2017年9月――ポーランド南部、オフィシエンチムに位置する「アウシュビッツ=ビルケナウ博物館」を訪れた。ナチ・ドイツによって行われたホロコーストの記憶の染み付いた敷地は、世界各国から訪れる多様な訪問客の姿と奇妙なコントラストを描いていた。
同地でガイドとして働く中谷剛さんは、「ここにはヒットラーの写真など、1枚も展示されていませんよね?」と、訪問者に語りかける。こうした歴史の惨禍を特定の個人の責任と矮小化してしまっては、社会の空気の中に、そして個々人の中に潜在的に眠る「差別・偏見の意識」や「優生学的思想」といった“危うさ”を見つめ直すことはできない。
加害の歴史と向き合うこと――それは国や民族、社会などという大きな枠組みに一体感を感じれば感じるほど、自身に刃を向けるような苦しさを伴うものかもしれない。けれど、そこから逃げて自己弁護をし続けているだけでは、同じ轍の上に続く悲劇への暴走を止めることはできないだろう。
そうした加害の歴史との向き合い方は、国や地域によって様々だ。「解放のための戦争だった」「従軍慰安婦など存在しない」「虐殺はなかった」――。そのような言説が、ネット上の一部に留まらず世に溢れ出てくる日本社会は、果たして「繰り返さない責任」を問えているだろうか。
「日本と比べて、“加害の歴史としっかり向き合ってきた”というイメージの強いドイツでも、実はタブーとして触れられなかった結果、ほとんど忘れられてしまった領域があります。例えば、収容所内での強制性労働に関する研究については、証言者の少なさも相まって、社会的認知は低いままです」
そう話すのは、「ザクセンハウゼン追悼博物館」でガイドを務める中村美耶さんだ。ドイツの大学で歴史学を専攻し、自身の研究分野を探している中で、収容所内の強制性労働の実態を知ることになったという。今回の記事では、中村さんにザクセンハウゼンを案内頂いた上で、「加害を見つめること」の意味を、事前取材の内容も踏まえてお伝えする。
様々な機能を備えた強制収容所
そもそも「ザクセンハウゼン強制収容所」とは、一体どのような場所だったのだろうか――。1936年7月、ベルリンの北部30kmほどのところにあるオラニエンブルクで、この収容所の建設は始まった。ナチ政権による“プロパガンダ・オリンピック”とも呼ばれる、ベルリン・オリンピックを翌月に控えた時期のことだ。
工事に従事させられたのはザクセンハウゼンの前身となる収容所や、軍刑務所に拘束されていた収容者たちだった。この強制収容所は、SS(ナチ親衛隊)のトップ、のちにヒトラー内閣内務大臣となるハインリッヒ・ヒムラーが、全ドイツ警察長官に任命されてから最初に設立された強制収容所でもある。そのためザクセンハウゼンは、収容者を閉じ込めるだけではなく、司令部やSSの訓練所としての機能も併せ持っており、SSの思想・世界観・絶対的な権力などを誇示する意図も反映されていた。
「ザクセンハウゼン記念館内部を歩いているとわかりにくいのですが、敷地全体が三角形になっており、収容施設もその形に沿い配置されていました。その収容施設の並ぶ三角形の底辺の中心に“監視塔A”と呼ばれる建物があり、有名な“ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)”という標語の記された門があります。ここが収容者たちの唯一の出入口でした。この監視塔は当時収容所内で最も高い建物だったのですが、ここには機関銃が備えつけられており、収容所の敷地内全てを“狙い撃てる”構造になっていました」
イギリスの哲学者、ジェレミ・ベンサムは18世紀末には既に、囚人管理のための全方位展望システム――「パノプティコン」の構想を発表している。その構造には「権力の自動化」というシステムが組み込まれていると、後にフランスの哲学者、ミシェル・フーコーは指摘している。「パノプティコン」そのものはザクセンハウゼンのような三角形ではなく、円の中心に監視塔を配置するというものだが、効率的に、そして一方的に監視することで、“常に監視されている”という意識を囚人に内面化させるシステムとしては、同様の思想に基づいているといえるだろう。
