「戦争で死んだ人をもう一度殺すようなもの」―沖縄「慰霊の日」 遺骨の見つからない姉思い、声をあげる
6月18日、衆議院議員会館の多目的ホールは、約200名分の席がぎっしりと埋まっていた。この日は沖縄戦遺骨収集ボランティア・ガマフヤ―が、政府交渉を行い、辺野古米軍新基地建設に、多くの戦没者遺骨が残る沖縄本島南部の土砂を用いることについて、岸田首相の訪沖前に断念を表明するよう求めた。
長年、遺骨収集を続ける具志堅隆松さんが、防衛省や内閣府、警察の関係者が並ぶ前に、本島南部から運んできた、乾いた土を広げる。
「この中には遺骨があります」――具志堅さんにそう問いかけられて目を凝らしても、土砂とほぼ同色と化した遺骨を、小石や竹のかけらと見分かることは、私にはできなかった。
「採石業者が遺骨かどうか見分けるのは無理でしょう」
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遺骨の眠る南部の土地
具志堅さんが問いかけても、防衛省側は、「新たに発注する工事の埋め立て土砂の調達先は決まっていませんが、御遺骨の問題は真摯に受け止める必要があると認識しており、適切に事業を進めていく」等、通り一遍の返答を繰り返すのみだった。
その“適切に”の中身は何か。遺骨土砂の使用まで、“適切”の中身に含まれているのか、木で鼻を括ったような回答の堂々巡りでは、明らかにならなかった。
“埒が明かない”やりとりがつづく中、ひとりのご遺族が席から立ち上がり、防衛省関係者らに歩み寄った。
「私の一番上の姉、宮平道子は当時、結婚したばかりでした。南部の真壁で亡くなったようですが、遺骨は残っていません。父方の祖父母もです。具志堅さんが持ってきたこの中に、土になって眠っているんじゃないかと思います」
家族への思いを語った小橋川共行さんは、静かにこう続けた。
「この土砂を使って海を埋めてはいけないと思います。姉が、祖父母がまた、海の中に埋められる、そう感じます。上司に言うのは難しいかもしれませんが、勇気を出して……お願いします」
結局この日、政府から明確な回答は返ってこず、具志堅さん、小橋川さんは沖縄に戻り、抗議の意を込めてハンガーストライキを行うことになった。
山で鉄屑を拾いつないだ生活
小橋川さんの両親は沖縄戦時、大阪に働きに出ており、小橋川さんはその出稼ぎ先で1942年に生まれた。日本の敗戦後、一家は半ば追い立てられるように沖縄本島・首里に引き上げた。両親が「大阪での貯金を引き出す暇もあたえられなかった」と語っていたのを覚えている。戻ってからの生活は、食べるもの、着るものもままならない生活だった。
「芋のでんぷんを絞ってそれを売り、その残りかすと葉を食べてしのいでました。着るものは米軍から払い下げた“PW”(Prisoner of War)と書かれた服。つまり、米軍が捕虜に着せていたものでした」
「家の近くに戦車の残骸があって、その中でかくれんぼをしたりとか、鬼ごっこをしたりとか、そんな時代です。僕たちの友達の兄は、拾った弾丸が爆発して目をやられ、違うクラスの子が不発弾で遊んでいて亡くなった、ということもありました」
小学校2、3年の頃、家計の足しにするためによく、近くの山にスクラップ(屑鉄)を探しに行ったという。大きな砲弾の破片を見つければ、喜んだ。朝鮮戦争の影響で、業者に持っていけば高く売れた時代だ。
「崖みたいな、急な道を根っこづたいに歩いて行ったら、バケツみたいなものが置いてあって、いい足場だと思って踏んだんです。でもそこには、誰が拾い集めたのか、遺骨がいっぱいに詰まっていて。骨は山の中でよく見ていましたが、こんなにたくさんの遺骨を踏んだのは初めてだったから、よく言われる“祟り”があるんじゃないかと恐くなりました」
小橋川さんは大人になり、銀行に勤めるようになる。
「沖縄の社会のために尽くす、社会貢献をしていく、というのが本来のその銀行の方針だったんです。ところが復帰して、それががらりと変わり、日本のいち地方銀行として、生き残ろうと、利益追求一辺倒になっていったんです。それでつまらなくなって……」
