならないのでしょうか。空爆に怯え、未来への展望も描けず、愛する家族にも自由に会えません。一歩ガザの外に出ると、まるで犬のように扱われます。ですが残念ながら、こうした状況に慣れてしまったガザの人々は、こう言うのです。「最悪の時に比べたら、ずいぶんマシさ」と。そう、私たちはWorst(最悪な状況)を選ぶ代わりにBad(悪い状況)を選ぶことに、慣れすぎてしまっているのです。けれど私たちにも、Better(より良い状況)を選ぶ権利はあるのではないでしょうか。

2001年、イスラエル軍の空爆により破壊されたガザ地区の空港跡。

(2021.12.14 / 文 Amal 翻訳・写真〔提供の記載のあるもの以外〕 佐藤慧)

 
 


 
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