収容されていたのは基本的に男性で、1936年から1945年の解放までに20万人ほどの人々が連行されたとみられている。設立当初は共産主義者や社会民主主義者、労働組合のメンバーや、あるいはそうした思想とは無関係ではあるものの、ナチ体制に批判的だった人々が連行された。そのほかにも「常習犯罪者」と呼ばれた人々や、定職が証明できなかったために「労働忌避者」とされた人、ナチにより、「社会風紀を乱す“非社会的”な人物」とみなされた人々なども強制的に収容されていくことになる。
ユダヤ人収容者の数は「帝国水晶の夜(※)」をきっかけに急激に増加し、わずか数日の間に6千名ほどがザクセンハウゼンに拘禁された。「人種主義政策」の標的にされた彼らは、苛烈な暴力を受け苦しめられた。
ドイツによる他国の占領・戦争開始後は、チェコスロバキアやポーランド、ソビエト連邦などの東欧諸国や、フランスやオランダ、ノルウェーなどの西欧諸国からも、戦争捕虜や政治犯とされた人々が連行されてくるようになる。1944年には収容者の90%が外国籍で、その多くをソ連やポーランドからの収容者が占めていた。
ザクセンハウゼンは、アウシュヴィッツのような収容者の殺戮を目的とする「絶滅収容所」ではなく、ナチ政権が「民族共同体」にそぐわないとみなした人たちを隔離する「強制収容所」だった。しかし、「強制収容所」でも大量虐殺は実行された。ザクセンハウゼンにおいて契機となったのは、1941年秋に起きたソ連の戦争捕虜に対する大量虐殺だ。約1万3千人の捕虜たちは、SSには「実験用のモルモット」のように映ったと言えるだろう。彼らは「効率的な大量虐殺を実現するためにはどのような方法がよいのか?」という問いを掲げ、約1万3千人の捕虜を、わずか2ヶ月半の間に虐殺した。
この時に試された方法の中でも、特に「うなじの一撃(収容者の射殺)」と呼ばれた虐殺方法は「効率的」と解釈され、1941年12月に「ステーションZ」という新たな施設の建設が開始された。
そこには「うなじの一撃を実行する場所」「ガス室」そして「遺体を焼く焼却炉」が備わっており、「殺す」→「焼く」という一連の犯罪がこの施設内で完結する造りとなっていた。ちなみに施設名の由来は、“収容者たちは「監視塔A」から(生きて)入り、「ステーションZ」から(死んで)出ていく”という、おぞましい比喩だ。
ザクセンハウゼンで命を落とした人の数は史料の紛失、焼失などにより正確には把握できていない。戦後63年に編纂された「死者の書」には、ザクセンハウゼンの犠牲者2万人以上の名前が記されているが、実際の犠牲者数は推定5~6万人とされている。
加害のシステムに組み込まれていく人々
「ザクセンハウゼンの門をくぐると、収容者たちが閉じ込められていた区域に入る前に、かつてのSSの訓練所の横を通過します」
この訓練所の存在もまた、ザクセンハウゼンを特徴づける機能のひとつだが、果たして「SS」、中でもザクセンハウゼンに配置されたSSとは、どのような人々の集まりだったのか。元ザクセンハウゼン追悼記念館館長のギュンター・モルシュ氏の論文によると、SSの構成員には傾向があり、いくつかの類型に分けられるという。
まずあげられるのは、「古参闘士」と呼ばれる世代の、強制収容所所長レベルの役職に就いたSSだ。第一次世界大戦時の従軍経験に強い影響を受けた彼らは、市民生活になかなか戻れずにいた。そのような状況で、ナチの戦闘組織に自己実現やキャリアの可能性を見出したのだ。
こうした人々はナチが権力を掌握するとすぐに、強制収容所に居場所を見つけ、短い期間に各地で様々な役職に就いた。初代ザクセンハウゼン強制収容所所長カール・オットー・コッホも、こうした経歴を持つ。彼の周囲は、それぞれの職場(強制収容所)で知り合った、生い立ちや学歴、政治思想、性格の似た者で固められた。
次のタイプは、ザクセンハウゼンの下級指揮官であるSSだ。ここでは2種類の類型が見られる。ひとつは、第一次世界大戦時に10代の時間を過ごした世代だ。彼らはナチが権力の座に就く前から、ナチ組織、特にSSに入隊しており、権力掌握直後に強制収容所に配属されている。SSの幹部世代よりも少し若く、多くが社会階層の下層出身、職業訓練も修了していない者が多かったが、SS幹部とは仲間として固く結びついていた。彼らはこうした上層部との個人的なつながりのおかげで、コネを使ってザクセンハウゼン強制収容所に職を得たと考えられる。
もうひとつの類型は、それよりもさらに下の世代、当時20歳から25歳だった者たちだ。彼らの多くは職業訓練を修了しており、他に選択肢がなかったからとか、将来の見通しに(社会的、個人的に)途方に暮くれていたからという消極的な理由ではなく、ナチの思想に「確信」を持っており、この体制の中でキャリアを形成するために、自ら進んで強制収容所で働くことを望んだ者たちだ。
