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関東大震災から9年後、虐殺は「平時」にも起きていた

9月末になっても、岩手にしては珍しく、全身にまとわりつくような湿気が大地を覆い、山道を歩めばすぐに額に汗が噴き出す気候が続いていた。人間の背丈ほどもある雑草を分け入って、そろりそろりと山肌の急斜面を下っていくと、うっそうと茂る草木の合間からトンネルの入り口がのぞく。辺りは日中とは思えないほど薄暗い。飯森トンネルーー岩手と宮城の県境にまたがり、旧国鉄の大船渡線敷設工事の中でも、岩盤や水脈に阻まれ、最も難所と言われた場所だ。

このトンネルがある陸前高田市矢作町出身の伊藤郁夫さん(75)がぽつりと語った。

「過酷な現場となったこのあたりのトンネルでは、朝鮮人を“人柱”にしていたとも言いますね。あの頃の朝鮮の人たちは“人扱い”ではなかったと聞いています」

この“人柱”の話は、伊藤さんに限らず、度々この地域で語られることだ。

飯森トンネルの入り口。(安田菜津紀撮影)

大船渡線敷設工事中に起きた「矢作事件」

1923年、関東大震災の発災後、「朝鮮人が井戸に毒を入れている」「暴動を起こしている」等のデマが流布され、各地で虐殺が起きる。時折それは、恐怖や不安が蔓延した「非常時」に人々が陥る「集団の狂気」「群集心理の弊害」と評されることがある。けれども関東大震災から10年と経たないうちに、この陸前高田市矢作町(当時は岩手県気仙郡矢作村)では、「平時」にも関わらず「虐殺」が起きていた。

事件が起きたのは1932年5月4日のことだ。内陸の一関駅と大船渡市・盛(さかり)駅を結ぶ大船渡線、約106キロの鉄道工事が続く中、1931~32年にかけ、矢作周辺の3工区では、日本人労働者300人、朝鮮人労働者600人が工事に従事していたとされる。

その工区の中でも第13工区の日本人労働者約100名が、朝鮮人飯場や飲食店などを次々と襲撃し、朝鮮人3名が殺害され、公式に発表されているだけでも朝鮮人19人、日本人3人が重軽傷を負っている(日本人のうち1人は襲撃された朝鮮人の内縁の妻、もう1人は日本人同士の相打ちとされる)。

詳細は判然としていないものの、裁判記録によると、朝鮮人女性1人に対する性暴力もこの過程で起きている。この「矢作事件」の背景には何があったのか。

『岩手の重大犯罪・その捜索記録』より。(国立国会図書館所蔵)

「動物扱い」だった労働現場

飯森トンネルから続く矢作村周辺の工区は、過酷な現場が連なっていた。トンネルとトンネルの間の線路は、断崖絶壁を切り崩した斜面の中腹に敷かれ、足を踏み外せば、目下は岩肌や川の急流だ。命がけにならざるをえない危険な区域であることは、素人目にも明らかだった。

奈良女子大学教授、故・中塚明教授を班長とした東北地方朝鮮人強制連行真相調査団岩手班の調べによると、当時の日雇土木工夫の日給は平均1円30銭ほどだったのに対し、朝鮮人労働者たちは80銭、さらにそこから割高な日用品の購入を強いられることもあったという。過酷な肉体労働であった上に、日に12時間の労働を余儀なくされることもあったと、中塚教授は指摘している。

聞き取り調査や実地調査をまとめた『三陸の鉄路 その光と陰』(著・小野寺教郎)には、この大船渡線敷設工事の現場で働いたことがある、菅野青顔氏の証言が記載されている。

《朝鮮人の生活は、ムシロに寝かされて――動物扱いで、ものすごい世界だったんだ》

当時は日本の農村ももれなく、世界恐慌のあおりを受けていた。工事が進み人手が余ると、朝鮮人から解雇され、都合のいい「調整弁」のように扱われていたという。

そうした劣悪な状態からの待遇改善を求める動きが起こる中で、労働組合の中央部(東京)から、2人の朝鮮人が派遣され、朝鮮人労働者の代理で交渉にあたっていた。4月末には労働時間短縮、賃上げ、解雇手当など8項目を元請け会社の出張所や下請け人に対して要求し、2項目を除きそれが承認された。

