沖縄戦と福島原発事故―トラウマと向き合い生きる(蟻塚亮二さんインタビュー)
沖縄での診療経験から、2010年に沖縄戦による晩年発症型PTSDを発見・報告した精神科医の蟻塚亮二さん。東日本大震災後の2013年からは、福島県相馬市の「メンタルクリニックなごみ」にて診療を続けています。沖縄と福島ーー二つの地を往復する中で、共通する構造や痛みに気づいていったと、蟻塚さんは言います。
数十年経ってから発症する戦争のトラウマや、避難した人々にとって日常的に「かさぶたをはがされ続ける」原発事故の影響。そして、過去の戦争を総括してこなかった日本やアメリカの責任について考えました。
Contents 目次
何十年も経ってから発症する、晩年発症型PTSD
※本記事では実態をお伝えするために、PTSDの原因となった体験や希死念慮について具体的な記述をしている箇所がありますので、ご注意ください。
――沖縄戦による「晩年発症型」のPTSD(心的外傷後ストレス障害)について、2010年に初めて報告されました。
ものすごく強烈なトラウマ、恐怖感にのまれてしまうような体験をした後、それが頭の中にフラッシュバックしたり、眠れなくなるなどの状態をPTSDと言います。日本でこの言葉がある程度一般的に知られるようになったのは、阪神淡路大震災の頃ですね。
PTSDの概念が生まれたのは、ベトナム戦争に行ったアメリカの兵士がきっかけです。帰還後に戦争当時のことを思い出して夜眠れなくなったり、ベトナムで子どもを殺したことがフラッシュバックして自分の子どもを抱くことができないといった色々な症状が兵士にたくさん出ました。
こうした帰還兵のグループが、精神科医のアドバイスのもと自分たちの症状をまとめ、アメリカの精神医学会と交渉した結果、PTSDはアメリカの精神医学界の診断基準に載るようになりました。
これは戦争後遺症をアメリカが認めたことになるので、補償金を払わなければなりません。そこで政治的な駆け引きがあり、6ヶ月以内に人が死ぬような場面を見たとか、危うく殺されそうになったとか、そういったトラウマを負った人が発症した場合をPTSDとするという「6ヶ月縛り」を作ったのです。すべての症状をPTSDと認めると、補償金が莫大になるからです。
しかし、日本の精神医学会は、「6ヶ月以内に強烈なトラウマ的な体験をした場合がPTSD」というアメリカの診断基準を、政治的な背景などは抜きに、そのまま導入してしまいました。だから、東京大空襲や沖縄戦のPTSDというのは念頭になかったんです。
私が沖縄で診療してきた中で、戦後60何年も経ってから眠れなくなって、当時のことがフラッシュバックする方がいたので、これはPTSDではと思い、アメリカの政治的背景のことをあとから調べて知りました。
今から5、6年前のことですが、アメリカの退役軍人省(United States Department of Veterans Affairs)に設置されている「国立PTSDセンター」(National Center for PTSD)のホームページに、50年前のベトナム戦争に従事した人たちに関する警告文が出ました。今70歳を過ぎてから当時のことがフラッシュバックしたり、眠れなくなったりする症状が出ているから気をつけろというものです。アメリカも、晩年発症型のPTSDを認めたのです。
なぜ後になってから発症するのか
――20代、30代の時には自覚するような症状がなくても、晩年になって発症するというのはなぜですか?
私が経験した範囲で言うと、例えば沖縄で牧場をやり、かなり成功した男性が、仕事を息子に譲って、毎日の仕事がなくなったら眠れなくなったという例があります。そして沖縄戦当時、家族で逃げている時に、妹が機関銃で撃たれて、はらわたを出して24時間唸りながら死んだ場面がフラッシュバックすると。その人自身はお母さんの背中におぶわれていて、お母さんが機関銃で撃たれて倒れ、泥水の中で泣いていたのを助けられたそうです。
仕事を一生懸命やっていて、年をとって、友達が亡くなったり、仕事を息子に譲るなどしてから、戦争の時のフラッシュバックが出てきたという例です。
また、年をとってから仏壇を見るたびに、あるいは「クリスマス」とかカタカナ言葉を見る度に、自分の兄弟が全員殺されてしまったことを思い出してフラッシュバックするようになったという方もいます。
社会的な活動に参加している時は充実した自己というものを持っていますが、老年になってそれを喪失した時に、その心の隙間に、過去の一番辛かった記憶、今まで見ないようにしていたものが、ぽっと入ってくるのだと思います。
――フラッシュバック以外にも色々なケースがあるのでしょうか。
一番多いのは、1時間おきに目が覚めて眠れないとか、不眠ですね。