この類型に属する人々は、他の類型に属する者たちとは明らかに一線を画する、新しいタイプの加害者だった。彼らは野心家で狂信的、そして加害行為に容赦がなかった。この中の少なくない者がSS幹部まで昇りつめ、強制収容所の歴史に(悪)名を残している。
「決して一般化はできないのですが……かつていじめられた経験を持つ人が、SSの特権的な地位を得たことで、過去のルサンチマンを収容者に対してぶつけていたという話も残っています」と、中村さんは上記ギュンター氏の類型を紹介しつつも、「こんな風にSSをカテゴライズすることは可能だと思いますか?」と、訪問者が自身で考えるキッカケとなるよう問いかける。
ある者は無意識的に、そしてある者はそこに打算や正義を見出しながら、絶対的な権力を誇示するSSの一部として、途方もない加害を行うシステムに組み込まれていく。
下の写真は、アウシュビッツ博物館の資料室に残る、当時のSSや強制収容所監視員の“教科書”だ。言葉は最小限で、イラストで「良い例」と「悪い例」を示している。収容者はあくまで「支配・管理する」ものであり、少しでも自由な振る舞いをさせてはいけないという意図が見て取れる。
「報酬システム」としての強制性労働
このように現在では、強制収容所、および絶滅収容所内で行われてきた数々の残虐な所業が明らかとなってきてはいるが、いまだに光の当てられていない部分があると中村さんは言う。
「ロバート・ゾンマー氏という研究者の書籍や論文に詳しいのですが、こうした収容所のいくつかでは、“強制性労働”に従事させられた女性たちが存在しました。現在のドイツは戦時中の加害行為に向き合うための様々な学習機会、施設などがありますが、こうした性労働については、まだまだ知られているとは言えません」
当時労働力不足に直面していたドイツは、強制収容所の収容者たちも労働力として駆り出した。しかし収容者たちは、劣悪な収容環境により衰弱しており、ナチが望んだほどの労働力にはならなかった。そこでSSはIG Farge(イーゲー ファルベ)という合成ゴム会社と共同で、「報酬システム」を考案・導入、その“報酬”の一部が強制性労働を基にしたものだった。
「報酬をぶら下げれば、労働力も高まるだろうという期待のもとに、です。しかし低い労働力は身体的な衰弱によるものだったので、この報酬システムは実際にはほとんど何の効果もありませんでした。このシステムの一環として考案された“売春宿”ですが、これはヒムラーの独断だったと言われています」
「史料が少ないのでまだ分かっていない点も多いのですが、“売春宿”に行けるかどうかは労働内容とは直接関係なかったようです。大きなファクターは、人種と収容所内でのポジションだったと見られています。例えば、ドイツ人はナチの世界観では人種ヒエラルキーの頂点です。加えて、SSや監視員とコミュニケーションが取れる(ドイツ語が話せる)という利点のために、収容者をまとめる立場にある人もいました。こうした『機能囚人(いわゆる“カポー”)』と呼ばれるポジションの彼らは、他の収容者とは異なる処遇を受けることがあり、このような人たちの中に、売春宿に通った人々がいたようです」
単純に働いた報酬というよりは、成果を出した“褒美”という意味合いが強かったようだが、実際にその成果がどのように評価されていたのか、どれぐらい客観的な基準に基づいていたかなどはわかっていない。
また、同性愛を理由に収容された男性が、SSによって“売春宿”に行くことを強いられたり、そうした収容者自身が、当時の価値観で言われるところの“男性性”を示すために売春宿に出向いたりするケースもあったという。
「性労働を強制された女性たちは、ラーヴェンスブリュック女子収容所に拘束されていた人たちでした。彼女たちの多くは、ナチ体制の目に“ふしだら”と映り、“ドイツ社会の風紀を乱す”とレッテルを貼られたせいで、強制収容所に送られました。そうした女性は、現在把握されているだけでも200名以上いたと言われています」
しかし、そうした“ふしだら”である、“反社会的”であるというレッテルは、けっしてナチだけが作り出したイメージではなく、当時の社会に長きに渡って底流していた差別意識に、体制がお墨付きを与える形で発露してきたものだという研究もある。
