For a better world, beyond any borders.境界線を越えた、平和な世界を目指して

Top>News>それは、誰のための希望なのだろう

News

Essay

2020.2.28

それは、誰のための希望なのだろう

安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

安田 菜津紀Natsuki Yasuda

佐藤 慧 Kei Sato

佐藤 慧Kei Sato

安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

安田 菜津紀Natsuki Yasuda

佐藤 慧 Kei Sato

佐藤 慧Kei Sato

2020.2.28

Essay #Yasuda #Tohoku

東日本大震災から間もなく9年という月日が経とうとしています。2011年3月を振り返り、今でも鮮明に、思い出す出来事があります。

震災後に私が向かったのは、岩手県の沿岸の街の中で一番南に位置している、陸前高田市でした。私自身は神奈川県の出身です。ただあの当時、夫の両親がこの街に暮らしていたのです。

見渡す限り瓦礫に覆われた市街地を前に、ただ茫然と立ち尽くしました。義理の父は勤めていた病院の4階で首まで波に浸かりながらも、一命をとりとめることができました。けれども一カ月後、義理の母の体が、川を9キロ上流にさかのぼった瓦礫の下から見つかりました。義母は9km濁流に流され続けてもなお、家族のように大切にしていた2匹の犬の散歩紐を、しっかりと握りしめたままでした。

これだけの悲しみに覆われた街で、一体何を発信すべきなのか、私には分からなくなっていました。自分がどれほどシャッターを切ったとしても、瓦礫がどけられるわけではありません。避難所の人たちのお腹を満たすことも出来ないのです。

そんな中で何とかシャッターを切ることができたのは、後に“奇跡の一本松”として知られる松でした。かつては日本百景にも数えられていた「高田松原」は、「7万本もの松林」として地元の誇りだったといいます。それがほとんど更地になってしまった中で、唯一津波に耐え抜いたのが“一本松”でした。瓦礫に囲まれながらも、朝日の中で真っすぐに立ち続けるその姿に、私は夢中でシャッターを切り続けました。この松はきっと、人に力を与えてくれる存在になるはずだ、と。

後にその写真は「希望の松」というタイトルと共に、新聞に掲載されることになりました。「ようやくこの街のことが伝えられる!」私は真っ先に義父にその記事を見せにいきました。

ところが父は険しい表情でこう語ったのです。

「あなたのように、7万本だった頃の松原と一緒に暮らしてこなかった人間にとっては、これは“希望の象徴”のように見えるかもしれない。だけど以前の松原と毎日過ごしてきた自分にとっては、波の威力を象徴するもの以外の何物でもない。“あの7万本が1本しか残らなかったのか”って」。

見ていて辛くなる、できれば見たくない、と。

父の言葉にはっとさせられました。自分は一体、誰のための希望をとらえようとしていたのだろう。この地に生きる人たちにとっての希望だろうか。それとも、外からやってきて「もう辛いものは見たくない」と感じてしまった自分本位の希望だったのだろうか。なぜシャッターを切り、発信する前に、人の声に丁寧に耳を傾けなかったのだろうか、と。

その後も「明るい話題」をメディアで耳にする度に、「自分は復興に携われていない」「自分は前向きになれていない」と義父の心が追い詰められていくのが分かりました。もちろん被災した方々の中にも、そんな未来を見据えるようなニュースに支えられる人たちはいるはずです。義父の「一本松」への思いも、街の方々が皆同じようにとらえているわけではありません。あの松を心の支えにしている方もいるでしょう。

ただ、義父の声を受けてから、伝える仕事は本来、声をあげられずにいる人々を置き去りにしないことが役割では、と自分自身に問いかけるようになりました。

今、伝えられている“希望”は、誰にとってものなのか。あの日の義父の言葉を胸に、今年の3月11日を迎えたいと思います。

(2020.2.24/写真・文 安田菜津紀)
※本記事はCOMEMOの記事を一部加筆修正し、転載したものです。


あわせて読みたい
2019-2020冬特集|【レポート】「幾度もの冬を越えて」(陸前高田市)[2020.1.23/佐藤慧]
【エッセイ】悲しみは雪解けのように[2019.3.11/佐藤慧]

世界各地での取材活動は皆様のご寄付によって成り立っております。世界の「無関心」を「関心」に変える、伝える活動へのご支援・ご協力をよろしくお願いいたします。

2020.2.28

Essay #Yasuda #Tohoku