また、6月23日が沖縄の慰霊の日ですが、老人ホームなどで今日の日付も分からないような認知症のお年寄りたちが、沖縄の南部半島で住民たちが生きるか死ぬかでさまよっていた5月頃になって温度や湿度が上がってくると、夜眠れなくて叫ぶ。いわゆる「命日反応」ですね。福島でも3.11が近づくと眠れないという人がいっぱいいます。
それから、体の症状になって現れるのが、「身体表現性障害」です。
沖縄戦の時に14歳で、お母さんと一緒に機関銃の射撃の中を逃げて、その時に死体を踏んだとか、赤ん坊が道で泣いていたけれども見殺しにして逃げたという罪悪感を持った女の人がいました。
とても真面目な人で、学校の先生になって沖縄で平和運動などしていたのですが、ちょうどミッドライフクライシス、「中年の危機」にぶつかる55歳の頃、自分でもなぜか分からないけれど、足が熱くなって痛むという症状で寝られなくなりました。沖縄はもちろん、東京や海外まで行って治療したけれど、治らなかった。神経内科の医者から、「あなたは将来寝たきりになって、認知症になる」と宣告されて諦めていました。
その人がたまたま私のところに来たのですが、沖縄戦のPTSDの高齢者をいっぱい診た後だったので、これは戦争だとすぐに分かり、うつ病ではなく戦争のトラウマだと言って、薬を変えました。すると約10か月後に足の痛みは全部治って普通に歩けるようになり、戦争の語り部を始めたということがありました。
それと同じようなことが福島の相馬でもあって、津波の後の遺体捜索に従事した非常勤の消防団の男性が、1か月後に眠れなくなり、右足が痛くてしかたがなくなって、車のブレーキやアクセルを踏めなくなった。整形外科に行ったら坐骨神経痛と言われ、心療内科に行ったらうつ病と言われた。
1年後に私が相馬に赴任してその人を診たのですが、1時間おきに目が覚めるような不眠であれば、PTSDの90%はそのような特殊な不眠だから見当がつくので、これはトラウマだと。薬を変えたら、3ヶ月後に治りました。
「かさぶたをはがされ続ける」日常
――沖縄では戦後も基地負担は変わらず、米兵による凄惨な事件もくり返し起こされてきました。戦争によるトラウマを多くの人たちが負った上に、それがケアされる社会になるどころか、非常に過酷な状況が続いてきたことが社会にもたらす影響も大きいのではないでしょうか。
頻繁に米兵による事件や事故が起き、夜11時を過ぎてもオスプレイが飛ぶような、戦争と地続きで生活していることは、トラウマを負った人たちにとっては、傷口が癒えないんですね。かさぶたができたと思ったら、またはがされる。PTSDが回復する条件がなかったと言えます。
それは原発事故避難者も同じだと思います。全国に避難したり、生きるのが辛くなっている時、汚染水の海洋投棄や原発再稼働のニュースが入るたび、またかさぶたをむしられる。自分たちがこんなに苦労して生活してきたことには何も意味がなかったのかと思う。そういう社会の構造的な暴力によって、傷口を広げられてきたということですね。
――例えば東京でも空襲でたくさんの命が奪われており、戦争によるトラウマ症状を背負っている方々は潜在的にまだいるのではと思います。晩年発症型に限らず、PTSDに対する認知度はまだまだ低いのではないでしょうか。
低いですね。東京大空襲の第一世代の人たちはもうかなり高齢で、眠れなくて受診すると、おそらく「老年期うつ病」などの病名がついて曖昧にされている人が多いのではと思います。
東京大空襲の国家賠償訴訟をやっている団体のパンフレットを見た時に、事務局次長だった人が、高齢になってから眠れないとか、昔のことを思い出すと書いていて、これはPTSDだろうと思いました。東京大空襲の国家賠償訴訟団の人でさえも、自分はPTSDだと気がついていない。
その裁判では、一人の精神科医が東京大空襲のトラウマの中からPTSDが出てくるということを総論的には言っていますが、各論的な医学意見書として述べたものではありません。東京大空襲のPTSDの例は山ほどあるはずですが、学会レベルでもそれが出てきていません。
「震災よりも、その後生きてくるほうがつらかった」
――蟻塚さんは沖縄にも通い続けながら、2013年4月からは福島県相馬市の「メンタルクリニックなごみ」の所長を務めています。この10年余り、届いてくる声に変化はありますか。
10年ぐらい経って、ある時患者さんに「10年間、本当に頑張って生きてきましたね」と言ったら、「先生違うの。震災よりも、その後生きてくるほうがつらかった」と言われました。
震災前は、例えばあと10年経ったら孫の顔を見られるかもしれない、といった未来のロードマップがあった。未来の当てがあるから、貯金しようとか、前を向いて生きようとなるわけですが、震災でそれが吹っ飛んでなくなってしまったんです。
こちらの塾の先生が言っていましたが、震災前に比べてチャレンジ精神をもって東京などの大学に進学しようという若者が減っていると。親たちも非常に萎縮的になって、未来が縮小していくようなメンタリティが多いですね。
