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【取材レポート】イラクの「広島通り」 化学兵器攻撃を受けたクルドの人々

街で起きた悲劇を語ってくれたサイード・カカさん。亡くなった母たちの名前が刻まれたモニュメントが並ぶ丘の上で。

イラク、バグダッドから北東約260キロ、北部のクルド自治区の中でも東端に位置するハラブジャ。中心地に広がる小さなマーケットに人々がのんびりと行きかい、一見のどかな田舎の街並み、という印象を受ける。けれどもこの地は1988年、イラク軍によって投下された化学兵器によって、一瞬にして地獄と化したという。

丘から見下ろしたハラブジャの街

ハラブジャは1980年から続くイラン・イラク戦争の最前線の街の一つだった。当時、自治権獲得のため長らく政府に挑み続けていたイラク国内のクルド人組織を、イランは支援し、イラク政府に揺さぶりをかけた。長引く戦闘の中で苦境に立たされたサダム・フセイン率いるイラクは、1988年2月から9月にかけて、クルド住民たちの掃討作戦「アンファール作戦」を決行する。“アンファール”とは「戦利品」を意味する『コーラン』の中の言葉だ。この作戦によってわずか7カ月あまりの間に、5,000以上の村々が破壊され、犠牲になった人々は18万人にものぼるとされている。「ハラブジャの悲劇」は、その最中に起きた。

夕暮れ時のハラブジャ市内中心地

1988年3月16日、住人たちは自宅や防空壕に身を潜めながら、飛び交う砲弾が去るのを待っていた。そして夕方前、轟音と共に数機の爆撃機が、次々とハラブジャへと爆弾を投下した。空気よりも重いサリン系のガスが、住人たちが逃げ込んでいた地下室に充満した。
ガスを吸った住人たちは激しく咳き込み、痙攣し、泡を吹いて倒れ、街には人間から動物まで、あらゆる遺体が散乱した。当時、化学兵器についての情報はなく、逃げまどい疲れ果てた住人たちが、毒された川の水を飲み亡くなっていった。意識を失った父親を背負い、まだ雪残る山へと逃げ込んだある男性はこう語る。「この世の終わりだ、と思わざるをえなかった。なぜなら目の前にいる最も愛する人を、この手で救えないのだから」。亡くなった住人たちの数は当時の街の人口の1割を超える、約5,000人に及ぶとされている。誰しもが家族を亡くし、「まるで街全体が孤児院のようだった」と彼は語る。

博物館内でガイドをする方々は皆、当時を生き抜いた人々だ

その悲劇を語り継ぐハラブジャ市内の平和博物館には、慰霊碑の並ぶ静かなホールがある。16面になっている壁は3月16日を、19.88メーターの高さは、1988年を象徴する。頭上高くまでびっしりと並ぶ犠牲者の名前は家族ごとに区切られていた。ひときわその数の多さが目立つのが、24人の名が連なるサイード・カカさん(51)の家族だ。サイードさんはこの平和博物館で伝承活動を続けている生存者の一人だ。「あれが母、その次が兄と、その子どもたちです」。一人一人の顔を思い浮かべるように、サイードさんは壁に刻まれた名前を噛みしめながらゆっくりと読み上げていく。

慰霊碑の並ぶホール

亡くなった家族の名前をサイードさんが読みあげていく

市内の小高い丘には、当時の犠牲者たちの墓地がある。峠には名前が刻まれた墓石が並ぶが、これは飽くまでも「モニュメント」でしかない。「ここを見てほしい」とサイードさんが示した先には、巨大な棺のような石に、「1,500人の犠牲者」という文字が綴られていた。「ここには誰の遺体か判別ができなかった人間たちがまとめて埋められているんです。きっと母たちもこの中にいるのだと思いますが、それも定かではありません」。唇を噛むサイードさんの浮かべた表情には、それぞれの名があったはずの家族が、数字に置き換えられてしまうことへの悔しさがにじんでいるように思えた。

小高い丘の上に作られた、犠牲者の方々の墓地と名前の刻まれたモニュメント

サイードさん自身は1988年、ハラブジャから西に150キロほど離れたキルクークの大学で機械工学を学んでいた。当時はまだ二十歳、学ぶこと全てが新鮮だった。当時は今のように通信手段が豊かだったわけではない。3月16日から2、3日経った頃、街中に噂が流れ始める。どうやらハラブジャが大変なことになっている、人々はイラン側に逃れているらしい、と。即座に頭を過ったのは、両親や兄弟たち、そして3か月前に結婚したばかりの妻の安否だった。

ところが家族が逃れているであろうイラン側へ渡る許可はおりず、ただ焦りばかりが募っていった。それから4カ月が過ぎた頃、ようやく密輸業者を頼って切り立った山を越えた。しなびたテントがひしめき合う難民キャンプで、最初にいとこの姿を見つける。「父や母は、妻は…?」。まくしたてるようにそう尋ねると、しばしの沈黙の後、「病院にいるんじゃないだろうか」と、いとこはうつむいたまま、小さく呟いたという。彼は到底言えなかったのだ。母親をふくめ、サイードさんの家族の殆どが亡くなったことを。サイードさん自身もまさか、24人の命が奪われたことなど、この時まだ想像すらしていなかった。