そしてそれは、朝鮮人たちを「駒」や「調整弁」のように扱ってきた側としては「厄介なこと」だっただろう。その中でも、朝鮮人飯場頭の1人が起こした解雇手当の要求が、事件の「引き金」になったとされている。

飯場などがあった集落近くで。(安田菜津紀撮影)

「朝鮮人襲来」の噂まで飛び交い

事件当日夜、襲撃された現場それぞれを、伊藤さん、そして同じく矢作町出身で地元議員を務める藤倉泰治さんと共に巡った。国道沿いに、現場は4~5キロに渡って点在していた。解雇手当を要求していた朝鮮人男性が暴行されたことを皮切りに、襲撃者たちの数は次々と膨れ上がっていった。

最も凄惨な現場となったのは、梅木の「餅屋」で、ここは餅菓子の他、コップ酒やうどんなどを出すような店だった。労働組合から派遣されていた2人もここにおり、朝鮮人3人が、激しい殴打を受けるなどして惨殺されていくことになる。

伊藤さんの親族は当時、この「餅屋」のすぐ近くに住み、ただならぬ空気の中、「今は外に出るな」などと言われたことを記憶していたという。山林に身を隠した朝鮮人の「探索」は明け方頃まで続けられ、「気仙沼の方から朝鮮人の集団が襲来してくる」という不穏な噂まで飛び交っていたという。

「餅屋」の跡地は今、クルミ畑になっている。(安田菜津紀撮影)

警察での取り調べ記録や、『三陸の鉄路』などに記録されている関係者の証言をたどっていくと、殺傷力の高い道具を事前に購入したり、飯場での労使関係を用いて人を集めたりと、殺意や計画性があったことが克明に浮かび上がる。襲撃者の人数が膨れ上がる過程で、「朝鮮人を殺せ」といった声があったという証言が残っており、特定の個人というより、「民族」が標的にされたこともうかがえる。

「群集心理による突発的な事件」「自衛のため」というストーリー

ところが裁判では、朝鮮人たちの「凶暴性」が強調され、被告らの犯行が「自衛」のためであるかのような主張がなされていく。『三陸の鉄路』には、当時、飯場の下請け人だった男性の証言が綴られている。

《(元請けの有田組が)“嘘の証言してけろ”って言うんだもの。“朝鮮人に先に攻められたんで、こっちも襲撃した”っつう証言をしろって言うのっさ。謝礼はうんとすっから、と言われたが、そんな金もらっても仕方ねえもの》

被告側の弁護士は、次のような主張をしている。

《群数心理により突発的に惹起した犯罪事案なるのみならず、被害者たる鮮人は国も法律も認めない共産党系分子なるを以って、情量の上全被告に対し特に刑を減軽し、全部執行猶予の恩典に浴せしめられたい》

判決では、有罪判決が29名、罰金刑が24名であったが、被告人全員に殺意がなかったものとみなされた。

殺害された3名の遺体はこの墓地の一角に埋められ、後に関係者が掘り返し、遺骨を持ち帰ったとされる。右が伊藤郁夫さん、左が藤倉泰治さん。(安田菜津紀撮影)

こうした「ストーリー」は、後々まで公的機関で受け継がれていった。1959年に刊行された岩手県警本部『岩手の重大犯罪・その捜査記録』は、警察の内部資料を元に編まれたものだが、当時のことは「矢作騒擾事件」として記録され、朝鮮人の置かれた労働環境の問題には触れず、労働条件の改善を求める動きが、朝鮮人の「不当な要求」であったという論調に終始している。ちなみに当時の労働条件や手当の支給に関する要求は、朝鮮人のみならず、日本人にも適用される待遇改善だった。

警察の事実誤認、責任の所在は

この『岩手の重大犯罪』に対して、違った点で異議を唱えた人がいる。事件当時、矢作駐在所の巡査だった、小松原林作さんだ。林作さんはすでに故人となり、息子の進さんに話を聞くことができた。

