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水俣取材から見える植民地支配の暴力――鉄道工事犠牲者碑に刻まれた朝鮮人労働者の名前

不知火海からの潮風が吹く丘には、つやつやとした柑橘の実がたわわに連なっている。熊本県水俣市やその周辺地域では、水俣病事件による健康被害と海の汚染で、陸に上がることを余儀なくされた漁師たちが、柑橘の栽培を広げていったという。

芦北町女島で。(安田菜津紀撮影)
10月に掲載した記事、『チッソの加害は植民地から引き継がれた―水俣と朝鮮、暮らしから見えるその歴史』では、水俣病の原因企業であるチッソの加害が、植民地から地続きであったこと、チッソのような企業を利用した日本政府の責任などについて、少年時代を朝鮮で過ごした石牟禮智さんたちの証言と共に伝えた。
チッソは植民地において、数万人に移住を強いることになる危険度の高い工法でダム建設を推し進めたとされる。その建設や、工場の街となる現在の朝鮮民主主義人民共和国の「興南」地域の「開発」には、建設会社の間組(現・安藤ハザマ)なども携わっている。
ぐねぐねと急坂を這う山道をのぼっていくと、木々の間にひっそりと佇む肥薩線・大畑駅(人吉市)にたどり着く。2020年夏の豪雨以降、大畑駅含め運休が続き、人の気配はほとんどない。その駅の傍らに、難工事で死亡した労働者の慰霊碑として、1908年に建立された、間組の「鉄道工事中殉難病没者追悼紀念碑」が残されている。

間組の「鉄道工事中殉難病没者追悼紀念碑」。(安田菜津紀撮影)
碑文中には、韓国京畿道の「崔吉南 三十三歳」の名が刻まれていた。この時すでに、朝鮮半島出身者が、危険な現場での作業にあたっていたのだ。

碑文に刻まれた犠牲者の名。(安田菜津紀撮影)
敗戦前、「強い国」「強い経済」のため、チッソや関連企業、そして政府が「共犯関係」となり、支配は拡大していった。それは常に、「犠牲にしてもいい」と見なされた人々の上に成り立ってきた。果たしてその構造的な暴力から、現代社会は脱却しきれているだろうか。
Writerこの記事を書いたのは
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フォトジャーナリスト安田菜津紀Natsuki Yasuda
1987年神奈川県生まれ。認定NPO法人Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル/D4P)フォトジャーナリスト。同団体の副代表。16歳のとき、「国境なき子どもたち」友情のレポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材。現在、東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で難民や貧困、災害の取材を進める。東日本大震災以降は陸前高田市を中心に、被災地を記録し続けている。著書に『国籍と遺書、兄への手紙 ルーツを巡る旅の先に』(ヘウレーカ)、他。上智大学卒。現在、TBSテレビ『サンデーモーニング』にコメンテーターとして出演中。
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