サイードさんのお母さん。残された数少ない写真の一枚

「幸い父や妻は無事でした。それからしばらくは、難民キャンプで暮らすことになりました。土の上に簡易なテントを並べただけで、寒さや暑さはしのぎきれませんでした。水食糧もすべて不足していてね」。時には40センチ近く積もる雪から飲み水を得ることもあったという。ようやくハラブジャに戻ってこれたのは、それから3年後のことだった。
サイードさんの現在の自宅は、閑静な住宅街の一角にあるこじんまりとした二階建ての家だった。小さな中庭の上には、これから実をつけるであろうブドウのつるが青々とした葉を茂らせていた。

リビングには今年で87歳になる父、カカ・シェイフさんが静かにソファーに座っていた。握ったしわしわの手は温かく、私たちを出迎えるその目はしっかりと相手を見据えていた。腰もまがり、体の自由は利かなくなった、と苦笑いしながらも、その言葉は鋭い問いかけばかりだった。「ガスを吸ってすぐに気を失ったので、あの日について語れる記憶がないんだ」。意識を失ってから20日間眠り続け、気が付けばイラン側の病院の上だったという。

リビングで家族と談笑するカカ・シェイフさん(左)

当時の政権寄りの新聞は、アンファール作戦の一部始終を「戦果」として堂々と報じている。化学兵器に関しても、イラク政府は肯定も否定もしなかった。つまり、事実上認めていたのだ。それを欧米諸国が気づいていなかったはずはないだろう。むしろ化学兵器製造への、欧州企業の関与も指摘されている。

“戦果”を報じ続けていた当時の新聞

けれども親米政権が覆えされたイランの「イスラム革命」を受け、欧米諸国はその革命が周辺国に波及することを恐れていた。だからこそイラクのサダム政権側に肩入れしてその“余波”を食い止め、そして戦後の「復興特需」で得られる利益を狙ったのだ。こうして、虐殺は見過ごされてきた。

カカ・シェイフさんは語る。「アメリカほどの大国だ。その気になれば止めることができたろう。だが、止めたくなかったから繰り返されたのだ。彼らの自国の利益が、我々の人命を上回ったのだよ」。

この日、サイードさんのお宅で、お昼ご飯をご馳走になった。サイードさん自ら腕をふるったという羊の肉が入ったスープと、「皆、ハラブジャで作られたものなんですよ」という、自慢の新鮮な野菜が食卓に並んだ。けれども食事を囲む度、サイードさんは複雑な気持ちを抱くのだという。「今でもふと、食卓を囲むと思い出すことがあるんです。我々はあれほど大きな家族で、皆食事を共にしていたのに、なぜ彼らはここにいないのだろうか、と」。

サイードさん一家と囲んだ昼食

ハラブジャではいまだ後遺症に苦しむ人々もいれば、「ハラブジャ出身」というだけで結婚差別に遭う女性たちもいるという。理不尽に多くの市民の命が奪われ、その後もこうして苦しみが続いたという意味では、広島、長崎の原爆被害に重なるところがある。1932年生まれのカカ・シェイフさんは、1945年に広島、長崎に原爆が投下されたニュースに触れたことをおぼろげながらに覚えているという。実はハラブジャ市内には、「広島通り」と呼ばれる道がある。

街の中心街を走る「広島通り」

「ハラブジャから広島への祈りを伝えよう」と、3年ほど前から人々がそう名付けたのだそうだ。毎年のように8月、日本に向けた祈りの集いを開いている。
「これまでクルディスタンに、欧米やロシアの兵器が使われたことはあっても、日本の兵器が使われたことは一度もないはずです」とサイードさんは強調する。父のカカ・シェイフさんもこう語る。「ハラブジャから日本に祈っているように、日本からもハラブジャに祈ってほしい。“人権”とは、行動が伴わなければただの“言葉”で終わってしまう。こうして輪を広げ、友が増えれば、自然と敵も減っていくのではないだろうか」。

「Heroshima」の文字を、毎日多くの人々が見ながらここを通っていく

こうしてハラブジャの声を伝えることをもって、ただ化学兵器の使用のみを非難したいのではない。世界が見過ごしたこの悲劇を顧みないままでは、今の惨事を止めることができないのではないかという思いがあるのだ。10月9日、シリア北部に暮らすクルド人たちを標的にトルコが軍事作戦を開始した。これまで過激派勢力「イスラム国」の掃討作戦でクルド人たちを支援してきたアメリカが、「撤退する」と表明した直後の出来事だった。ハラブジャをはじめイラクのクルド自治区内でも、「クルド人は使い捨てなのか」と抗議の声があがった。大国の思惑に翻弄され続けるのはいつも、市井の人々であり続けている。その現実とどう向き合うべきなのか、歴史は常に、私たちに語りかけている。

(2019.10.21 /写真・文 安田菜津紀)


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