進さんは1928年の生まれで、事件当時の記憶はほぼない。事件について具体的に父親から聞かされたのは、戦後になってからだという。

『岩手の重大犯罪』では、父の林作さんは、最初に襲撃された朝鮮人男性が駐在所に逃げ込んできた際、本署である盛警察署に連絡をしたものの、「小競り合い程度のもの」とし、報告、要請が不徹底だったとされているが、生前の林作さんはそうした記述の訂正を求めていた。

「父は事件当日夜、盛署に電話したところ、お花見で誰もいなかったと言っていました。電話口に出た人が、そんなものほっぽっておけ、と言ってきたとも」

小松原進さん。盛岡市内の自宅で。(安田菜津紀撮影)

警察組織内にて、初動の段階で事件に対する「誤認」があったことは間違いない。裁判記録には、事件翌朝に盛警察署長が盛岡地方裁判所遠野支部検事に宛てた電話報告があるが、その中では、押し寄せてきた朝鮮人に日本人が「対抗」して暴行した、と伝えているのだ。

こうした組織の責任を、現場の巡査に押しつけたかったのだろうと進さんは考えている。父の林作さんはその後、昇進の道が断たれ、進さんも同級生たちに「お前の父親は万年巡査だ」と揶揄されたという。自宅で当時を振り返るその手元には、関東大震災での虐殺についての新聞記事が置かれていた。

「日本が朝鮮に侵略し、朝鮮人に対する差別が関東大震災の事件を起こした。矢作で起きた事件も、同じことですよ」

地元で「タブー化」、伝承されない事件

この事件について、陸前高田市の住民たちに尋ねて回ると、この出来事が地元で「タブー化」していったことがうかがえた。事件記録を見てみると、確かに逮捕・起訴された関係者は、県外出身者が圧倒的に多いが、地元出身者も複数名含まれている。当時は農村恐慌にあおられ、周辺農家では工事に従事する者、家を提供する者など、皆、工事と無関係ではなかった。小さく密なコミュニティで、事件について口にすることも容易ではなかっただろう。

事件現場の周辺を見渡しても、当時を伝える碑文などはなく、ただクルミの木々が静かにたたずんでいるのみだ。市立博物館に問い合わせてみても、関連した所蔵品といえば、市が編纂した『陸前高田市史』などで、記載はごくわずかに留まる。それも、引用されているのは、記述に疑義の残る『岩手の重大犯罪』だ。市のなかで、まっとうな歴史継承がなされているとは言い難いだろう。

東日本大震災後の2012年1月、矢作の津波浸水区域で。(安田菜津紀撮影)

震災後、レールも撤去

2011年3月、東日本大震災の津波は、海から4キロ近く距離のある矢作駅周辺まで押し寄せた。「海側から煙のようなものが巻き上げられているのが見えて、地元の人たちは最初、火事だと思ったんです」と藤倉さんは語る。大船渡線は、気仙沼から盛駅までの区間が不通となった。今は同区間がBRT(バス高速輸送システム)に置き換わり、震災後にも辛うじて残されていたレールさえ、今はすでに撤去されている。つまり、事件を物語るものはほぼ全て、この地域から消し去られてしまったのだ。

関東大震災後の虐殺について、内閣府中央防災会議の報告書では、事件の背景に「無理解と民族的な差別意識もあったと考えられる」と指摘し、「過去の反省と民族差別の解消の努力が必要なのは改めて確認しておく」と記している。「善良な人間」が混乱の中で「衝動的に」動いてしまったというよりも、植民地支配という構造的な力関係の中、朝鮮半島出身者を見下げ、差別する「土壌」がすでに、日本社会に出来上がっていたのではないだろうか。

矢作事件が示すように、虐殺は「平時」にも起きる。だからこそ、暴力の土台と化してしまうレイシズムに、日ごろから警鐘を鳴らし続ける必要があるはずだ。

岩手県滝沢市、連行受難者追悼之碑前に咲くムクゲの花。(安田菜津紀撮影)

参考文献:
『公正から問う近代日本史』(藤野裕子「裁判記録にみる一九三二年矢作事件―包括的検証にむけた基礎的考察―)[吉田書店]
『岩手の重大犯罪・その捜査記録』[岩手県警本部編]
『三陸の鉄路 その光と陰』[三陸新報社]
『朝鮮人虐殺・矢作事件』[耕風社]
『陸前高田市史』第4巻

(2024.1.4/安田菜津紀)

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