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取材レポート

2021.9.7

長生炭鉱水没事故――その遺骨は今も海の底に眠っている

安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

安田 菜津紀Natsuki Yasuda

佐藤 慧 Kei Sato

佐藤 慧Kei Sato

安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

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佐藤 慧 Kei Sato

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安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

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安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

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安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

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佐藤 慧 Kei Sato

佐藤 慧Kei Sato

2021.9.7

取材レポート #戦争・紛争 #人権 #差別 #安田菜津紀 #佐藤慧

山口県宇部市、床波海岸。防潮堤を越え砂浜に降りると、コンクリートの柱のようなものが2本、海面に突き出ているのが見える。これは「ピーヤ」と呼ばれる排気・排水筒で、かつてこの地に「長生炭鉱」という海底炭鉱があったことを今に伝えている。

このあたり一帯に広がる宇部炭田は、海底炭鉱が中心となっており、山口県の石炭生産量のほとんど全量を排出していた。1932年に再開鉱された「長生炭鉱」も、その豊かな埋蔵資源にあやかり、1941年、開戦の年まで順調に出炭量を増やしている。しかし一転、翌1942年には急激に経営が傾くことになる。“水非常”と呼ばれる、水没事故が起きたのだ。
 

2本の「ピーヤ」が、波間で静かに佇んでいる。

いまだ海底に眠る犠牲者の遺骨

1942年2月3日早朝、坑口からおよそ1km奥へ入った坑道の天盤が崩壊し、海水が浸水、183人もの坑内労働者が命を失った。そのうち136人は、当時日本が植民地として支配していた朝鮮半島から強制連行された、あるいは生活苦から日本への渡航を余儀なくされた人々だった。「長生炭鉱」は別名「朝鮮炭鉱」とも呼ばれるほど、労働者の大部分を朝鮮の人々に依存し、その安価な労働力を踏み台に成長してきた企業だった。下記は「長生炭鉱」の鉱務課、『昭和15年4月起 集団渡航朝鮮人有付記録』に残されている、朝鮮人労働者に対して行われた訓示の内容である。

 皆様ヨク御出デニナリマシタ。サテ、皆様モ、カネテ御承知ノ通リ只今日本ハ戦争ヲ致シテ居リマス。就キマシテ吾々モ戦地ニコソ立タズ共第一線ニ居ル心持チデ、銃後ヲ守ラネバナラナイ重大ナ責任ガ御座マス。戦地ニハ、鉄砲ヤ大砲ヤ弾丸ヤ軍艦ナド、色々ナ機械ヲ沢山造ラネバナリマセン。其資材ヲ造ルニハ、第一ニ石炭ガ必要デス。其石炭ヲ掘ル皆様ノ一人一人ガ戦争ヲシテ居ル心持チデ一生懸命ニ作業ニ努メナクテハナリマセン。
 ソレガ即チ産業報国デアリ、忠義トナリ、出炭賞与ヲ戴クトカ、或ハ意外ニ沢山ノ金儲トナリ、御家族ノ方ヲ内地ニ呼寄セラセテ楽シク暮ラストカ、又送金ヲシテ喜バセルトカ、云フ様ニナルノデス。(中略)
 炭鉱ハ注意サエシテ居レバ誠ニ安心シテ作業ノ出キル所デアリマス。

出典:「日本の長生炭鉱水没事故に関する真相調査」

当時の写真を見ると、「ピーヤ」まで続く桟橋があったことがわかる。

炭鉱は“注意さえしていれば安心”と書かれているが、海底下40mにも満たない浅い海底坑道は、常に漏水が絶えなかった。事故の前年1941年11月30日には、すでに「坑内出水」があったと記録されている。多くの人命が奪われた事故の原因のひとつは「炭柱拂過」、つまり坑内の支柱の過度な除去だった。戦時の増産体制の中、坑道の安全規定は軽んじられていたという。「長生炭鉱」は、法令違反を犯しながら操業を続けており、水没事故は起こるべくして起こった「人災」であった。

そこが危険な炭鉱であるということは、当時近隣の日本人には周知のことであり、朝鮮人労働者が配置されるのは、決まって坑内奥深い――つまり危険度の高い作業現場だったという。天盤が崩壊し海水が流れ込んできたのは、そうした作業場よりも“入り口側”だったため、多くの鉱夫たちは一瞬のうちに脱出経路を断たれ、なすすべもなく犠牲となっていった。そうした人々の遺骨は、今なお暗く冷たい海の底に眠ったままとなっている。
 

「支配する側」に虐げられてきた無数の声


「2013年に追悼碑をつくりました」。そう語るのは、「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」の山内弘恵さんだ。会の前身は1991年に、「犠牲者全員の名前を刻んだ追悼碑の建立」「ピーヤの保存」「証言・資料の収集と編纂」を目的に設立された。その翌年以降、毎年事故の日付に合わせて韓国から犠牲者の遺族を招いた追悼集会を開催しており、証言・資料集も刊行、2013年には念願の追悼碑を建立した。

追悼碑広場には、当時の様子を伝える資料も展示されている。

「事故の後、当時の炭鉱関係者や地元の人々が建てた碑もあるのですが、そちらには亡くなった方のうち、136名が朝鮮人だったということが、何ひとつ書かれていないんですね」