この辺は明らかに政治の責任です。やはりそのためには、不条理に対して怒ることとか、悲しみは否定しないで悲しむこととか、そんなことを訴えたいと思いました。
――公権力が強調する「復興」した、もしくはするんだという言葉と、蟻塚さんが向き合ってきた方々の様子や声との間には、やはり乖離があるのでしょうか。
福島にいると震災は全く終わっていないんですね。3.11の朝に「じゃあ行ってくるよ」と出かけた夫が津波にのまれて帰ってこず、遺体もあがらないという女性が、「夫の遺体が見つからないと、私の人生が始まらないんです」と、10年経ってもまだそう言っているんです。
2022年の時点でですが、震災後の11年間で全国では児童虐待が3.5倍に増えたところ、福島県では7倍に増えていた。福島県の浜通りでは9倍に増えました。
こうした問題を抱えた子どもたちが大きくなると、10年後、20年後にうつ病やPTSD、適応障害、自殺、アルコール依存症などにつながります。こういう問題に政府も福島県自体も無関心です。
犠牲の上に成り立ってきた日本
――沖縄と福島、それぞれの歴史や背景は異なりますが、この2つの地を往復することで見えてきた、共通点のようなものはありますか。
沖縄は、本土防衛のために捨て石にされました。一方、福島に原発ができたのは、東北が明治以来、労働力や電力、鉱物資源や林業、食料などの資源提供の植民地的な基地になってきたからで、その一つの象徴的な結末が原発事故だったのではないかと思います。
本土防衛や、産業振興のための犠牲が沖縄戦であり、原発事故だった。どちらも国策被害です。そう考えると、日本はいつも何かの犠牲の上に成立してきた。
日本は平和だ、憲法9条は世界一だと言うけれども、沖縄の犠牲の上のものですよね。戦後の日本の経済も、朝鮮戦争の犠牲の上で復興したわけです。
――パレスチナ・ガザ地区の友人が「もし停戦を迎えることができたら、真っ先にしたいのは、メンタルケアを受けることだ」と語っていました。
体がもうひとつあったら、私も行ってガザの人たちと向き合いたいのですが、それができません。イスラエルがあんな暴力的なことをやっていて、なおかつアメリカがそれを支持している。
イスラエルの暴力的なことにきちんとした対応ができないというのは、アメリカも日本も、もちろんイスラエルも、戦争責任に向き合って総括できてないということだと思います。
私たちは日本の戦争にどう向き合い、日本の戦前をどう総括して、今戦争に「ノー」と言うのか、ここをきちんと論理的に考える必要があると思います。
――日本では戦後とにかく経済優先で、まるで人間が駒のように扱われ、何かあれば自己責任が振りかざされる社会が続いてきたと思います。こうした社会にあって、今どのような支えが必要とされているのでしょうか?
中学生の時から死にたいと繰り返してきた若者が、ある時クリニックに電話をかけてきて「蟻塚先生の診察が終わってからでいいから話を聞いてほしい」と。その子はバイト先のコンビニの店長に「お前なんか来年専門学校に行ったって、ガールズバーに行くのがオチで、そんなお前の未来なんてないよ」と言われたと。それでカンカンに怒って、これは誰かに言わなきゃいかんと、私のところに来たんですよ。
私は、「不条理に怒ることは偉いんだ」と言いました。しかも電車賃までかけてここに来るなんてすごい、と。
実は他にもう一人、子どもの頃から性暴力を受けてきた女の子が私のところに通っているのですが、その子にメンタルクリニックに行くように言ったのも、彼女なんです。
つまり、マイナスとマイナスと言ったらおかしいけれど、トラウマを持った人たち同士が助け合っていた。マイナスとマイナスの人たちが助け合ってプラスの未来を語る。これが希望だなと思いました。
簡単に今の世の中がよくなるわけではないけれど、こんなとんでもない社会と、やっぱり闘っていこうというメッセージを伝えたいと思っています。
※本記事は2024年6月5日に配信したRadio Dialogue「福島・沖縄・戦争――そのトラウマと向き合う」を元に編集したものです。
(2024.6.26 / 聞き手 安田菜津紀、 編集 伏見和子)
【プロフィール】
蟻塚亮二(ありつか・りょうじ)1947年福井県生まれ。弘前大学医学部卒業。2010年に沖縄戦による晩年発症型PTSDを発見し、報告。2013年ケンブリッジ大学で開かれた「島の戦争研究会」や、2014年に開催された「ヨーロッパ・ストレス・トラウマ・解離学会」にて、「沖縄戦によるPTSD」について報告。2013年4月から福島県相馬市・メンタルクリニックなごみ所長。著書に、『沖縄戦と心の傷』『悲しむことは生きること』など。
■ 映画『生きて、生きて、生きろ。』(監督:島田陽磨)
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