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原子力災害「遺構」としての熊町小学校―福島県大熊町「帰還困難区域」に残る地域の歴史

帰還困難区域内にある自宅(背後)を前に語る遠藤瞭さん。(佐藤慧撮影)

ひんやりとした空気に包まれたかつての住宅街には、絶えず生い茂る草木の間から、コロコロと虫の音が優しく響き渡っていた。

「当時は小学校4年生でした。この辺りから登校班を作って、熊町小学校まで歩いて通学をしていました」

人の背丈ほどある雑木に覆われた自宅を前に、遠藤瞭さんは当時の記憶をゆっくりと語り始めた。



「帰還困難区域」と変わりゆく景色

10月12日、一般社団法人「大熊未来塾」と「おおくまふるさと塾」の共催で、「遺構と地域の未来を語り合う場」の第3回目となる「そこにある『価値』 広島から」が開催された。「廣島・ヒロシマ・広島を歩いて考える会」代表の多賀俊介さんを招いてのワークショップに先立ち、同日午前中には、熊町小学校卒業生の遠藤さん、大熊未来塾代表の木村紀夫さんの案内によるフィールドワークが行われた。

東京電力福島第一原発での事故により、1号機から4号機までが立地している大熊町は、町全域が「避難指示区域」および「警戒区域」となり、全町避難となった。遠藤さんは地震当日、余震が続く夜を車中泊で過ごしたという。翌12日、徒歩で大熊町役場に向かい、そこからバスでの避難となった。

その後2012年12月には「警戒区域」が再編され、このうち町民の約95%が居住していた地域が「帰還困難区域」に設定された。

遠藤さんの自宅は、2025年10月現在も「帰還困難区域」の中にある。

15歳未満での「帰還困難区域」への立ち入りは自粛が要請されており、遠藤さんが自宅の様子を見に戻ることができたのは、15歳の誕生日を迎えた直後、2015年10月のことだった。地震の影響のみならず、空き巣の侵入や野生動物が入った跡もあり、家の中はすでに荒れ果てていた。

その後、大熊町の中でも「避難指示」が解かれた地区には、新たに役場や地域の拠点などが建設されている。一方、除染で出された大量の廃棄物を保管する「中間貯蔵施設エリア」は、2045年がその保管期限とされている。遠藤さんの自宅は、「帰還困難区域」の中でも「特定帰還居住区域」に指定されており、2020年代末までの避難指示解除が目指されている。家屋などの公費解体の申請期限は、他自治体などでも概ね「解除から1年」となっており、これからまた風景が大きく変わっていくとみられる。

「新しい建物がたくさんできた場所、これから建物がどんどんなくなっていく場所、あと20年ほどはそのまま取り残されている場所――。様々な面を見た上で、熊町小学校のことを一緒に考えていきたいと思い、私の家も案内させてもらっています」

遠藤さんの自宅の居間。(安田菜津紀撮影)



熊町小学校が語る地域の歴史

中間貯蔵施設エリア内の建物を「遺構」として保存する検討を始める――。そう地元紙が報じたのは、2025年4月のことだ。その候補のひとつが、熊町小学校だ。この秋から年明けにかけ、町民や学識経験者を交えた協議会を設置する方針が示されている。

大熊未来塾代表理事の木村紀夫さんの自宅は、事故を起こした原発から約3キロ離れた沿岸に建っていた。周辺は地震による津波で壊滅しており、現在は中間貯蔵施設エリアとなっている。

当時小学校1年生だった木村さんの次女、汐凪(ゆうな)さんは、震災後行方が分からなくなっていた。全町避難となった大熊町では、自力での捜索にも限界があった。

環境省に依頼し、ようやく重機での捜索を開始した2016年秋、泥だらけのマフラーとともに、汐凪さんの小さな首の骨が見つかった。2022年1月には、沖縄で戦没者遺骨収集を続ける具志堅隆松さんが捜索に加わり、大腿骨が発見された。周辺では今も、汐凪さんを探す作業が続けられている。

