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【エッセイ】アジアを解放するのだという思い上がり――飯田進さんのこと

80年前の8月も、まとわりつくような湿気と熱気に覆われていたのだろうか。心の中がどこかざわめき、落ち着かない夏。この“ざわざわ”の正体は一体何だろうか。

あれは大学生の頃だった。戦後64年の夏に、64歳年上の飯田進さん(当時86歳)と東京新聞の企画で対談をさせてもらうことになった。飯田さんはニューギニア戦線に派兵された元BC級戦犯だ。その後も度々飯田さんの元を訪れては、少しずつ、当時のこと、そして今の時代を見つめる心の内を伺うことになる。

BC級戦犯とは、「通例の戦争犯罪」や「人道に対する罪」に問われた人々のことを指す。ニューギニアに派兵された1943年、飯田さんは二十歳になった頃だった。補給路を断たれた上に、“魔境”と呼ばれるほどのジャングルの中をさまよい歩いた。部隊の大半が、銃撃戦ではなく飢えや赤痢でばたばたと死んでいった。病に侵された兵たちが、「殺してくれ」と自身の腕の中でうめきながら亡くなっていった風景を、ありありと思い出すという。

戦況が不利に転じていくにつれ、次第に「ゲリラ」の存在に脅かされていくことになる。「ゲリラ」というのはあくまでも、日本軍側の目線でしかない。地元住民たちからすれば、日本兵こそが自らの土地への侵入者なのだ。

飯田さんが「ゲリラ」の首謀者として疑いをかけた現地住民の殺害に関わったのは、その頃だった。殺害したのはある村の村長だった。ところが後に、彼は「ゲリラ」の首謀者ではないことが分かる。当時を振り返りながら飯田さんは語る。「自分たちこそがアジアを解放するのだ」という思い上がりを、嫌というほど痛感させられた、と。

「“解放”しようとしていた現地住人たちから、あれほど憎しみの目で見られたのだから」

「興亜青年」だったという飯田さんが、それまで信じて疑わなかったものが打ち砕かれた瞬間でもあった。日本の植民地主義がもたらした、紛れもない現地住民たちへの加害に、飯田さん自身も加わっていたのだった。

飯田さんが敗戦後を過ごしたのは、GHQが戦犯を収容していた「スガモプリズン」だった。「スガモプリズン」は現在の池袋サンシャインシティにあたる場所にあった。収容の最中、朝鮮戦争が勃発し、元職業軍人たちが次々に警察予備隊に入隊していった。その様子に、飯田さんは獄中で憤ったという。

「再び戦争へと向かっていくなら、自分たちは何のためにここで裁かれているのか」

その「時代の流れ」の中で、飯田さんは1956年に釈放されることになる。

スガモプリズンにいた頃の飯田進さん。(本人提供)

晩年の飯田さんと言葉を交わしながら、その表情に憤りよりも深い悲しみがにじんでいることを感じていた。安保法制、武器輸出の要件緩和――飯田さんが思い描いていた「戦後」とは“逆コース”をたどろうとしていた。

「これまで何度となく戦争の体験を語ってきた。それは徒労に近い作業だったのかもしれない」

想像力と現実との間には大きな開きがあるのだ、と飯田さんは語る。

「例えば100分の1、ときには1000分の1しか伝わらないことが多々あるだろう。何百回語っても、無意味に近かったのかもしれない、と思うときがある」

ひと呼吸置き、飯田さんはさらに続ける。

「それでも語らずにはいられないのはね、同じことを繰り返してはいけないということを、身をもって知っているからなんだ」

飯田さんは2016年、93歳でこの世を去った。あの“ざわざわ”の正体は、飯田さんの投げかけを受け止めたはずの自分が、果たして具体的な行動に移せているのかという焦燥感のようなものかもしれない。

BC級戦犯として裁かれた人々の中には、日本の旧植民地出身者が多数含まれていた。彼らは戦時中は「皇国臣民」として徴兵・動員され、「日本人」として裁判にかけられたが、戦後、サンフランシスコ平和条約の発効によって日本国籍を失い「外国人」とされた。その結果、日本人元兵士が受けることのできた援護措置(恩給や弔慰金など)から排除されてきたが、国がその不条理を省みることはほぼなかった。そのうえ今は、南京事件の否定など、加害の歴史の存在そのものまでを堂々と「なかったこと」にする政治家までいる。

80年前の敗戦と、植民地主義の反省に立つならば、「どうこれからの被害を防ぐか」に留まらず、「私たちが加害者にならないために何をなすべきか」、ということを含めての反省であるべきではないか。

飯田さんの自宅にて。



Writerこの記事を書いたのは
Writer
フォトジャーナリスト安田菜津紀Natsuki Yasuda

1987年神奈川県生まれ。認定NPO法人Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル/D4P)フォトジャーナリスト。同団体の副代表。16歳のとき、「国境なき子どもたち」友情のレポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材。現在、東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で難民や貧困、災害の取材を進める。東日本大震災以降は陸前高田市を中心に、被災地を記録し続けている。著書に『国籍と遺書、兄への手紙 ルーツを巡る旅の先に』(ヘウレーカ)、他。上智大学卒。現在、TBSテレビ『サンデーモーニング』にコメンテーターとして出演中。

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