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3月11日、東京の保育所で亡くなった小さな命のこと

date2020.3.10

writer安田菜津紀

categoryエッセイ

東日本大震災から9年という月日が経とうとしています。多くの方が、東北で亡くなられた人々の命を悼む3月11日、もう一人、私の中で思いを馳せたい男の子がいます。

関連記事:企業内保育所、質は誰が担保するのか 働く親の「最後の砦」、復職への強制力にも(外部サイトへリンクします)

2016年3月11日、1歳2カ月だった甲斐賢人くんが、東京都内の認可外保育所で亡くなりました。別室で一人、うつぶせのまま長時間、呼吸を確認されないまま寝かされていたことが明らかになっています。

亡くなった日に身に着けていた衣服は、蘇生のために切られた状態で両親の元に戻ってきた。

都の検証委員会の報告書によると、事故が起きるまで、様々な要因が絡み合っていたことが分かっています。当時の施設長さんは保育経験が通算で3年3カ月、ほかの職員さんたちも同様にまだ経験が数年の保育士さんたちだったといいます。困ったとき、問題が起きたとき、本社に十分に相談できる体制も整えられていませんでした。

子どもたちの安心、安全を守るためには、保育士さんたちの待遇が改善されるべきでは、ということが以前から指摘され続けています。ところが営利企業が参入していく際、経費を削るため、人件費を削減してしまうことがあります。そして人件費が削られれば、ベテランの保育士さんたちは集まりにくくなる、という悪循環が生まれてしまうのです。加えて保育所の満杯状態が続き、保護者さんたちに「より安全な保育所を」という選択肢は限られてしまっているのが現状です。

賢人くんの親御さんに、生前の様子を伺ったことがあります。好奇心旺盛で、家族にも、道端で出会う人にもにこやかに接している様子が、残されていたビデオや写真から伝わります。親御さんの悲しみの深さは、賢人くんに対する愛情の深さの表れでした。

賢人くんの靴には、一生懸命に歩んでいた、その痕跡がしっかり刻まれていた。

なぜ、賢人くんは、本来「安全」な場所で亡くなってしまったのか。事故の真相は中々家族の元には届きませんでした。だからこそ悲しみの中でも、事故後の聞き取りや調査を親御さん自身が行わなければならなかったといいます。深く傷ついた親御さんたちに、さらなる負担を強いてしまったのです。

賢人くんが亡くなってからの4年という月日の中でも、保育所での事故は相次いでいます。

私たちは被害に遭った方々を、二度苦しめてはならないのだと思います。一度目は事故そのもの、二度目は同様の事故が繰り返されたときに、「自分たちの教訓は活かされていなかったんだ」と苦しむときです。

子どもの問題の当事者は、大人でもあります。賢人くんのご冥福を心より祈るとともに、子どもたちの安心安全が守られる環境を築くための取材を続けていきたいと思います。

2019年12月、賢人くんのお誕生日に、親御さんが用意したケーキ(ご家族提供)

(2020.3.10/写真・文 安田菜津紀)
※本記事はCOMEMOの記事を加筆修正し、転載したものです。


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