子どもが好きだった小橋川さんは、その後、免許を取り、教員となった。縦割りや管理が強められていく現状に違和感を抱き、教頭や校長になるための試験も受けず、現場の教師を定年まで続けた。
10年前に初めて知った姉の存在
実は一番上の姉、宮平道子さんの存在も、彼女が沖縄戦で犠牲になったことも、10年ほど前まで知らなかった。道子さんは小橋川さんとは母親が違い、結婚して沖縄に残っていた。亡くなった当時、まだ19歳だった。小橋川さんの兄が、戸籍の情報から道子さんの結婚相手の親族に聞き取りを行い、初めてその人生の一端を知ることになった。しかし兄はその事実を長年の間、小橋川さんには伝えずにいた。それが10年ほど前、病に伏した兄から、姉の存在を告げられたという。
「兄は大病を患っていたので、死を覚悟して私に伝えてきたんだと思います」
兄や両親が道子さんのことをなぜ語ってこなかったのかは分からない。「言わなかった」のか「言えなかった」のかも定かではない。ただ、生活に追われる日々の中で、ゆっくりと家族同士で話をする余裕などなかったのだろうと小橋川さんは振り返る。
具志堅さんが拾い集めた、小さな骨のかけらを最初に見たときの衝撃は忘れられないという。
「もう風化してしまって、石ころなのか木切れなのか、見分けがつかない。祖父母や姉の遺骨もこの中にあるかもしれない」
だからこそ、本島南部の土砂を用いて、辺野古の基地建設が進められようとしていることは、「絶対許せないと思いました。戦争で死んだ人をもう一度殺すようなものだ」と、反対の声をあげてきた。
「国のための追悼式ではないか」
具志堅さんたちは6月20日から22日まで県庁前でハンガーストライキを続け、沖縄慰霊の日である23日には、糸満市摩文仁にある平和祈念公園へとテントを移していた。
ところが、県へのテント設置申請にあたり、用紙にはなぜか「設置者」ではなく「使用者」全員の名前の記入が求められた。「テントの設置は、戦没者遺骨のDNA鑑定申請の周知を行うことに限る」とされ、遺骨土砂使用に反対する横断幕や、募金箱の設置なども一切認められなかった。配布物、掲示物も事前確認が必要で、寄付の呼びかけ部分などを削除するよう求められた。
これらの確認は警察と「調整」しているのか? 当日、テントの様子を見に来た県の保護援護課担当者に尋ねてみても、「県の独自の判断」であると繰り返した。
こうした措置は、「静謐な環境」のために必要なことだという。県の担当者は「追悼の場で意見をのべるのはどうかという指摘が、電話や議会でもあった」と、その理由を説明する。そのやりとりの傍らで耳を傾けていた遺族のひとりが、思わずこう声をあげた。
「遺族のためではなく、国のための追悼式ではないか」
小橋川さんも「静かに、ということ自体が無理な注文だと思うんです」と語った。
「県民投票に示された、辺野古軍事基地反対の沖縄県民の意思を尊重するんだったら、我々も静かにできます。でも、今の政府というのは、それに反していると思うんですね。そんな状況で、遺族として、心穏やかに慰霊をするということは到底無理なんです。黙っていても心の中は煮えたぎっているんです」
「何年か前から安倍さんが来たとき、『帰れ!』『何しに来た!』と声があがりましたが、あれはたまりかねてそう言っているんです。私も叫びたいぐらいですよ」
小橋川さんは小さい頃から、周囲の大人たちに、「軍隊がいるところは攻撃を受ける」という話を聞かされてきた。辺野古基地建設や自衛隊配備などが進む状況に危機感を抱く。
「沖縄を再び戦場にしていいというような方針を持ちながら、岸田首相が追悼の辞をのべる――うわべだけで、嘘をついている、我々を騙そうとしている」
昨年から続く礎の「警備」
ここで少し、昨年の慰霊の日を振り返ってみたい。2023年のこの日、平和祈念公園周辺では、過去最多だという人数の警察官が警備にあたっていた。公園の駐車場にずらりと並ぶ警察車両は、県外ナンバーが目立っていた。遺族らはこの駐車場が使えず、離れた指定の場所に車を止め、バスを待つか、炎天下を歩くかを余儀なくされた。