当時汐凪さんが通っていた熊町小学校は、原子力災害があったことで、結果的に「あの日」の姿のまま残っている場所だ。汐凪さんの机のある1年2組の教室も、まるで昨日まで生徒がいたのではないかというほどに、生活の痕跡をとどめている。

「これまで多くの人を案内してきましたが、みなこの場所を見ると衝撃を受けるんです。ある学生が言っていました。福島第一原発を訪れるより、ここを見る方が原子力災害が『自分事になる』と」

熊町小学校を案内する木村紀夫さん。(安田菜津紀撮影)

小学校の靴箱周辺には当時のまま靴が散乱している。(安田菜津紀撮影)

かつて児童らの走り回っていた校庭は草木に覆われていた。(安田菜津紀撮影)

積み重ねられてきた時や記憶を表象するものは、校舎だけではない。

大正時代に植えられたとされる桜の古木は、人の手入れが届かなくなり、蔓(つる)に侵食され枯れているものもある。同じく100年近い樹齢と推定されるプラタナスには、誰がいつ立てかけたのか、梯子(雲梯の上部)が呑み込まれるように食い込んでいる。

緑豊かなクスノキは、宇宙飛行士の秋山豊寛さんが講演に来たことを機に植えられたという証言がある。まるで巨大なパラソルのように枝をぐんぐん伸ばすスダジイは、2000年代初頭に6年生を担当した教員が、子どもたちの卒業を機に植樹したと関係者は言う。活動を続ける中で少しずつ、こうした「樹々にまつわる物語」が、木村さんの元に集められてきた。

「これは学校の歴史であり、地域の歴史でもあるんです。解体されてまっさらになってしまえば、それもなくなってしまう」

梯子を呑みこみ成長を続けるプラタナス。(佐藤慧撮影)



広島の遺構から学ぶ

午後から行われたワークショップでは、大熊未来塾の義岡翼さんから、前提共有と趣旨説明が行われた。

「熊町小学校は中間貯蔵施設内でもあり、自由に出入りができず、解体も視野に入れた保存活用を検討せざるをえない状況です。だからこそ“なぜ”保存するのかを考える必要があるのではないかと思います。これまでのワークショップの中でも、データやVRなどの記録だけでは担保できない価値がある、あの場所にあるということが重要な要素になっているという声がありました」

「原子力災害の遺構として考えたとき、エネルギーに依存しているこの社会全体で抱えている問題であり、大熊町だけの問題ではないということも忘れてはいけないと思います」

ワークショップで趣旨説明を行う大熊未来塾の義岡翼さん(左奥)。(佐藤慧撮影)

広島から招かれた多賀さんからは、市内の遺構を残すまでの過程が語られた。

「戦後まもなくは、原爆ドームを“残さにゃいけん”ということを考えるどころではない状況でした。ただ被爆10年後くらいから、ドームが段々崩れてきて、残すか残さないかの議論が始まります。被爆者へのアンケートでは、『お金をかけてまで残す必要がない』あるいは『見たくない』『見れば思い出す』という声も寄せられたそうです」

保存のひとつのきっかけとなったのは、子どもたちからの声だった。

「あの痛々しい産業奨励館(現在の原爆ドーム)だけが、いつまでも、恐るべき原爆を世に訴えてくれるだろう」――16歳で白血病により亡くなった楮山ヒロ子さんが残した日記の言葉に応えようと、地元の小中高生らが保存運動に動いたのだ。

「原爆ドームは中には入れません。だから“利活用をどうするか”という話にはなりませんが、世界中の人たちが見に来ます。存在そのものに価値があると考えられます」

世界中から多くの人々が訪れる「遺構」となっている原爆ドーム。(安田菜津紀撮影)