「ナチの『人種主義政策』を色濃く反映した制度であり、基本的には同じ民族間での性行為しか認められていませんでした。ポーランド人の収容者にはポーランド人の女性が、ドイツ人の収容者にはドイツ人の女性があてがわれました。また、ナチにユダヤ人と見なされた人やロシア人の収容者は“劣等民族”と見做されていたため、子孫を残す可能性のある性行為そのものが禁止されていました」
記録に無いからといって、“なかった”わけではない
「このような人々は戦後の補償の対象にもなっていません。補償は“宗教的に迫害された人”、“人種的、政治的に迫害された人”に限られており、前述のような女性たちは含まれていませんでした」
「強制性労働に従事させられていたとみられる200人強の女性のうち、政府に対して補償を求める申し立てをしたのは4人に過ぎず、その中でも強制性労働について言及した人は1人だけです。中には、色々な役所をたらいまわしにされたり、そこで冷たい仕打ちを受けたりする中で、自分の性被害の経験を話すことに強い心理的抵抗を覚えた女性もいました」
加えて、当時強制収容所に収容されていた“被害者”からの加害行為であるということが、その被害を見えづらくしているという。
「加害と被害が混然一体となってしまう面があります。いわゆる“売春宿”のようなところを使用したのは被収容者たちです。強制収容されたという面では被害者ですが、女性たちにそうした行為を行ったという面では加害者としての側面も一概に否定できません。なので、“そういう場所があるというのは聞いたことがある”、“見たことがある”という証言はあっても、“私もそうした所を利用していた”という証言は、ほとんど残っていないのです」
戦後しばらく経った80年代に、歴史学や様々な分野で「日常史」というものが重要視されるようになると、戦後補償の対象外であった人々の声をくみ上げる人々や組織が現れ、社会に一定の影響力を与えるようになっていく。しかし性に関する被害については、社会の中でタブー視される雰囲気が長かったせいで、証言がほとんど残っておらず、時の経過とともに証言できる人がいなくなってしまった。そのため史料に限りがあり、研究がなかなか進まないという難しい面があるという。
「歴史学の視点からは、“文字になっていないもの”、“記録として残っていないもの”は中々取り上げることが難しい面があります。記録に無いからといって、“なかった”わけではないのですが、本人が声をあげられない問題を明らかにし、そこにあった加害行為と向き合っていくためには、まだまだ多くの課題があります」
「葛藤」と向き合う教育の意味
中村さんはガイドを務める上で、「感情的になって聴く人を圧倒しない」ことを心がけているという。
1976年、政治教育学者らが議論して発表した「ボイテルスバッハ合意」が、ドイツにおける政治教育の基本原則にもなってきた。下記がその、3つの項目だ。
②論争性:学問と政治の世界において議論があることは、授業においても議論があることとして扱わなければならない。
③生徒志向:生徒が自らの関心・利害に基づいて効果的に政治に参加できるよう、必要な能力の獲得が促されなければならない。
「ザクセンハウゼンは若い人たちを脅す場所ではないし、収容所を追体験させる場所でもありません。私自身は、葛藤を自分の中で持ってもらえたら、と思っています。一度その葛藤が生まれたら、その後もきっと、考え続けると思うんです」
現在のドイツ社会は、パレスチナ・イスラエルを巡る「葛藤」を抱えている。ドイツ政府がイスラエルに軍事支援を続ける一方、公共放送の世論調査によると、イスラエルの軍事行動を「支持しない」と答える市民が過半数を上回っている。
同時に、移民・難民やイスラム教の人々を排除する動きなど、自国中心主義に傾倒する人々も一部に見られ、既に政治の場でそうした政策を掲げる政党も存在する。
気がついたら、「自分も大きなシステムの一部として思考・行動するようになっていた」という轍を踏まないためにも、自身の属する社会の加害性や、そこから生じる「葛藤」について冷静に向き合う必要があるのは、日本も同じではないだろうか。
(2024.4.25 / D4P取材班〔佐藤慧・安田菜津紀〕)
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