そして、犠牲者の名が刻まれ、多くの沖縄戦遺族が亡くなった人を悼みにくる「平和の礎」の中まで、警官たちが集団で入りこみ「巡回」し続けた。ときには訪れた人を呼び止め、職務質問までする。
「平和の礎」に近接する場所では、沖縄全戦没者追悼式が行われ、岸田首相らも参列していた。大量の警官は、誰の何を守るために派遣されたのだろうか。
沖縄では、旧日本軍が住民をスパイ視し、虐殺していった過去がある。「本土」から派遣され、追悼の場を練り歩く警官らは、沖縄の人々が強いられたそんな構造的暴力や根深いトラウマを、どこまで知っているだろうか。
ちなにみ昨年は、具志堅さんたちのテントの設置自体が認められなかった。
そして今年、同じことが繰り返された。県外の機動隊のシャツを着た警官が、警棒を手に、犠牲者の名の前で手を合わせる遺族らの間を縫うように、礎の中を周っていた。
「政府の重要人物はここには来ないはずです。出て行って下さい、お願いします」「聞こえていますか、お願いします」。何度、小橋川さんたちが呼びかけても、警官たちは無反応のままだった。
月桃の実、姉に重ね
小橋川さんにひとつ、気になっていたことを尋ねてみた。6月18日の政府交渉に持ってきていたクバ笠についた、「月桃」の実だ。
「姉については、遺骨も、手がかりになるものも、思い出もありません。でも僕は、二番目の姉にとてもかわいがってもらっていたので、もしも一番上の姉がいたら、同じようにかわいがってもらえたんだろうなと思ってるんです」
「東京に行き、みんなの前で話をするのはやっぱり、心細いことで、この実をつけると、姉も一緒にいるというような気持ちになっただろうなと思っていました」
性暴力事件、県に3ヵ月、伝達されず
今年の式典でも、岸田首相が参列者に「挨拶」をしたが、「沖縄は、凄惨な地上戦の場となりました」「戦乱の渦に巻き込まれ」という他人事のような言葉が続いた。「戦場にした」「巻き込んだ」のは誰なのか、その主語がすっぽりと抜け落ちていたのだ。
そしてその2日後、米空軍兵長が、16歳未満の少女に対する性暴力で起訴されたことが発覚する。しかし事件が起きたのは昨年12月であり、外務次官がエマニュエル駐日米大使に対し「綱紀粛正」を求めたのは、今年3月27日だという。外務省は少なくとも約3ヵ月、沖縄県に事件のことを伝えなかったのだ。県側が事件を知ったのは6月25日、報道を通してだ。つまり、県議選も、慰霊の日も、全て過ぎてからのことだ。
慰霊の日の式典には、岸田首相のみならず、上川陽子外務大臣も参列していた。彼女たちは沖縄に、何をしに行ったのだろうか。
その後も続々事件が発覚し、1月には不同意性交等の容疑で、5月下旬には不同意性交等致傷の疑いで、それぞれ米海兵隊員の男が逮捕されていたことが分かった。
あの慰霊の日の式典で、岸田首相が語るべきは、ごく一部の米軍基地跡地利用を誇ることでも、沖縄戦の犠牲を「尊ぶ」ことでもなかったはずだ。「沖縄ならいいだろう」といわんばかりの姿勢を改めない限り、加害は繰り返されるのではないか。
Writerこの記事を書いたのは
Writer
フォトジャーナリスト安田菜津紀Natsuki Yasuda
1987年神奈川県生まれ。認定NPO法人Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル/D4P)フォトジャーナリスト。同団体の副代表。16歳のとき、「国境なき子どもたち」友情のレポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材。現在、東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で難民や貧困、災害の取材を進める。東日本大震災以降は陸前高田市を中心に、被災地を記録し続けている。著書に『国籍と遺書、兄への手紙 ルーツを巡る旅の先に』(ヘウレーカ)、他。上智大学卒。現在、TBSテレビ『サンデーモーニング』にコメンテーターとして出演中。
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