「存在」そのものの価値

多賀さんは、旧陸軍の被服支廠で15歳の時に被爆した故・中西巌さんとともに、その保存運動に携わってきた。軍の服や靴、防毒マスクなどを製造、保管していた場所だ。

「軍の施設であり、被爆し、臨時救護所になり、そして今も残っている、世界最大級の被爆建物はほかにはないでしょう」

被服支廠の4棟のうち、3つを県が管轄し、保存は1棟のみで当初検討されていたが、中西さんやその体験をつなげようとする次世代が、解体に反対の声をあげた。

「1棟だけでは、本当の規模感は伝わらない」

広島県議会では、保存に資金を割くことや、軍都・廣島の「加害の歴史」を物語るものを残すことに後ろ向きの声があがっていた。

「ひとつ大きかったのは県知事の判断でした。被服支廠の担当を財産管理課から、新設した専従班へと移したんです」

その後、被服支廠は国の重要文化財に指定され、4棟すべてが保存されることになった。県の態勢強化を含め、そこに至るまでには市民らの地道な働きかけや活動があったと多賀さんは振り返る。

「学習会やフィールドワークを重ねることで、様々な方がつながりを持つようになり、ある地元の女性は『いらないと思っていたけれど、実際に現場に行って話を聞いたら、大事なものだと思うようになった』と、活動に関わるようになりました。『そんなんいらんよ』という人に対しても、『ちょっと来てみて下さい、一緒に現場で考えてみましょう』という機会を活かすのは、大切なことだと思います」

多賀さんは午前中に行われたフィールドワークにも参加した。原爆ドームなどと異なり、熊町小学校は中間貯蔵施設エリア内にあり、自由に立ち入りができない難しさがある。それでも、学校が今の姿のままであることに意味があると、多賀さんは語った。

「広島には、原爆被害にあった小学校の建物の一部が資料館などの形で残っていますが、子どもたちのその時の様子が残っているわけではありません。熊町小学校の姿というのは他にはないもので、残してほしいと思います」

2022年10月、被服支廠を案内する多賀俊介さん。(安田菜津紀撮影)



「場が開かれている」ことの重要性

この日はアメリカ南西部で、ウラン採掘や核廃棄物の設置・移送に反対の声をあげ、「核植民地主義」の問題に取り組んできたDiné(ナバホ族)出身のレオナ・モーガンさん、先住民族のコミュニティの近くでウラン採掘がおこなわれてきた南アフリカで、人々の権利確立のために活動するリディア・ピーターセンさんも駆けつけた。

「これはこの地域だけの問題ではなく、グローバルな問題です。共に連帯していきましょう」と、リディアさんも会場に呼びかけた。

熊町小学校をはじめ、帰還困難区域に残る建物をどのように「遺構」として残していくのか、あるいは残さないのかといった議論はまだ始まったばかりだ。

2024年7月末時点で、町内の住民登録は620世帯、815人。そのうち帰還者は274人に留まり、震災当時の人口11,505人を大きく下回る。帰還した人、そうしたくでもできない人、すでに異なる地での生活が根付きつつある人、震災当時の住民ではないが、内外から関わろうとする人――。異なる立場から意見や意思を集約し、議論をすることは容易ではないかもしれない。それでも、「場が開かれている」ということそのものが重要なのではないだろうか。

次回はこれまでの総括として10月19日、「シンポジウム~遺構と地域の未来を語り合う場 第4回~」が予定されている。

チームに分かれて議論を深める参加者たち。右端は自身の経験を伝えるレオナ・モーガンさん。(安田菜津紀撮影)

Writerこの記事を書いたのは
Writer
フォトジャーナリスト安田菜津紀Natsuki Yasuda

1987年神奈川県生まれ。認定NPO法人Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル/D4P)フォトジャーナリスト。同団体の副代表。16歳のとき、「国境なき子どもたち」友情のレポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材。現在、東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で難民や貧困、災害の取材を進める。東日本大震災以降は陸前高田市を中心に、被災地を記録し続けている。著書に『国籍と遺書、兄への手紙 ルーツを巡る旅の先に』(ヘウレーカ)、他。上智大学卒。現在、TBSテレビ『サンデーモーニング』にコメンテーターとして出演中。

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