2013年に完成した追悼碑は、ピーヤを模した2本のコンクリートの円柱でつくられており、右の追悼碑には「日本人犠牲者」、左の石柱には「強制連行 韓国朝鮮人犠牲者」と彫られている。その前の石板には、亡くなられた方一人ひとりの名前が刻まれているが、こちらも朝鮮人、日本人の名前の間には黒い線が引かれ、ふたつに分かれている。「当初はひとつの追悼碑を建立しようと思っていたのですが、朝鮮人犠牲者の遺族が、なかなかそれを受け入れられなかったんです」と、山内さんは語る。

8月15日は、日本では「終戦の日」として記憶されているが、韓国では日本による植民地支配からの解放を記念する「光復節」として、そして朝鮮民主主義人民共和国では「解放記念日」として、それぞれ祝日になっている。「終戦」や「戦後」という言葉は、あくまで日本側から見た視点に過ぎず、そうした言葉で時代を区切ったところで、加害の事実が消えるわけではない。今なお、日本社会に見られる差別や偏見、ヘイトクライムやヘイトスピーチは、加害の歴史を「自虐史観」と嘲笑し、きちんと向き合ってこなかったことと無関係ではないだろう。
 

「ピーヤ」を見ながら説明をする山内さん(左)。

炭鉱により強制動員された朝鮮人は、全員が寮生活を強いられていたという。寮の自由な出入りは禁じられており、脱走を企てようものなら、容赦なく暴力により制裁が加えられた。

長生炭鉱の寮の中に入ったとたん、周囲は人の背の高さの二倍くらいの高い板で囲まれ、どれほど力があってもよじ上れないような塀でした。寮から逃げて、運悪く捕えられ再び連れ戻された時には、素っ裸にされ「鉱夫たち、皆みなさい、リンチがあるから」と言って、木刀ではなく革の帯を持って、命が亡くなる程リンチされました。

元 長生炭鉱労働者 申世玉(シン・セオク)さんの証言

出典:「証言・資料集【1】 アボジは海の底」

「支配する側」に虐げられてきた無数の声は、自分が「支配する側」の属性を持っている限り、自ら向き合おうと耳を傾けなければ聞こえてこない。今なお海面から突き出るふたつの「ピーヤ」は、歴史にかき消されそうになっているそうした声を、今に伝えてくれるものでもある。
 

“わだかまり”をほぐしていく


「未だ果たせていないのが“ピーヤの保存”です」と、山内さんは「刻む会」の目的を振り返る。現在の「ピーヤ」は何の保護もないまま波風にさらされており、年々亀裂やコンクリートの破損が激しくなっているという。「全国的に見ても非常に珍しい遺構とのことです。せめて文化財にして頂けたら、誰かがいたずらをしたり、壊したりすることも防げると思うのですが……」と山内さんは言うが、この「長生炭鉱」の事故そのものが、まだまだ世間に知られていないという現実が立ちはだかる。

「事故があったのが1942年2月と、開戦の直後なんですね。あれだけ多くの人が亡くなった事故であったにもかかわらず、戦意高揚の雰囲気の中、新聞でもほとんど報道されず、ひた隠しにされてきました。歴史に埋もれた事故となってしまったんです」
 

「この一人ひとりに家族がいた」と、山内さんは犠牲者に想いを馳せる。

「なぜそんな昔のことをまだ言い続けてるの? と言われることがあります。そんなとき、『だって自分が誰かを傷つけてしまったとき、悪かったねって言うよね?』と、いつも思うんです。なぜそれができないのでしょうか。悪いなと思いつつも、その気持ちに知らん顔をしてしまったら、“悪いことをした”というわだかまりのようなものが、自分の心にもずっと残ると思うんですよね。そうした気持ちを引きずったまま生きていくのも、逆に辛いことなのではないでしょうか。まずは加害の歴史にきちんと向き合うこと。それができていないのに、“隣国と仲良くしよう”とか、“世界と手を繋ごう”なんて、本当に言えるのでしょうか」

「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」の最終的な目標は、海の底に沈む遺骨を掘り起こし、遺族の元へ返すことだという。戦争は、数えきれないほどの「犠牲者」を生むが、それは裏を返せば、それと同じだけの「加害行為」が存在したということだ。そうした加害責任は、あたかも「時の流れ」と「社会の無関心」に希釈されたように、個の責任として感じることが難しいものもあるだろう。けれど社会の一部、そして過去と未来の中間点に立つ自分自身を自覚することができたなら、その“わだかまり”をほぐすことで、より良い社会を目指すことのできる可能性にも気づくのではないだろうか。2本の「ピーヤ」は今も、波に打たれながら、その可能性を訴え続けている。

(2021.9.2 / 写真 安田菜津紀、 写真・文 佐藤慧)

 
 

【取材報告】山口県宇部市『加害の歴史と向き合う』-戦時の増産体制の歪み 183名の命を奪った長生炭鉱“水非常” _Voice of People_Vol.10

 


 
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2021.9.7

取材レポート #戦争・紛争 #人権 #差別 #安田菜津紀 #佐藤慧